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愛媛県内子町 内子
Uchiko ,Uchiko town,Ehime

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 General
 
美しい街並と文化、伝統工芸
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
木蝋の繁栄で培われた文化
 Facility
 
 Food
 

喜多郡内子町内子2888 本芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 主屋 重文 近代/住居 明治 明治17(1884) 桁行13.9m、梁間12.7m、二階建、入母屋造、東西面庇付、桟瓦葺、北面玄関及び南面土蔵間附属 土塀 19900911
喜多郡内子町内子2888 本芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 炊事場 重文 近代/住居 明治 明治17(1884)頃 桁行12.2m、梁間3.6m、一部二階建、切妻造段違、桟瓦葺、北面下屋附属 19900911
喜多郡内子町内子2888 本芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 産部屋・便所及び湯殿 重文 近代/住居 明治 明治17(1884)頃 桁行6.5m、梁間3.8m、入母屋造、西面湯殿突出 桁行4.7m、梁間5.5m、切妻造、西面突出部及び主屋間渡廊下附属、桟瓦葺 19900911
喜多郡内子町内子2888 本芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 土蔵 重文 近代/住居 明治 明治17(1884)頃 土蔵造、桁行11.8m、梁間7.9m、二階建、切妻造、桟瓦葺 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 主屋 重文 近代/住居 明治 明治27(1894) 桁行15.9m、梁間12.7m、二階建、切妻造、西南東各面庇付、桟瓦葺、北面突出部及び仕舞部屋間渡廊下附属 棟札1枚、大工出面板1枚、図面3枚 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 炊事場 重文 近代/住居 明治 明治27(1894)頃 桁行南面17.0m、北面17.7m、梁間5.7m、一部二階建、東面入母屋造段違、西面主屋に接続、桟瓦葺、北面東端突出部附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 仕舞部屋及び便所・産部屋 重文 近代/住居 明治 明治27(1894)頃 "仕舞部屋 桁行3.0m、梁間4.8m、西面入母屋造、桟瓦葺
便所・産部屋 桁行7.0m、梁間3.1m、切妻造、西面仕舞部屋、東面離座敷に接続" 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 離座敷 重文 近代/住居 明治 明治27(1894)頃 桁行8.6m、梁間4.9m、南面入母屋造、北面切妻造、桟瓦葺、離部屋間渡廊下附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 風呂場・便所 重文 近代/住居 明治 明治27(1894)頃 桁行4.9m、梁間4.0m、入母屋造、桟瓦葺、離座敷合の間・炊事場間土塀附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 釜場 重文 近代/住居 明治 明治 桁行9.7m、梁間5.0m、切妻造、桟瓦葺、主屋間蝋垣附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 出店倉 重文 近代/住居 江戸末期 文久元(1861) 桁行5.9m、梁間7.3m、二階建、切妻造、西東各面庇付、桟瓦葺、東面突出部附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 物置 重文 近代/住居 明治 明治 桁行8.8m、梁間5.0m、切妻造、桟瓦葺、土蔵間土塀附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 土蔵 重文 近代/住居 明治 明治 土蔵造、桁行19.7m、梁間6.9m、二階建、切妻造、桟瓦葺、北面下屋附属 19900911
喜多郡内子町内子2696 上芳我家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 離部屋 重文 近代/住居 明治 明治20年代 桁行6.9m、梁間7.6m、二階建、南面入母屋造、北面切妻造、東南西各面庇付、西面突出部 桁行6.5m、梁間3.1m、西面入母屋造、桟瓦葺 19900911
喜多郡内子町内子2892 大村家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 寛政(1789-1800) 桁行10.7m、梁間10.9m、切妻造、東西各面庇付、桟瓦葺、便所・渡廊下附属 大小屋1棟、木小屋1棟、大和屋本家圖1枚、藍蔵1棟 19900911
喜多郡内子町内子2892 大村家住宅(愛媛県喜多郡内子町) 裏座敷 重文 近世以前/民家 明治 明治18(1885) 桁行7.0m、梁間5.7m、二階建、切妻造、桟瓦葺、西面釜屋附属 19900911
喜多郡内子町内子2102 内子座 重文 近代/文化 大正 大正5(1916) 正面20.1m、側面27.5m、一部二階、入母屋造、正面軒唐破風付、妻入、正面両翼突出部切妻造、西面南端茶風呂寄棟造、西面北端便所切妻造、西面下屋庇付、鉄板葺 棟札2枚 大正五年二月二一日 20150708

May 17,2016 瀧山幸伸
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Oct.10,2015 川村由幸

                                                                                                     



July 20,2014 瀧山幸伸 movie

A camera
        
上芳我家
                                              

                                                                        


