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愛知県名古屋市中区 名古屋城
Nagoya Castle,Nakaku,Nagoya city,Aichi 


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名古屋市中区本丸1 名古屋城 西南隅櫓 重文 近世以前/城郭 桃山 慶長17(1612)頃 二重三階、本瓦葺 19301211
名古屋市中区本丸1 名古屋城 東南隅櫓 重文 近世以前/城郭 桃山 慶長17(1612)頃 二重三階、本瓦葺 板札1枚 19301211
名古屋市中区本丸1 名古屋城 西北隅櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 元和5(1619) 三重三階、本瓦葺 19301211
名古屋市中区本丸1 名古屋城 表二の門 重文 近世以前/城郭 桃山 慶長17(1612)頃 高麗門、本瓦葺 19301211
名古屋市中区本丸1 名古屋城旧二ノ丸東二之門 重文 近世以前/城郭 桃山 慶長17(1612)頃 高麗門、本瓦葺 19750623
名古屋市中区本丸1 名古屋城二ノ丸大手二之門 重文 近世以前/城郭 桃山 慶長17(1612)頃 高麗門、本瓦葺 19750623

March 17, 2019 野崎順次 source movie

愛知県名古屋市中区
名古屋城二之丸庭園


現地説明板、アプローチ

     

二之丸東庭園
二之丸庭園は、文政年間(1818〜30)に十代藩主斉朝(なりとも)によって、それまでの姿から大きく改変整備され、二之丸御殿に付属する築山や池、茶屋が点在する回遊式庭園となった。その範囲は「御城御庭絵図」によれば、二之丸の北部から東部中央にかけての広大なものであった。
二之丸は明治以降、昭和20年(1945)まで陸軍の管理下に置かれ、二の丸御殿は破却されるとともに、二之丸庭園の東部は練兵場や兵舎の建設のために築山の削平や池の埋め立てが行われ、その姿を失った。
昭和51年(1976)の発掘調査により北園池・南池・霜傑(茶屋)などの遺構が確認されるとともに、それらの遺構を中心として整備を行い、昭和53年(1978)から「二之丸東庭園」として開園した。
(現地説明板)

南池
文政年間(1818〜30)に整備された二之丸御庭の姿を描いた「「御城御庭絵図」では、庭園の東南部を大きな池が占める。池には舟が浮かび、北岸に大きな舟形の一枚岩が張り出し、中央に石を組んだ中島が描かれる。
昭昭和51年(1976)に行われた発掘調査により池の遺構の一部が確認された。池の石組の石は多くが抜き取られていたが、形状はよく残っており、大きく深い池であったことがうかがえる。
(現地説明板)

                      

霜傑(茶屋)跡で結婚記念写真撮影
   

国名勝 名古屋城二之丸庭園
この二ノ丸庭園は、北の御庭と南の御庭の二つの庭がある。北の御庭には、北部に大築山を設け、これに渓谷式の石組を中心とする石組を豪華に用い、上部に石橋を架けているが、この上部に石橋を架ける様式が玉澗流の特色である。下部に池庭を設け、出島を南北に設け、中島二島を作っている。池庭が非常に深く掘られていることも桃山期の特色であるが、同時に宗箇の個性であり、石組が全体に豪快を極めている。
別に北部と西部に築山を設け、これまた豪華な石組を見せ、いずれも蓬莱山水としての石組であり、自由自在な手法に心を打たれるものがある。
南の御庭には中央に大きな出島があり、その背後が築山となり、この付近に蓬莱式の枯滝石組を中心として多数の石組が見られる。それらの石組はずいぶん豪華を極めている。これらの築山石組には三段式の滝石組としての手法を見せてあり、巨石を立てて豪華を極めているし、奥部に三尊石組を見せ、手前の小中島には切石橋を架けてあるが、この切石橋は後補と考えられる。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」名古屋城旧二之丸庭園より)

 

北御庭、権現山南部の池庭、池が深く剛健な石組である。

            

それから

     

石を積み上げた笹巻山とらせん状の栄螺山

                       

北御庭から前庭へ

          

枯池あたり

             

二之丸広場

    



March 17, 2019 野崎順次 source movie

愛知県名古屋市中区三の丸3丁目
名古屋城三の丸庭園
(San-no-maru Garden of Nagoya Castle, Naka-ku, Nagoya City, Aich Pref.)

