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福井県南越前町 北前船主の館・右近家
Tomochikake,Minamiechizen town,Fukui

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June 6,2016 瀧山幸伸 movie

                                                                                                                                                                



Aug. 5, 2014 中山辰夫

福井県南条郡南越前町河野2−15

所在
  

北前船主の館は、日本海に面した南越前町にあって、右近家代々の屋敷と別邸・西洋館(国登録有形文化財)を村が借り受け、1990(平成2)年から一般に公開した。さらに山荘展示館・東屋を整備した。総面積10,000uの広さである。
現在は、江戸後期〜明治中期にかけて、日本海・瀬戸内海・上方の諸地域間の物資の流通や文化の交流に重要な役割を果たした”北前船”をテーマとした資料の常設展示の場となっており、当家の廻船経営に関する資料を中心に、村内に残る北前船の資料をテーマ別に展示、コンピューターグラフィックスによる展示案内も行っている。
尚、近くには河野の歴史・民俗資料の展示を行っている「歴史文化ふれあい会館」がある。

右近家は、江戸時代中期から明治中期まで日本海を舞台に、北海道と大阪間の諸港を結んで商いをした北前船の船主である。
最盛期には、北前船五大船主に挙げられていた。

河野地区概況
敦賀港周辺は、古代から先進的な大陸と日本を結ぶ重要な寄港地であり、琵琶湖と共に日本海と政権の中央のある畿内とを結ぶ重要な役割を果たしてきた。
以降、江戸時代に至るまで重要港であり続けた。その敦賀湾の入口に位置するのが河野村(現在の南越南町)である。
敦賀に着いた蝦夷地からの荷物は、琵琶湖を経由して京・大阪に送られる。また、一方、越前の府中(武生)など内陸部には敦賀から小廻船によって河野村今泉に運ばれ、そこから馬によって運ばれた。今も馬借街道(約15q)が残る。敦賀から越前への物資の運送を妨げているのは急峻な木の芽峠(標高628m)である。海路であれば敦賀から28km、大量の荷を僅かな労力で河野浦へ、又河野浦から府中・敦賀に運んだ。河野の浦は船便と陸路である馬借街道の発着地であった。河野浦は越前国国府と敦賀間の道筋上の港として古代から使われてきた。国府の外港であったことから、「国府浦」が「河野浦」となったとの説がある。
つまり河野浦は物資の集散地として賑わっていた。こうした歴史が、地域に漁業より海運業者を育んで行った。その代表が右近権佐衛門家・中村家である。
これらの海上運輸に、村の男は命をかけて航海にでた。当初の近海運輸から、江戸中期から明治中頃まで、北前船と呼ばれる弁才船、やがて洋帆船、次いで明治中期になってから汽船が大阪から瀬戸内海、日本海を通り、蝦夷(北海道)までを往復し各地の物産を運んだ。その中の一隻の汽船が旅順港閉塞船「福井丸」であり、右近権左衛門家の持船であった。船と共に生きた右近家の航跡が展示されている。

JR武生駅からは車で約30分走り、山を越え、日本海が見えると河野の中心、河野・今泉地区である。前方は日本海、後方は急峻な崖の山である。
  
海岸まで山が迫り、海沿いにR305が通り、この道路と山裾のわずかな土地に細長く集落がある。前面は日本海の波、西には立石岬の山々とその奥に敦賀湾が控えている。車で来るのは大変だが、海上を辿ると敦賀とは目と鼻の先。
この小さな海沿いの集落から、右近家等の北前船の大船主が輩出された。
    

案内掲示
    

河野浦の北前船主通り
  
幕末に右近家と並んで5大船主の一つに数えられた中村家、および刀禰家が軒を並べている。
海沿いの自動車道の一歩裏、幅一間(1.8m)ほどの狭い旧道がこの集落の本来の町並みである。屋敷の門や土蔵で構成され、道を挟んで母屋の玄関がある。かつては道路前が海だった。

右近家の建物と並び
     
右近家の敷地内には、村の旧道をはさんで、山側に本宅と3棟の内蔵、海側に4棟の外蔵が建っており、長い板塀で本宅を囲っている。
本宅は、1901(明治34)年に増築した木造2階建の屋敷。
平入りの2階建で、切妻造りの屋根には瓦が葺かれている。瓦は越前瓦で、棟先に「右近」の文字の入った丸瓦が置かれている。