B camera
                                                                                                                                             



Dec.2012 瀧山幸伸 内子の街並 まとめ

内子は松山から大洲に抜ける途中の小さな盆地に発達した物資集散と宿場の商人町、いわゆる在郷町だ。司馬遼太郎ファンならば、高知から梼原を経由し「竜馬脱藩の道」を辿り内子に入るのも興味深いだろう。
この町は江戸後期から明治にかけて、木蝋と伊予和紙などの生産で栄えた。町の高台に位置する八日市護国地区には当時の面影を残す商家群が残っている。八日市地区は蝋の商いで栄え、護国地区は高昌寺の門前として金毘羅詣で四国遍路の旅人で賑わった。
郊外の石畳地区には屋根付き橋、水車などが棚田と調和し、日本の原風景が感じられる。町では街並保存運動に続く村並保存運動を展開し、「エコロジータウ ン」のまちおこしを目指しており、全国でも有数の先進的まちおこし事例だが、「風の盆」で有名な富山の八尾と同様、訪問客がはたして歓迎されるべき「エチ ケット査証」を持っているかどうかを問われる町でもあり、今一度自分の旅行スタイルを見直してから訪問したい。




■ 蝋燭で栄え電燈で衰退した?

内子は蝋燭の生産で栄え、電燈が発達して衰退したと書かれているガイド資料がかなりあるが、そうではない。内子の木蝋は高級素材で、単価の安い蝋燭の素材 にはもったいない。単価が高いものはいつの世も薬や化粧品。もちろん和蝋燭にも使うが、坐薬や軟膏などの薬の基剤、ポマードなどの化粧品やクレヨンの原料 などとして、主に明治期に輸出で栄えた。
木蝋とは、ウルシ科のハゼノキの果実を蒸して果肉や種子に含まれる成分を抽出した蝋である。そのハゼノキは安土桃山時代に日本にもたらされ、商品作物とし て西日本各地で盛んに栽培された。内子が木蝋生産地として栄えた出発点は、芳我弥三右衛門が新しい晒法(伊予式箱晒法)を発明した19世紀中頃であった。 その後、西洋で人工のパラフィンが発明されて、大正期に入ると内子の木蝋は衰退していった。藍の脇町、ハッカの北見全国の絹関連産業なども人工素材の出 現で衰えたが、それらと同様な運命を辿ったのだ。


■ 木蝋で栄えた内子の街並
 
今日の内子には、町が全盛期であった頃の姿が良く残っている。建物は江戸末期から明治のもので、木蝋による繁栄を今に残す。平入り、二階建、本瓦葺で、黄色を混ぜた漆喰の外装に虫籠窓である。二階部分は蝋を保存する倉庫として利用されていた。
八日市と護国の約3.5haが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された核で、電柱撤去などの道路整備、伝統的家屋の復元などの修景事業が進められてい る。街並保存の歴史を振り返ってみよう。昭和50年代に古い家並みの見直しが在住者から提言され、昭和55年に内子町伝統的建造物群保存地区保存条例が制 定された。同年上芳我邸が木蝋資料館としてオープン。昭和57年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される。昭和60年に内子座の修復がなされ、平成 17年に景観法に基づく景観行政団体となるなど、まちづくりまちおこしの方向性は今日までぶれていない。


街並形成のランドマークとなる建造物を見てみよう。


本芳我家 (国重要文化財)
ひときわ高く建ち、華麗な外観意匠が特徴的だ。芳我一族の本家筋で、本芳我は通称。木蝋集荷の元締め商家だった。建物は内子が繁栄を極めていた頃のもの で、質もよく、漆喰彫刻、海鼠壁などの意匠も豪華で華麗である。表通りに面して規模の大きな二階建ての主屋が建ち、その南側に妻を表通りに向けた土蔵が建 ち、北側に土塀を廻らせている。主屋は明治17年の建築で、規模、外観はもちろん、内部の造りも格式が高く、共に十畳の広さがある主屋二階の鶴の間、亀の 間には一間半の床の間や違い棚、出書院が設けてある。二つの部屋はかつて正座敷副座敷として遠来の客のもてなしに使用された。外観では、亀甲つなぎのなま こ壁の意匠、漆喰壁の色使い、こて絵の棟飾り懸魚(げぎょ)が特に美しい。漆喰やなまこ壁の重厚感、防火のまじないとして取り付ける懸魚のデザインについ て、ここまでこだわる理由は、蝋を扱う商人にとっては火が大敵だからだろうか。黄色が混じった漆喰壁が作る陰影は、朝昼夕と微妙に変化する。ぜひとも朝夕、夜間にもライトアップなしで鑑賞したい。
  