三の丸庭園は、陸軍将校クラブ偕行社の南庭として明治14年(1881)から明治17年(1884)頃にかけて、表千家の吉田紹和宗匠の指導の下に二の丸庭園南御庭の一部、東南中央の渓谷と渓流の部分を移築造園したものです。本庭園及びその周辺にある樹木の中には、名古屋城築城当時植栽されたものや、武家屋敷のものと推定される樹木があり、郭内の残存樹木として貴重なものとなっています。また、庭石は佐久間石、篠島石、定光寺石等郷土の名石のほか紀州産の青石などの大石を用い、豪快かつ優美さを出しています。本庭園の構成は、外堀の土塁を背景として、樹木がうっそうと茂り、深山幽谷の趣を持つと共に、池と石橋、枯滝、石洞、石舟(長さ3m)、出島などを巧みに配置した豪壮で優美な枯山水の庭となっています。
(文化のみち二葉館ウェブサイトより)


著者は昭和十一年八月十四日、当時歩兵第六連隊の将校集会所となっていた旧二ノ丸庭園を調査し、その足で午後雷雨後三之丸を調査したところ、図らずも山林中に本庭を発見した。
(中略)
さて本庭は全面積約三百五十坪で旧居館の南庭となり、池泉はY字形が東西に長く作られ、東部に渓谷を設けて、その奥に築山があり、ここに枯滝が作られている。
この枯滝の石組は一種の竜門式石組とされ、左右の滝添石は特に巨石を立て剛健な手法を示している。そしてこの付近の渓谷には、多数の豪華な石組を用い、中央右手には重ねて枯滝手法と護岸石組を兼ねたものがあって、これまた剛健な手法を見せ、左手にも巨岩を組み、下部に豪快な自然石の橋を架けて、その奥には洞窟を見せている。
石橋を渡って南西に進むと築山が続き、そこには蓬莱遠山石を用い、その手法は同じ桃山期庭園の粉河寺庭園や、徳島千秋閣庭園の手法を似ている。したがって本庭の作者は、上田主計正宗箇あたりではないかと考えられるが、確たる文献に接しないので作者は不明であるが、ともかく当代庭園として傑出したものである。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」名古屋城旧三之丸庭園より)

以上の説明にあるように、この庭は明治14年(1881)から明治17年(1884)にかけて、二之丸庭園の一部を移築造園されたものである。その後、荒廃したが、昭和11年に重森三玲によって発見された。名古屋市公館の南側、久屋橋を南から北に渡った右側に現存する。

久屋橋を渡ると、入り口が見える。その付近。

    

核心部に向かう。築山左の砂利の平坦地を進むと石舟、石橋がある。

           

石橋の奥正面は枯滝、左手は洞窟

     

築山と土塁

       

その他

   

久屋橋を戻り、外濠越しに土塁を見る。

  


撮影時期:2013年7月、2015年10月 酒井英樹

名古屋城
愛知県名古屋市中区

名古屋城の前身は那古野城で、織田信長の父である織田信秀が今川氏から奪い、ここで織田信長が誕生したと言われている。後に信長の居城となったが清洲城に移り廃城となった。
徳川政権誕生直後、清洲城は尾張藩52万石の居城となり家康の4男松平忠吉が居城した。忠吉は関ヶ原の戦いの戦傷によって28歳で死亡し嫡子がいなかったため、その跡を弟の9男徳川義直が継いだ。
当時清洲城下は低湿地に位置していて、水責めに弱いとされたため大坂方からの東海道の守りとしては脆弱であった為、那古野城跡に新城を築いて清洲越しと呼ばれる街ごとの移転を行った。
慶長15年(1610)から西国諸大名の助役による天下普請で築城を開始、普請奉行に滝川忠征・佐久間政実ら、作事奉行に大久保長安・小堀政一(小堀遠州)らを起用した。大天守は慶長17年(1612)に、城全体は元和2年(1616)にはほぼ完成を見た。
 その後、二の丸御殿が完成して藩庁が本丸御殿から移動、財政難から金鯱の再鋳造などを除けば江戸時代大きな変化はなかった。
 明治政府は姫路城とともに城郭保存を決定し陸軍にて修理を行ったが、明治24年(1891)の濃尾地震(マグニチュード推定8.0)で西南隅櫓、本の丸各隅櫓を繋ぐ多聞櫓などが倒壊した。明治26年(1893)、名古屋離宮となったため宮内省で修理が施された。
 昭和5年(1930)に名古屋市に移管されると同時に大天守を始め24棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝(いわゆる「旧国宝」で現文化財保護法での重要文化財に相当)に指定され一般公開されたが、昭和20年(1945)5月の名古屋大空襲の折、誤爆(米軍説)により天守、本の丸御殿などが本丸の大半を焼失した。本の丸御殿の障壁画(昭和17年(1942)旧国宝に指定)の内ふすま絵など移動可能なものは疎開していた為焼失を免れたが、名古屋城のシンボルであった金の鯱を疎開させる為に設けていた足場に焼夷弾が当たったため大天守は焼失したと言われている。
再建にあたって、当時の建築基準法では人が出入りできる木造建造物の基準(3階以上は不可)を大きく上回る天守(高さでは18階建てに相当)の木造による再建は困難であった。また二度と焼失しないよう永久構造物として再建することが望まれた事とも有り、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートにより大小天守が外観のみの復元再建がされた。
 しかし、観光を配慮から最上階の展望を重視した為、最上階の窓の意匠が元とは異なってしまい、完全な外観復元ではなくなってしまった。
 平成34年(2022)の完成を目指し本の丸御殿の現在復元中であり、平成25年(2013)には玄関と表書院(謁見の場所)が完成し、模写による復原障壁画とともに公開されている。また、コンクリートの耐用年数を考慮して、木造による三代目の天守の再建の計画案がある。
空襲による焼失を免れ現存する西南隅櫓、東南隅櫓、表二の門、西北隅櫓及び疎開していた本丸御殿の障壁画は昭和25年(1950)に文化財保護法が制定された際、二之丸大手二之門、旧二之丸東二之門(本丸搦手口に昭和47年(1972)に移築)は昭和50年に重要文化財に指定された。


