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福井県南越前町 今庄
Imajo, Minamiechizen town, Fukui


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July 25,2017 中山辰夫

今庄宿
福井県南条郡越前町今庄

今庄宿のある北国街道は東海道関ヶ原と越前高田を結ぶ約370qの道のりである。今は主にJR北陸本線、北陸自動車道、国道8号線が平行して走り,旧街道・古道には僅かな家並みや集落が残るのみである。北国街道は、江戸参勤には最短距離で、越前各藩は今庄宿を大いに利用し、栄えたとされる。

幾重にも重なる南条山地は古くから北陸道の難所で、木の芽峠(標高:630m)、栃ノ木峠(標高:538m)のいずれかの山越えの道を選んで今庄に至り、京・江戸への往来や伊勢参りなどの旅人が最初に宿泊したのが、今庄宿であった。
 
今庄宿の周辺は、万葉歌人・大伴家持、父・藤原為時に同行した紫式部、南朝時代の新田義貞と妻・匂当内侍、織田信長、お市と三人の娘、親鸞や蓮如、水戸天狗党なども通った街道で、その時代時代を語るドラマが展開されてきた。

案内
    

町なか散策−JR湯尾駅側よりJR今宿駅の方へ向かう 飲食、コンビニの店が一件も見当たらない。

越前から来る今庄宿の入口は稲荷神社のすこし手前である。入口からの道路は宿場特有の短折になっており、宿場全体を見通せない。
稲荷神社とやなぎ清水地蔵尊
   

畠山酒造創業:1835(天保六)年の造り酒屋、今庄には造り酒屋が数件ある。
     

高野由郎老舗(梅肉)と吉五味噌醤油老舗
    
高野由郎老舗は江戸時代、旅籠をしていた。甘露梅肉、紅梅液は若狭藩主が土産として携えた若狭梅を加工し、宿泊客に振舞ったのが発端で生まれた。
一子相伝梅一筋の味は「無理せず味を守ることだけを考える様に」という先祖代々の家訓を心の支えに作り続けていると聞く
吉五味噌醤油老舗は「夜叉ケ池味噌」で知られる、明治初め創業の味噌造りの老舗


問屋跡の看板が立っているが遺構は残ってなくて空き地になっていた。この辺りが今庄宿の中心街となっていたところだ。天保年間には旅籠が55軒もあり、とても賑わった宿場だったという。
     

京藤本家
  
1697(元禄10)年、徳川将軍奉行所より「古代酒鑑札」が交付され酒造りを営んできた

隣も京藤家 今庄には京藤姓が多い。同じ出身であろう。道路の短形な様子が分かる
   
この辺りには「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」という札を下げた歴史を感じさせる民家が続いている。

問屋場跡(平塚屋)1851(嘉永4)年右衛門佐から引き継いだ。他に大野屋・谷屋があった。遺構もなく現在は空地になっている
  

「新羅神社」と「ひうちケ城跡」(愛宕山山頂)と「新羅神社」
      

『今庄町誌』にある『新羅神社縁起』
「清和天皇の御宇貞観元己卯年(八五九)に智証大師が大唐国から帰朝の途、海上で暴風に遭い船はまさに覆没しようとするので、長い時刻を素盞鳴尊に祈請していると空中から御声があり"智証憂うること勿れ、間もなく風波は鎮靜するであろう"と宣わせ給うのである。智証は不審に思い"斯く宣わせ給うのは、何神なる哉願くば教え給え"と申し上げると、やおら御影を現し"吾こそは往昔のこと、新羅国征服の神なり"と宣わせ給うのである。・・・・・・後世に至り越前国燧山に新羅大明神を建立し、御神体を素盞鳴尊となして奉還することになったのである」
福井県には新羅神社が多くある。大陸との往来が頻繁にあったことによる。他に新羅三郎義光の霊を祀るともいわれている。
社殿はもと愛宕山の山頂にあったが、寿永2年(1183)木曾義仲が平家軍を迎え撃つため、「ひうちケ城」を築いたときに城側に移され、天文年間(1532〜55)に現在地に移されたという。そのひうちケ城跡はこの裏山にある。