他の産地の製品と混ぜられないよう「旭鶴」のマークをつくり、製品に自信を持って海外に進出した。本芳我家だけはカタバミの家紋を使わずこのマークに徹した。
 

YAZAE HAGAの文字が見える蝋のラベル。海外に輸出された内子芳我製の本物。偽装品が多く出ていた。
 

上芳我家(木蝋資料館) (国重要文化財)
江戸時代末に本芳我家から分家した。二代目が明治27年に建設したもので、居住部分と木蝋生産施設とが同じ敷地内にあり、広い面積を占めている。製蝋用具 は国の重要有形民俗文化財に指定され、全体が木蝋資料館として公開されている。主屋は桁行八間、梁間六間、二階建ての大壁造りで、切妻桟瓦葺である。居室 の意匠、屋敷の庭園、派手な外観の意匠が見どころだ。
 


大村家住宅 (国重要文化財)
寛政年間に建築された、この地区では最も古い商家である。内子の木蝋生産が盛んになる前の建物である。最初は雑貨屋であったが、明治中期からは「大和屋」 という屋号で藍づくりや染物商をしていた。切妻桟瓦葺。虫籠窓は額縁付きで、黒漆喰なども使い意匠的にはやや派手である。土台には栗の木が使われている。 主屋の他、裏屋敷、釜場、藍蔵なども残り、内子の古い商家構造のすべてを見ることができる。

大村家(手前)と本芳我家(後方)
 

内子座
大正5年、大正天皇の即位の儀式を記念し町内有志が株式会社を組成して新築した本格的な歌舞伎劇場である。桝席があり、桟敷席が三方を取囲んでいる。格天井にはクラシックなシャンデリアも下がり、当時の西洋志向が垣間見える。
 

大森和ろうそく店
創業200年以上を誇る老舗。店の奥でご主人が一本一本手作りする。芯の周りが薄緑色のバウムクーヘンのようになって、眺めているだけでも美しい。奥様が 帳場で灯す蝋燭は、炎が大きく長持ちし、すすがほとんど出ないのが特徴。このように心を込めて作られた蝋燭は大切な場で使いたいものだ。例えば誕生日や結 婚記念日、部屋の明かりを全て消して、大きく暖かい灯火のもと、おいしい食事と地酒で幸せな時間を過ごそう。日本人はとかく明るい灯火を好むが、西欧では ムードを演出するため、ろうそく一本で食事を提供するレストランをよく見かける。内子にもそのような「蝋燭のある生活」を体感できる施設や飲食店が多数あ れば素晴らしいだろう。

文化交流ヴィラ「ゲストハウス高橋邸」
「日本のビール王」高橋龍太郎の生家で、平成9年町へ寄贈され宿泊施設となった。高橋家は大規模な酒造業を営み、藩政時代は大洲藩の財政の一翼を担うほど の豊かな旧家であったが明治維新で縮んだ。明治の当主高橋吉衡は地域教育に尽力し、後に「内子聖人」と呼ばれるほどの人格者であった。その次男が高橋龍太 郎で、大学卒業後ビール業界に入り、明治39年設立の大日本麦酒株式会社を育成した。通産大臣を務め経済復興に尽力し、私財でプロ野球高橋ユニオンズの設立もした。

下芳我邸
国登録文化財。築後130年の旧家で石臼挽きの蕎麦と摘み草御膳を提供し、ギャラリーを併設している。主屋は木造二階建、入母屋造。南側に木造平屋建の離 れが付く。正面は白漆喰と鼠漆喰を塗り分けて意匠を凝らし、屋根は千鳥破風に鶴の懸魚を付ける。隠居屋は主屋に東隣して建つ。床柱や棚板に銘木を用いるな ど部屋ごとに吟味した材料を使い、遊び心を感じる意匠が凝らされている。通りに面して入母屋破風を見せ、両脇には袖壁を出す。主屋と連担して街並景観を構 成している。


商いと暮らし博物館
明治からの薬商「佐野薬局」の敷地及び建物を内子町が購入し、大正10年頃の薬局の暮らしを当時の道具類や人形を使って再現している。主屋は江戸末期に建 てられたもの。栂普請といわれ、長押に栂が使われ、床柱や床框、天井板にも銘木が使われた贅沢なつくりとなっている。主屋二階の三室続きの書院座敷は裕福 な商家ならではの質の良い造りで、壮観である。


旭館
大正14年に建った常設活動写真館。一見擬洋風木造建築だが、正面のみ飾った完璧な看板建築だ。崩れ落ちるのも時間の問題で、保全が望まれる。

町家資料館(旧米岡家)
寛政5年の建築で大村家と同様に古い。各部屋には家具や調度品が置かれ、当時の暮らしを再現している。


■ マジソン郡の橋?