<大天守>
5層天守 屋根5重、銅瓦葺(第1重:本瓦葺)
 桃山時代[慶長17年(1612)]
 昭和時代[昭和20年(1945)5月24日]消失
 『焼失文化財(文化庁編)』より
 

 5層天守 屋根5重、銅瓦葺(第1重:本瓦葺) RC構造で外観のみ復原
昭和時代[昭和34年(1959)]再建
  

<西南隅櫓>
 二重三階隅櫓 入母屋造 本瓦葺 塗籠 三階長押形
 桃山時代[慶長17年(1612)頃]
         


<東南隅櫓>
 二重三階隅櫓 入母屋造 本瓦葺 塗籠 三階長押形
 桃山時代[慶長17年(1612)頃]
       

<西北隅櫓>
 三重三階隅櫓 入母屋造 本瓦葺 塗籠 三階長押形
 江戸時代[元和5年(1619)]
           

<表二之門>
 高麗門 本瓦葺 軒塗籠
 桃山時代[慶長17年(1612)頃]
  

<二の丸大手二之門>
 高麗門 本瓦葺 軒塗籠
 桃山時代[慶長17年(1612)頃]
      

<旧二の丸東二之門>
 高麗門 本瓦葺 軒塗籠
 桃山時代[慶長17年(1612)頃]
     

<本丸御殿玄関>
 桁行5間、梁間5間、入母屋造 桟瓦葺
 平成時代[平成25年(2013)]再建 
 《一之間》
          

 《二之間》
           

<本丸御殿表書院>
 桁行9間、梁間8間、入母屋造 桟瓦葺
 平成時代[平成25年(2013)]再建
 《上段之間》
    

 《一之間》
         

 《二之間》
 

 《三之間》
                    

<大天守>
 焼失前 再建
  

<本丸御殿>

 白 黒:昭和20年焼失(昭和5年撮影)
『焼失文化財(文化長編)』より
 カラー:疎開現存(平成19年撮影)
 『本丸御殿の至宝 図録』より

 
消失前 模写

 《玄関一之間》
  
  
  
  

 《玄関二之間》
  
  
  
  


 《表書院上段之間》
  
  

 《表書院一之間》
  
  

 《表書院三之間》
  
  
  
  
  





Jan.2013 瀧山幸伸 source movie

     
     



カヤ(天然記念物)
     

        

天守閣、小天守閣
               

                           

   
  


西北隅櫓
        

          

茶室
   
    

     

旧天主礎石付近
     
     

不明門
   
   

           
         

天守閣内部
A camera
                                                                                                                                                                        

B camera
                                                                                                 


    
            


旧二之丸 東二之門
   
        
                 

本丸御殿
               
                


表二之門
         

東南隅櫓
                
                              

二の丸庭園
                                  

                  



Jan.2010 撮影:柚原君子

名古屋城
名古屋市中区本丸1-1
関が原の合戦以後江戸幕府を開いた徳川家康が東海道の要所として、また大阪方への備えとして建てたもの。(1610年〜1612年完成)。
明治維新を迎えるまで御三家の筆頭尾張徳川家の居城として使われた。
1930年国宝指定。
1945年第二次世界大戦で城は消失したが、四隅にある櫓と表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門は残り重要文化財となっている。
観覧亮500円。週末には「イケメン案内」があるそうですが、私は平日観覧で残念ながら遭遇できず。





                      


名古屋城の四隅にある櫓(戦災で消失したので三櫓)。
攻めてくる敵の動きを監視するところ。
城と重ねるととても美しい建ち姿で徳川家の葵の紋ではない菊の紋が入っているめずらしい櫓。
明治24年の濃尾大地震で櫓は崩壊したが、宮内庁が管理している時期に復元されたので葵の紋ではなく菊の紋が入っている。

  

       




July 2006 撮影:瀧山幸伸 source movie

   

  

正門
 

カヤの木
 


天守閣
        

  

小天守閣
 

御殿
    

   

   

西南隅櫓
  

西北隅櫓
        

不明門
    

旧二之丸 東二之門
    

東南隅櫓
    

表二之門
   



二之丸庭園
                  

埋門跡
    

南蛮たたき鉄砲狭間
    




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