酒造北善商店 1619(元和4)年より酒造を営む。 御札場跡 金銀と藩札の交換を行う御札場も務めていた。
      

駅へ通じる脇道を通過する。通りには民家が多く並ぶ
   

脇本陣跡(旧加賀本陣・旧北村新平家) 本陣の予備として使われた。加賀の殿さまがよく利用されたので、加賀本陣といわれた。昭和会館(国登録文化財)
     
昭和会館は、1916(昭和5)年、地元の篤志家・田中和吉氏が研修場として建設した。1955(昭和30)からは今庄町役場として使われた。今は公民館として利用

今宿本陣跡と明治殿(国登録文化財)
    
1718(享保3)年、後藤覚左エ門宅が利用された。宏荘な邸宅であった。1878(明治11)年の明治天皇巡行の際の行在所となった。
明治館は、田中和吉氏が1933(昭和8)年にこの本陣跡を保存すべく、明治殿を築造、一帯を整備して公徳園とした。

若狭屋 (国登録文化愛) NPO法人・今庄旅籠塾が運営
    
江戸時代そのままの旅籠。一般市民が泊まる旅宿、始めは食糧を持参し、薪代などを払う形態だった。交通量の増加と庶民の旅行が増え、現在の姿に移った。

堀口酒造 1619(元和4)年に創業
    
地元福井の歌人、橘曉覧(あけみ)の歌 「得々と足り来る酒の 鳴り瓢(ひさご) 嬉しき音を さするものかな」より、「鳴り瓢」と改名した。

京藤甚五郎家 (県指定文化財)
      
水戸天狗党の一行が宿泊し、当家の酒で風呂を沸かして浴したエピソードや刀傷の付いた柱がのこる。

問屋跡、旧右衛門佐跡 藩札と金銀の両替所
    

旧西尾茂左衛門家 現在改修中 問屋跡―藩札と金銀の両替所
    

その他、見かけたもの
        

約1kmの町並みは終わる。この先には板取宿がある。
 

今庄宿は、北陸から京や江戸へと続く街道が集約される地点にあたる。
ここから中山峠、木の芽峠、栃ノ木峠など、いずれかの峠道を選んで南条山地を越えなければ、近江側へは出られない。
今庄宿は、峠越えの難所を前にした宿場として、越前ではもっとも栄えたといわれている。
江戸時代の後期には、戸数約290軒、うち旅籠屋55軒、茶屋15軒など、約1kmにわたってつづく町並は多くの旅人で賑わったという。

いまも古い家屋が軒を連ね、往時の地割がほとんど変わっていないため、昔日の宿場の面影を色濃く残している。敵からの防御のため宿場の入口から全体を見通せないようにした、矩折(かねおり)または桝形(ますがた)といわれるカギ型に屈曲した道の構造、そして宿場の中も道がゆるやかに湾曲しており、それらが背景の山並みとあいまって独特の景観を形作っているのが見事である。ここの町並は、今庄駅からすぐ歩ける距離だというのも魅力だ。

もちろん参勤交代のために大名もここを通った。残念ながら建物は残っていないが、本陣跡が整備保存されており、往時の繁栄ぶりを伝えている。

「鳴り瓢(なりひさご)」と称される、いかにも酒好きの心をくすぐる銘柄を造る堀口酒造は、創業1619年というから約400年続いていることになる。

これは御札場跡(おふだばあと)旧西尾茂左衛門家。銀と兌換できる藩札の発行を幕府から初めて許された福井藩が、藩内では藩札の使用を強制したため設けられた藩札と金銀の両替所である。
 すぐ先右手に「高札場跡」がある。
 ここから街道を外れて今日の宿である、今庄サイクリングターミナルへ行く。ここは今庄駅の向こう側にある町営の施設だが、今夜の泊り客は私一人だった。ここで荷物を置いて16時15分に出発する。
 街道に戻るがまだ今庄宿が続いている。本陣は享保3年(1718)に後藤覚左衛門が仰せつかり、明治天皇北陸御巡幸の際も行在所となったが、その後後藤家は移住したため、この辺り一帯を公徳園として利用している。

 また脇本陣は北村新兵衛家が勤めたが、跡地を田中和吉氏が購入して昭和会館を設立、その後今庄町役場として使用され、現在は公民館になっている。

 更に右手に「京藤甚五郎家」がある。うだつが上がった虫籠窓、連子格子の建物で天保年間(1830〜1844)に建立され、当時は造り酒屋だったという。今庄宿は歴史を感じさせる家が数多く残っているのが印象的だ。