石畳地区には各所に屋根付き橋と水車があり、棚田と共にこの地域の景観形成の重要な要素となっている。屋根付き橋は微妙な曲線で構成されており、背景とな る田畑、森林と河川とで構成される全体景観は、日本、いや世界のどこにも負けない独特な景観として貴重だ。映画の『マジソン郡の橋』では、主人公のナショ ナルジオグラフィック専属写真家が、ベストなアングルと光線を狙い、何度も現地に足を運びおびただしい量のシャッターを切る。それ以上の情景がここにあるのならば、品格ある写真家や映像関係者を主体にしたまちおこしが良いのかもしれない。


石畳地区の景観
 

「石畳の宿」は、農家を宿泊施設に改造したもので、かなり人気がある。やはり農村の風景は朝もやの頃と夕刻から夜が良い。至福の時が体験ができる幸せは金銭では測れない。
 

弓削神社の屋根付き橋は世界的にも美しい。ポンテベッキオなどは論外で、国内の寺社にある屋根付き橋は美しい。例えば大分の宇佐神宮薦神社、香川の金刀 比羅宮、長野の鹿教湯温泉など日本各地にもあるが、ここほど素晴らしく背景と調和した立体景観を見たことが無い。
 



■ エコロジータウンへの道 

町が「エコロジータウン」を目指しているのであれば、エコロジカルな交流スタイルへの理解を呼びかけていく必要があるだろう。町の景観条例がハードを守 り、町の観光交流条例やエチケットガイドラインなどがソフトを守り、訪問客と地域住民とのより良い関係を構築することが必要だろう。
拙生の最初の訪問は十年前だった。高知からの細い峠道を越えて朝早く到着した。背後の山が近く、水音と鳥の声がさわやかだった。だが、市街地は団体観光客 の人気コースで、日中はハンディスピーカーを下げたガイドを先頭に集団闊歩する。中には酒臭い泥酔者や大騒ぎをする者も。街並のハードは良いのだが、それ を彩る、いや主役であるはずの人の営みなどのソフトが街並のトーンとマナーを乱していることを危惧した。人や車は自分の姿が客観的に見えないから意識して いないが、街並の雰囲気を壊す事が多い。バスや車は景観上影響の無い遠隔地に駐車し、エンジンは必ず切ってほしい。伝統的な地区内では歩きタバコは慎んで ほしい。旗、リボン、バッジ、原色の服装、大声の会話などを慎み個人行動してほしい。スタッフの原色蛍光ジャンパーもやめてほしい。個人向けの「知的な」 無料ガイドを増やしてほしい。滞在型交流型のイベントや民泊施設を増やしてほしい。等々、街を五感で楽しむためのホスト側の細かい配慮とゲスト側へのエチ ケットの周知が必要だと感じていた。
だが、それらの憂慮は再訪するたびに改善の方向に向かっているようだ。町の中心部と周囲の農村部を一体でまちおこしを行っているのも素晴らしい。一部の人の利益のみを追っていない、内子の人々の見識の高さと、まちづくりまちおこしの理念がぶれていないからだろう。だからこの町は今後、立ち寄り観光客と決別 し、町内に何回も宿泊し地域の人々と密に交流し地域の文化と産品を愛する個人客を増やしていくのだろう。
そのためには、宿泊に値する、他では得られない価値を提供することが重要だ。それは宿泊施設の差別化ではない。渋温泉など各地の温泉街がやっている宿泊客 限定の外湯開放や手形でもない。町内宿泊者には町内施設入場チケットを無料で提供するなどのインセンティブは当然として、それだけではだめだ。宿泊、しか も再訪してこそ価値が高まるような「知性と感性のシステム」をどんどん考案するのだろう。
例えば古き良き時代の夜の情緒を復元演出してはいかがだろうか。日本の夜は豊かだった。蛍鑑賞、月見など、四季折々の充実した夜が過ごせる観光地はほとん どなくなってしまった。LEDなどによる派手なライトアップではなく、中心部の街並も、農村部の橋や水車や棚田も、暗いことの美しさを演出する「ライトダ ウン」を実践する。まずは目に痛い照明の色温度や照度を古来の灯火並みに下げてもらい、デザインも古来のものを推奨する。公共照明はすぐにでも実行でき る。内子全域の屋外照明が全て揃えば、情緒豊かで美しい夜景の陰影が誕生する。さらに常夜灯篭などの伝統的な照明は本物の燈火またはそれらしいゆらぎを導入すればなお完璧だろう。美濃の明かりアートのような「主張する明かり」も興味深いが、八尾の風の盆のように暗いことの価値を積極的にアピールする夜祭 り、イベントなどの演出も参考になろう。それが都会人に大きな癒しを提供することを信じて疑わない。かつて一度は体験したことのある、神秘の星空を仰ぐ追憶の旅はこの町から始まるのだろう。