外蔵
いずれも2階建で、欅材が多く用いられている。外蔵の南側3棟と北側1棟の間には、塗籠の長屋門がある。
長屋門は、海に向かい開かれていて、海に生きる船主の敬けんな祈りを表す河野独特の構えである。
     

       
脇門 来客用の脇門が別にある。

本宅
    
玄関の石は北前船で運んだ瀬戸内の石。玄関戸は三重である。

玄関より内部は撮影禁止

玄関口より本宅内を望む。
    

観覧マップ
  
内部は、選りすぐりの黷フ柱や、杉・檜・米松の良材を使い、商家として豪勢さをおさえた格調高い造作で、上方風の建築といわれている。

庭園
奥座敷の奥には、崖を借景に北前船が各地から運んで来た銘石の庭園があり茶室もある。
          

蔵と展示品
        
当時は海難が多く船主が神社に船絵馬を奉納し、航海の安全を祈った。玉神丸の鬼瓦、右近家の船旗印(一膳箸)
   

右近家の左隣から北前船主・中村家とその分家及び刀禰家が続く。海側の町並みは、屋敷の門や外蔵で構成されている。
門や蔵が海風を遮る役目をする。
門と外蔵の表構え、裏構えである。
           

これが集落本来の道
             

道を挟んで母屋の玄関がある。 落ち着いた風格のある家並みが連なる。中村家の鬼瓦。かつて日本海5大船主の一つに数えられた。
鬼瓦や懸漁といった細部も手が込んでいる。建物内の意匠は見ることができない。
       

金相寺 真宗大谷派 右近家・中村家の菩提寺である。
    

住吉山 通伝寺 浄土真宗
     

寺は高い位置にあるため各家の大屋根が見渡せる。
      

参考資料―1
   

≪参考資料−2 南越前町観光情報サイトの抜粋・転載≫
■河野浦の地理的条件
旧河野村は越前海岸の南端、敦賀湾のほぼ入口に位置し、山々が海に迫り、わずかに残された平地には、家々が帯のように密集して形成していた。
現在の国道305号線のような海岸沿いの道路もかつてはなく、「北前船主の館右近家」の建つ河野浦をはじめ、現在、旧河野村に含まれる多くの集落は海に向かって開かれ、海とともに生きてきた”海村”であった。

■中世の河野浦
漁業を中心とする浦であったが、中世に入り、15世紀頃にもなると、河野浦や隣接する今泉浦には敦賀湊から船が着岸するようになる。この両浦から、いわゆる西街道を利用して山を越えれば、当時の越前の中心地である府中(現在の武生市)は間近であった。こうして、物資の輸送は勿論のこと、京の公家冷泉為広卿をはじめ、旅行者の往来にも河野・今泉の両浦は利用された。
戦国期には、河野浦や今泉浦の船は、戦国大名朝倉氏から御用を勤める代わりに課税免除の特権が与えられ、三国〜敦賀間等の物資輸送にも従事していたようである。なお、敦賀湊には中世末に河野屋座と呼ばれる船座があり、川船座とともに敦賀湊を拠点に廻船業に携わっており、河野浦や今泉浦での物資運送の営業権を有していることから、この両浦とも深い関係があったものと思われる。

■江戸時代の河野浦
江戸時代における日本海海運は、今日では”北前船”という言葉でよく代表されるが、この北前船が目立って活躍するのは江戸時代の半ばを過ぎてからであった。それまでの間、日本海を行き交う廻船の多くは、幕府や諸藩の年貢米を上方に輸送する廻船と、いち早く松前蝦夷地(現在の北海道)に進出した近江商人が、その地で獲れた海産物を敦賀、小浜を中心とする地域に輸送するために共同で雇った”荷所船”と呼ばれる廻船であった。
敦賀湾のほぼ入口に位置するという地理的条件から、河野浦の廻船の多くは近江商人の”荷所船”として活躍していた。江戸時代の中頃、享保14年(1729)の資料によれば、かつてはこの浦で36隻もの廻船があったという。しかし、この年は4隻の廻船が一度に難破したため年貢納入にも困り果てたという。”板子一枚下は地獄”とは船乗りの間ではよく言われた言葉であるが、この浦でも父子ともに海難に逢って断絶した家もあり、廻船による商売の危険性をまざまざと見せつけるものであった。

