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フランス、ノルマンディー、ジヴェルニークロード・モネの家と庭園

(Maison et Jardins de Claude Monet, Giverny, Normandy, France)

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Oct.2010 撮影:野崎順次

撮影日: 2010年10月5日

ジヴェルニーのモネの家とクロード・モネ財団について

クロード・モネ1926年12月5日没、唯一生存していた息子ミシェルは、日本の浮世絵や貴重な絵画とジヴェルニーにある不動産を相続しました。

しかしミシェルは、アフリカのサファリの方が好きであり家族の家にはあまり興味をしめしませんでした。

モネの長男ジャンはすでに他界し、アリスの娘であり、ジャンの妻ブランシュ・モネ・オシュデが、庭師長であるルブレと共に庭園の保護活動に従事しました。

1947年ブランシュの死後、庭はほとんど放置されたままでした。

ミシェル・モネは自動車事故で1966年に亡くなりました。

相続人がないので彼の遺言により、芸術アカデミーは絵画コレクションと不動産を譲り受けました。

ジャック・カルリュー(パレ・ドゥ・シャイヨー建築家、芸術アカデミーのメンバー、マルモトン博物館長)は、予算がない中、屋根の修復や絵画コレクションの保護に努めました。

1977年にジャック・カルリューの死後、芸術アカデミーはベルサイユ宮殿の修復で有名なジェラルド・ヴァン・デー ・ケンプに依頼しました。

家は痛ましい状態にありました。そして庭は悲しいほどに荒れ果てていたのです。

多数の木が枯れていましたし、温室は窓が壊れ、植物を支える格子はさびていました。

水庭にあった日本の橋は壊れ、水は黒く濁り、ねずみにより土手は破壊されていました。

芸術アカデミーとウール県の議会予算は不足していました。

そこでジェラルド・ヴァン・デー・ケンプと彼の妻のフローレンスはジヴェルニー邸を救うためにアメリカの芸術スポンサーを募りました。

寄贈者は多く非常に寛大であり、そのお陰で修復が可能になりました。

3年の間に、重要な工事が行われました。

家、アトリエ、家具、浮世絵を修復しました。

ジェラルド・ デール ・ケンプとジルベー・バエ (若い庭師長)と共に庭園を再現しました。

枯れた木を取り、花壇を耕し、道を整え、日本の橋は原型同様に作り直しました。

モネが所有していた藤の木は保持し、水の周りにある土手は強化し修理しました。

記録文書、数えきれない写真、庭園を知る人たちの思い出により、モネが最も愛した植物を見つけ出すことができました。

若干の品種によっては消滅したという状態であるものもあり、それらは類似するもので備えました。

最終的に、訪問者を歓迎するために庭園の道は広げられ、レンガで強固されました。

1980年に、クロード・モネ財団ガ作られました。

そして6月1日に大衆のために、そのドアが開けられたのです。

それは非常に速く、世界中から多くの訪問者を集め、最も有名な観光地となりました。

ノルマンディーの観光サイトでは、モンサンミシェルに続き2番目に、モネの庭と家が検索されます。

4月1日から11月1日の間に情熱的に訪れる人々は年間40万人にも及びます。

さて、 ジヴェルニーの村はパリから100km足らず。

交通渋滞のパリ市街から環状道路に抜け出て、高速道路を西へたどります。

高速道路を下りてから少し迷い、いろいろ人に聞きましたが、中にはいい加減なアドバイスもあったようで、思いがけなく、城跡の跡が見られたりして、ついにジベヴェルニーに着きました。

小さなホテルでランチを食べ、村道をたどります。

入り口とショップ

モネの家、外部

庭園

水の庭

≪ 私は自分の睡蓮を理解するために時を過ごしました。それらを描くことも考えないで育てたのです。風景はたった一日でなしえることはない。そしてある日突然、私は池の魔法にかかったようにある発見に導かれたのです。そしてパレットをとり、それ以来、池以外を描くことはありませんでした。≫クロード・モネの言葉

引用資料

クロード・モネ財団 Website


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