May 2012 中山辰夫


町並散策

内子が木蝋生産地として栄えた出発点は、芳我弥三右衛門が新しい晒法(伊予式箱晒法)を発明した
19世紀中頃であった。
明治時代に入って内子の晒蝋は海外に輸出され、生産がさらに盛んとなった。
その後、西洋蝋が発明されて大正期に入ると内子の木蝋は衰退していった。
今の内子には、町が全盛期であった頃の姿が歴然と残っている。
  

内子では、歴史的遺産である民家や町並みを保存し、活用する町づくりを進めている。
内子の市街地の中心である本町通りから北に向かう八日市と、その北に位置する護国の約3.5haが
「重要伝統的建造物群保存地区」として町作りの核で、表通りの電柱を移設し、家々は伝統的な形式
に戻す修理や修景事業を進めている。

町の散策は、少し高台にある高昌寺から始めた。
    

朝の7時過ぎ、人影も少ない。内子中学校の高塀、向いは上芳我邸(重要文化財)
上芳我邸は豪商の構えと、その暮らし、木蝋文化を伝える基地となっている。
    

小学生の姿がちらほら見え始めた。旅館月乃屋やそうげん水車苑など覗いてみたくなる。
    

ひときわ高く建ち、意匠華麗な本芳我邸(国重要文化財)が登場する。
集団登校の集合場所となっている。子供たちの挨拶がよかった。隣の大村家(国重要文化財)は修理工事中。
    

さろんど八日市やあたらし屋など惹き付ける民家が並ぶ。あたらし家は江戸末期に紋の染物屋を営む商家だった。
    
あたらし屋の前が枡形と称される通り。藩政時代の大通りで、道を鉤形にして敵の侵攻を妨げたとされる。
    

天神社
通りを少し横丁に入ると天神社に登る約190段の石段道となる。息切れが始まる頃に見る町並と社。
        
境内の清掃をしていた男性は福島の被災者。阪神淡路でも被災に遭われたとのこと。
震災で、奥さん・店を亡くし内子へ。内子で仮住。ここの人々の優しさに感謝されていた。

某宗教の内子教会
大正年間に建立された教会。意匠も手が込んでいる。内子の町と同化している。
    

八幡神社
天文11年(1542)宇佐八幡宮より祭神を勧請し、森八幡宮と称し、天文19年(1550)に社殿が造営され
産土神として祀られた。
    
現在の本殿は享和3年(1803)、中殿、拝殿は文化5年(1808)年に建造されたものである。
    

町家資料館、大森和ろうそく屋と続く
    

酒六酒造の大きなお店や蔵が続く。森文太郎氏が明治26年(1893)創業。
米酢づくりから伝統醸造にこだわり醸し続けて118年。大型店で数ケ所に分かれる。資料室公開中。
    

少し外れるが、伊予銀行内子支店や「高橋邸」
銀行の頭部を鏝絵(こてえ)のデザインが飾る。ギリシャ建築のアカンサスの植物の模様である。
「日本のビール王」高橋龍太郎氏の生家はゲストハウス・高橋邸として宿泊ができる。
    

「下芳我邸」と「商いと暮らしの博物館」
下芳我邸は築後130年の旧家で石臼挽きの蕎麦と摘み草御膳を用意。ギャラリー併設。蕎麦は11時以降。
  
大正10年頃の薬屋の日常生活を再現した資料館。
  

内子座
大正5年(1916)、大正天皇の即位の儀式を記念し、町内の有志が株式会社をつくって創建した
本格的な歌舞伎劇場である。
妻側が正面になっている二階建てで、主屋の両袖の一階部分には下足預かり場となる櫓がある。
        

桝席があり、桟敷席が三方を取囲んでいる。
格天井にはクラッシクなシャンデリアも下がり、当時の西洋志向が垣間見える。

その他、路上からのアプローチ
各家で見かける「木」配りの郵便箱と「扇面にお亀」〜観光客へほほえみを!
  

大正14年に建った常設活動写真館「旭館」 一見、擬洋風木造建築だが、正面のみ飾った完璧な看板建築
  

鏝絵屋さん・・・修行中?
    