■北前船の時代へ
江戸時代も半ばを過ぎ、商品流通の発展にともない、日本海海運は飛躍的に発展を迎えることになる。18世紀の半ば、宝暦から天明期になると、松前蝦夷地における近江商人の地位が低下し、荷所船”として運賃積を行っていた廻船も買積み商いの比率を高めるようになる。
松前蝦夷地の鰊は肥料としての需要が拡大し、商品価格の地域差を利用して、北前船の買積み商いは徐々に活況を呈することになる。
近江商人の”荷所船”として日本海を駆け巡っていた右近権左衛門家や中村三郎右衛門(三之丞)家をはじめ、船主達の多くはこのチャンスを生かして大海原に進出し、幕末から明治前期にかけて日本海沿岸有数の北前船主が輩出したのである。

右近権左衛門家の歴史

右近家の船出
「北前船主の館」の主である右近権左衛門家のルーツをたどっていくと、江戸時代前期に溯る。今から300年以上前の延宝8年(1680)、河野浦の金相寺3代住職漸祐は4代目となる専祐の弟を寺の養女と縁組させ、田畑山林とともに船1隻を与えて分家させた。
幕末から明治時代にかけて日本海にその名を馳せた右近権左衛門家もその”船出”はささやかなものであった。

荷所船としての活躍
代々の権左衛門の船は、近江商人の”荷所船”として松前蝦夷地と敦賀・小浜等を結ぶ日本海を往復していたのであろう。
近江商人の西川家に残されている資料によれば、18世紀の前半、元文から宝暦期にかけて、鰊荷所を積んでいた船の中に右近権左衛門の名が見られる。
しかし、18世紀も半ばを過ぎ、宝暦から天明期のあたりには、日本海海運を取り巻く流通構造が変化をきたし、”荷所船”として従事していた右近家の廻船にもその影響が現れてきている。
天明から寛政期の右近家の経営記録「万年店おろし帳」によれば、右近家の廻船は近江商人の”荷所船”として活動するかたわら、自ら商品を仕入れ販売する、いわゆる買積み商いも行うようになっている。ただし、それは常に危険との隣合わせであり、商品の価格変動による損益のほか、寛政12年(1800)のように、江差沖で右近家の弁天丸が破船し、船を失うとともに積荷の商品280両余の損害を蒙ることもあった。こうした荒波にもまれながらも、右近家はたくましく時代を生き抜いて、飛躍の機をうかがってきたのである。そして、その機は9代目権左衛門の時代に訪れた。

右近権左衛門−北前船主としての活躍
9代目右近権左衛門は、文化13年(1816)に生まれた。彼は若い頃自ら右近家の廻船である小新造や八幡丸に船頭として乗り込み、全国各地の情報を収集するとともに廻船経営のノウハウを身をもって体験した。この経験が、商機を見逃さず、幕末から明治前期にかけての北前船の最盛期を生き抜き、右近権左衛門家を日本海沿岸有数の北前船主に仕立て上げることになった。
彼は従来から右近家が所有していた廻船に加え、同郷で姻戚関係にある中村三郎右衛門家や商取引のあった大坂の問屋商人和泉屋や近江屋などと廻船を共同経営する積極経営を展開する。廻船の中には海難に逢うこともあったが、彼はそれにひるむことなく、次々と廻船を増やしていき、そこで得られた収益も飛躍的に拡大した。時代はまさに”ハイリスク・ハイリターン”であった。先代の8代目権左衛門の亡くなった嘉永6年(1853)時点で右近家所有廻船は3隻、利益が約1,600両だったのに対して、10年後の文久3年(1863)には廻船数11隻、利益は12,000両余に達している。
また、各廻船の船頭には信頼の置ける者が求められたが、9代目権左衛門は多くの男子に恵まれ、それぞれが船頭として”右近の船”を支えた。かくして、幕末から明治初期にかけての”一航海千両”と言われる時代の追風を受けながら、莫大な利益を右近家は手中にしたのである。