January 4,2014 大野木康夫 video

今庄宿は北国街道で栄えた大宿場町でした。
旧街道を歩くと醸造業を営む家が多くみられます。
後年の改造があってもうだつが上がっている家が多くみられるなど、往時の町並みの名残が残っています。

駅前から道しるべへ

           

北国街道と北陸道の分岐に立てられていた道しるべ

        

道しるべから旧街道を北へ高札場付近まで

                         

宿場の中心部

旧昭和会館(今庄地区公民館今庄分館)(登録有形文化財)

昭和6(1931)年の建築

旧昭和会館は、昭和6年に田中和吉氏の寄付で建てられた。
田中氏は財団法人啓潤会を創設し、財産のほとんどを社会教育や福祉事業に費やしたといわれる。
昭和会館は財団の拠点施設であり、地元住民の婦人会や研修会などに利用されていたという。
昭和30年から49年までは旧今庄町の役場として、現在は公民館として利用されている。
鉄筋コンクリート造地上2階、地下1階建の建物で、中央にポーチを置き、左右対称の正面とする。
設計・施工は京都の上田工務店であるが、基礎やコンクリートの骨材用の石を河原から運ぶなど、地元住民も作業に携わったという。
外観は改装されてしまっているが、特に3階のホールは当初の状態をよく伝えている。
宿場町として栄えた今庄宿に残る数少ない洋風建築として貴重な建物である。
(「福井の文化財」より)

  

明治殿(登録有形文化財)

昭和7(1932)年の建築

明治殿は、北陸街道の宿場町として栄えた今庄宿にある。明治になると廃れてしまった宿場町が多い中、今庄には鉄道が通り、近代以降も交通の要衝として活気にあふれた町であった。
現在、明治殿が建つ場所は、江戸時代に福井藩の大庄屋で、本陣でもあった後藤家の屋敷地であった。
明治11年に明治天皇が北陸地方を巡幸された際には行在所(あんざいしょ)となった。
その後、後藤家は他所に移ってしまったが、地元の田中和吉氏によって、敷地内の整備が行われ、昭和7年、明治天皇の行在所を再現した明治殿が建てられた。
木造平屋建、屋根は入母屋造銅板葺で、前方に唐破風の向拝を設ける。
桁行7.6m、梁間6.5m。
内部中央に、明治天皇が利用したという10畳の座敷が再現されている。
(「福井の文化財」より)

    

旧旅籠若狭屋(登録有形文化財)

江戸末期の建築

旧旅籠若狭屋は北陸街道の宿場町として栄えた今庄宿の旅籠として建てられた。
木造2階建、現在の屋根は切妻造鉄板葺であるが、当初は板葺きだったという。
間口10m、奥行9.5m正面中央に玄関を設け、その両脇は平格子とする。
2階部も全面を太い格子を構え、両脇には袖ウダツを設ける。
2階に客座敷を設ける旅籠であるため、通常の町屋としては2階部の階高が高い。
天保年間(1830〜1844)の記録によると、今庄宿には55軒もの旅籠があったという。
旧旅籠若狭屋は、宿場町として栄えた今庄宿の当時をしのぶことができる数少ない遺構である。
(「福井の文化財」より)

    

堀口酒造

   

旧京藤甚五郎家住宅(福井県指定文化財)

江戸後期の建築

旧京藤甚五郎家住宅は、北陸街道の宿場として栄えた旧今庄町の町中にある。
京藤家は江戸時代には酒造業を営むなど、今庄宿有数の旧家であったという。
本住宅の間口は20m余りあり、標準的な町屋と比べると2倍の大きさである。
木造2階建、切妻造で、屋根には越前特有の赤瓦が葺かれている。
両妻面の壁を屋根面よりも高く持ち上げた本格的なウダツを上げ、壁面を土壁で塗り籠めるなど、防火を意識した表構えが特徴である。
当建築の正確な建築年代は不明であるが、江戸時代後期から幕末と考えられる。
伝統的な町屋の形態をよく留めており、県内に現存する数少ない江戸時代の大型町屋である。
(「福井の文化財」より)

          

さらに北へ

        

旧京藤甚五郎家住宅付近に戻る

                

 


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