気になった建屋
         



主な建築物の細部

上芳我邸(木蝋資料館)
愛媛県喜多郡内子町2696
国重要文化財指
本芳我家から江戸時代末期に分家した。
上芳我二代目の孝治(弥衛美)が明治27年(1894)に建設したもので、居住部分と木蝋生産施設とが
同じ敷地内にあり、広い面積を占めている。全体が木蝋資料館として公開されている。
    

主屋は桁裄八間(15.9m)、梁間六間(12m)二階建ての大壁造りで、屋根は切妻造り桟瓦葺である。
主屋一階居室部
     

主屋二階展示室
   

主屋三階部の木組構造と大壁
     

目に入った居室の意匠
        

屋敷の庭園周り
            

派手な外観の意匠
    

炊事場まわり
    

本芳我家
愛媛県喜多郡内子町2888
国指定重要文化財

蝋花箱晒法を発明し、木蝋の品質を高め、内子における蝋生産の基礎を築いた芳我一族の本家筋で
本芳我は通称。
この建物は内子が国内有数の木蝋生産地として繁栄を極めていた頃のもので、質もよく、漆喰彫刻
亀甲つなぎの海鼠壁など、意匠も豪華で華麗である。
    

本芳我家は大村家の北隣で、表通りに面して規模の大きな二階建ての主屋が建ち、その南側に妻を
表通りに向けた土蔵が建ち、北側に土塀を廻らせている。
    

主屋は明治17年(1884)の建築で、規模・外観は勿論、内部の造りも、ひときわ格式が高く、共に
十畳の広さがある主屋二階の(鶴の間)(亀の間)には、一間半の床の間や違い棚、出書院が設けてある。
この二つの部屋は、かつては正座敷、副座敷として、遠来の客のもてなしに使用された。
亀の浮彫。土蔵や大壁造りの装飾として漆喰で造られるが、特に本芳我邸のものは華美である。
     

懸魚は漆喰を使った鏝絵で、細部にも手が入っている。
     

他の産地の製品と混ぜられないよう「旭鶴」のマークをつくり、製品に自信を持って海外に進出。
本芳我家だけはカタバミの家紋を使わず、このマークに徹した。
 

YAZAYE HAGAの文字が見える蝋のラベル。海外に輸出された内子の芳我製の本物。偽装品が多く出ていた。
 

本芳我邸の外観と庭園は公開される。中央の大木は、この家が建てられた明治期に植樹されたクスノキ
  

大村家住宅
愛媛県喜多郡内子町2892
国重要文化財

18世紀末の寛政年間(1789〜1801)に建築された民家で、内子の木蝋生産が盛んになる前の建物である。
内子では最古の建物。江戸末期の町家である。
 

大村家は商家で、最初は雑貨屋であったが、明治中期からは「大和屋」という屋号で、藍づくりや染物商
をしていた。大村家の屋号
  
屋根は切妻造りの桟瓦葺。三ケ所あるむしこ窓は額縁付きで、黒漆喰なども使い意匠的にはやや派手である。
 
主屋の他、裏屋敷、釜場、藍蔵なども残り、内子の古い商家構造のすべてを見ることが出来るとされる。

下芳我家
愛媛県喜多郡内子町1946
国登録文化財「主屋・隠居屋」

主屋は商店街通りに北面して建つ。
間口は約19mの規模で木造2階建,入母屋造。南側に木造平屋建の離れが付く。
  
正面は白漆喰と鼠漆喰を塗り分けて意匠を凝らし,屋根は千鳥破風に鶴の懸魚を付ける。
        
重厚な町並み景観を構成している。

隠居屋は主屋に東隣して建つ。木造2階建。
床柱や棚板に銘木を用いるなど,部屋ごとに吟味した材料を使い,遊び心を感じる意匠が凝らされている。
通りに面して入母屋破風を見せ,両脇には袖壁を出す。主屋と連担して町並み景観を構成している。
   

この店の「石挽きそば」は美味いと聞く。が9時オープンで、蕎麦の準備に11時過ぎまで掛かるようで諦める。
邸宅内を拝見し、気に入った箇所をランダムに羅列する。
           

高昌寺
七堂伽藍を整備した曹洞宗の寺。約570年の歴史を刻む名刹。石仏「涅槃像」を安置している。
 

山門
文化4年(1808)の火災に難を免れたこの山門は、第16世真猊香達和尚(1745〜52)の代に現在地に
移築されたとされる。
均衡のとれた美しい形と重量感のあるこの山門は、近郷には珍しい建築物である。
    

中雀門
名のある武家屋敷の門を移築したものとも伝えられる。
清楚な構成の中に落ち着きと気品が漂い、天井には6枚の絵が組み込まれている。
山門と仏殿の中間に一誌、庫裏と僧堂を結ぶ廊下の中央に設けられる門といわれる。
    

内子中学校
中学校の学舎も街並に似せた設計となっている。塀笠の前は明治27年(1894)築の上芳我邸である。
    

町家資料館(旧米岡家)
寛政5年(1793)の建築で、大村家と同様に古い。昭和60年に根本的な修理が施され当時の姿に復旧された。
 
五間あまりの間口は表の通りに面している。通り庭の正面には潜り戸付きの跳ね揚げ式の大戸を吊り、もう一間
  
店の部分は土間で、二階へは箱階段。各部屋には家具や調度品が置かれ、当時の暮らしを再現している。
     

大森和ろうそく屋
創業200年以上を誇る老舗。現当主の大森太郎さんはこの店の六代目。
木蝋でつくる和ろうそくは大森家で代々受け継がれている。
   

すべての作業は手で覚えた加減と技術 代々受け継がれてきた和ろうそくを守るのは、太郎さんの手にかかる。
    

文化交流ヴィラ「高橋邸」
高橋家は戦国時代、近江国神崎郡の城主だった高橋津島守秀久が信長に滅ぼされ、その二男・助右衛門尉重久が
五百木村(いよきむら 内子町長田)に移住して、この地の豪族になった。文禄4年(1595)には大洲藩主から
五百木村の庄屋を命じられ、以来、明治維新まで庄屋を務めた。
内子の高橋家は庄屋の分家で、広大な田畑を所有する一方、「五百木屋」の屋号で大規模な酒造業を営み、藩政
時代は大洲藩の財政の一翼を担うほどの豊かな旧家であった。だが、明治維新で事情は一転し、豪家も縮んだ。
   
明治の当主・高橋吉衡(よしひら)は地域教育に尽力し、後に“内子聖人”と呼ばれるほどの人格者であった。
その次男が高橋龍太郎である。龍太郎は大学卒業後、ビール業界に入り、6年間ドイツで醸造技術を学び帰国。
明治39年設立の大日本麦酒株式会社を育成。樽材の国内調達や、原料のホップの国内生産で、念願の完全国産
化に成功した。生涯をビール醸造に捧げた龍太郎は、通産大臣を務め経済復興に尽力し、私財でプロ野球高橋
ユニオンズの設立もした。
  

龍太郎の生家は、長男高橋吉隆氏が相続したが長年住む人も居ないままとなっていた。
平成9年(1997)に町へ寄贈され、町は長い歴史を有する高橋家の建物を保全するとともに、一般公開した。
  

「商いと暮らし博物館」
明治からの薬商「佐野薬局」の敷地及び建物を内子町が購入し、博物館として公開している。
主屋は、江戸末期に建てられたもので、明治43年の増設されている。新旧二つの建物の庇の
高さを併せている。
   

母屋では、大正10年(1921)頃の薬局の暮らしを、当時の道具類や人形を使って再現している。
    

この建物は栂(つが)普請といわれ、長押に栂が使われ、床柱や床框(かまち)、天井板にも銘木が使われ
手の込んだ贅沢なつくりとなっている。
   

主屋二階の三室続きの書院座敷は、裕福な商家ならではの質の良い造りで、壮観である。
    

その他の意匠
            
薬の看板
   




May 2009 瀧山幸伸 HD video Edited video

                         

  
                    
               

本芳賀家
                                                

大村家
             

     
                                                      

内子座
                                      


石畳地区
Ishidatami
         

石畳の宿
                   

                                         

弓削神社
Yugejinja
                                           



Dec.2008 撮影:高橋明紀代

内子には松山市内から急行で約2時間少々かかる。
いまは閑かな盆地の町である。
和ろうそくが主要産物であった。
町を歩くと、かつて明治から大正はじめくらいまで、和ろうそくの商いはかなりの規模であったらしく、その繁昌ぶり、にぎわいがしのばれる。
うだつ(?)、けぎょ(懸魚)、むしこまど(虫籠窓)、なまこかべ(海鼠壁)、こてえ(鏝絵)、おにがわらとりぶすま(鬼瓦鳥衾)などを堪能する。
内子座では、日曜ということもあって、歌や踊りの演し物がかかっていて、それを目当てに集まって、始まるのを待っている地元の老人や観光客が数十人はいた。

    

   


Dec.2003 瀧山幸伸

  

愛媛県の内子は松山から南へ40キロ、高知との県境近くに位置する。司馬遼太郎ファンならば、高知から「竜馬脱藩の道」を辿り内子に入ると興味深いだろう。城下町の大洲に抜ける手前に広がる、小さな盆地に発達した物資の集散町、いわゆる在郷町だ。
内子は、江戸時代後期から明治にかけて、木蝋(晒蝋)と和紙の生産で栄えた。
和紙はここの商家から阪神に出荷され、大洲藩の財政に貢献した。
一方、この地方のハゼの実から抽出した木蝋を晒し、精製した晒蝋は、パラフィンが登場するまでは大変需要が大きく、海外に輸出するほどであり、内子の繁栄はかなりのものであった。
 町の高台に位置する八日市・護国地区には、当時の面影を残す商家群が約600mにわたって残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
八日市地区は蝋の商家で栄え、北側の護国地区は高昌寺の門前として、金毘羅詣でや四国遍路の旅人で賑わった。
 町では、町並保存運動に続く村並保存運動を展開し、21世紀に向けての新しい「エコロジータウン」を目指している。石畳村の屋根のついた橋、棚田など、日本の原風景が見られる。


 
内子の街並

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内子の街並 
 建物は江戸末期から明治のもので、和ろうそくの繁栄を今に残す。建物は平入り、2階建、本瓦葺で、黄色を混ぜた漆喰の外装に虫籠窓である。2階部分は、蝋を保存する倉庫として利用されていた。

大村家(重文)

  
  
  
 

大村家(手前)と本芳我邸(後方) (国重文)

 大村家は寛政年間(1789-1801)に建築された、この地区では最も古い商家の一つ。土台には栗の木が使われている。

  

本芳我邸は木蝋集荷の元締め商家。明治17年の建築。
なまこ壁の意匠、漆喰壁の色使い、こて絵の棟飾り懸魚(げぎょ)が美しい。漆喰やなまこ壁の重厚感、防火のまじないとして取り付ける懸魚のデザインについて、ここまでこだわる理由は、蝋を扱う商人にとっては火が一番の大敵だからだろうか。
黄色が混じった漆喰壁が作る日差しの陰影は、朝昼夕と微妙に変化する。ぜひとも朝夕に歩いてみたい。
    


上芳我邸(国重文)
本芳我邸の分家。明治27年の建築。こちらは館内を公開している。
  
  
 

上芳我邸内 
製蝋用具の展示、蝋の生産方法の解説が行われている。製蝋用具は国の有形民俗文化財に指定されている。

  
  
  
 

鏝(こて)絵師の家
内子の街並形成に貢献した、芸術的なこて絵師の世界が垣間見られる。
  

高昌寺付近のみやげ物店 
 町でただ一人となった和傘職人、泉正氏の芸術作品も売る。もみじを散らした和傘は、骨一本ずつ丁寧に編まれており、この上なく美しい。このようにおしゃれな傘が良く似合う街並だ。
  
 

和ろうそく職人 大森さん
 内子の伝統工芸を守る職人の一人。200年続く蝋燭屋の六代目。
店の奥でご主人が一本一本手作りする。芯の周りが薄緑色のバウムクーヘンのようになって、眺めているだけでも美しい。奥さんが帳場で灯す蝋燭は、炎が大きく長持ちし、すすがほとんど出ないのが特徴。このように心を込めて作られた蝋燭は、大切な場で使いたいものだ。例えば、誕生日や結婚記念日、部屋の明かりを全て消して、大きく暖かい灯火のもと、おいしい食事と地酒で幸せな時間を過ごそう。日本人はとかく明るい灯火を好むが、西欧ではムードを演出するため、ろうそく一本で食事を提供するレストランをよく見かける。内子にそのような「蝋燭のある生活」を体感できる施設や飲食店があれば素晴らしいだろう。

      

内子座 
 大正5年(1916)創建された本格的な歌舞伎劇場。栄華の記憶を保つような、また内子のホスピタリティを活かすような積極的な利用方法を検討してほしい。例えば、訪問客用のカルチャーセンターのようなものはいかがだろうか。

     

商いと暮らし博物館
 薬剤商家を保存する町立の資料館。
  

*取材メモ
2003年12月

内子には高知からの細い峠道を越えて朝9時ごろ到着した。背後の山が近く、水清く鳥の声がさわやかだ。
内子は、団体観光客が訪問する人気コースになりつつある。団体向けの店や商品も増えてきて、街並風情が無くなるのを危惧する。
それはある程度止むを得ない事とは言え、町が「エコロジータウン」を目指しているのであれば、エコロジカルな観光交流スタイルを提唱していく必要があるだろう。
例えば、町の景観条例がハードを守り、町の観光交流条例、迷惑防止条例、エチケット条例などがソフトを守り、訪問客と地域住民との良い関係を構築することが必要だろう。
コア地区内では、歩きタバコは禁止。団体の旗やメガホンを持って行動しないで、個人行動を原則とする。バスや車は遠隔地に駐車し、バスの冷房用エンジンは必ず切る。個人向けの無料ガイドボランティアを増やす。滞在型交流型のイベントや施設(民宿など)を増やす。等々、街を五感で楽しむための細かい配慮がほしい。

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