10代目権左衛門−近代船主への道
10代目権左衛門は嘉永5年(1852)に生まれ、父9代目権左衛門同様、弟達とともに右近家の廻船に船頭として乗り込み、商才を磨いた。
しかし彼が生涯の大半を生きた明治という時代は、北前船が空前の活況からかげりを見せていく時代であった。明治政府の近代化政索により、文明開化の象徴ともいえる蒸気船が三菱や日本郵船といった大資本の手によって日本海沿岸にも運航されるようになった。
10代目権左衛門も父同様に積極的に北前船経営を行い、明治12年(1879)には、右近家の廻船17隻の積石数の合計は18,000石を超えており、それは文字どおり”千石船”の大船団であった。時代は電信などの情報の近代化が進み、商品価格の地域差も次第に縮まりつつあった。
買積み商いによる廻船経営は先の見通しがないことを悟った10代目権左衛門は、明治20年代半ばには自ら所有廻船を西洋型帆船、更には蒸気船に切り替え、大量の商品を運びその運賃を稼ぐ経営に転換した。日露戦争直後の右近家は蒸気船7隻を所有し、その総トン数は2万トン余に達しており、名実ともに近代船主に脱皮している。
一方で10代目権左衛門は、加賀、越中(現在の石川県、富山県)などの北陸地方の有力北前船主とともに北陸親議会や日本海運業同盟会、日本海上保険会社などの設立に大きな役割を果たし、海運業の同業者全体の保護育成に努めた。更には当時先取りの機運にあふれていた北海道などへ目を向け、倉庫業を始め、炭坑や農場を経営するなど、広い視野による多角経営で活躍を続けて行くことになる。

旧河野村と右近権左衛門
このようにして日本海を縦横に活躍した右近権左衛門家は、地元旧河野村に対して社会資本の充実等の面で大きな役割を果たした一人でもあった。
たとえば、明治初年には、同郷の有志とともに、武生から春日野を経て河野浦に至る春日野新道を開削し、この道路と河野ー敦賀間の海路とを利用する海陸運輸会社を設立して、旧河野村を経由する交通路の繁栄を試みている。
また、昭和10年(1935)に山腹に建設した西洋館に使用するために引いた”宮の谷水道”を村民の利用に供したことなどもあげられよう。
このほか、学校の校舎建築や神社の建て替えの際には、常に多額寄付者として名を連ねていた。これらは、身を挺して船を守ってくれている乗組員を地元旧河野村から多く雇用していることから、廻船経営などで得た利益の一部を地元に還元するという意味合いも含まれていたのであろう。
そして近年、現当主は「北前船の歴史むら」事業に賛同し、本宅を村の管理に委ねて「北前船主の館右近家」として一般に公開し、北前船によってもたらされた多くの文化遺産の保存とその活用に寄与している。




北前船主の館・右近家西洋館
福井県南越前町河野2−15

国登録有形文化財

右近家の背後の山上には、昭和10年に建てられた西洋館がある。1935(昭和10)年、十一代右近権左衛門義太郎志建立。
鉄筋コンクリート造りの二階建で、外観は一階がスパニッシュ(欧風 スペイン)、二階がシャレー様式(北欧風(スイス)の丸太積み)でバルコニーがあり、内部は和洋折衷。さらに山上へと散策道で庭園を回遊することが出来る。

別荘はコテッジ風の近代的で洒落たつくりである。
  

建築:1935(昭和10)年 構造:鉄筋コンクリート2階建 大林組の設計・施工。
建築材の材質は選び抜かれた最高のものを使い、デザインの完成度も非常に高く、意匠への心配りも美を感じさせる。

右近家の庭園略図
 

右近家本宅の通称≪蓮池の庭)から登る。 周囲の展望が開けてくる。
        

西洋館案内
 

全景
 
外観は洋風で、屋根には茶色のスペイン瓦が葺かれ、2階部分の外壁は北欧の校倉造り風の桧丸太積みになっている。
設けられたバルコニーの意匠がいい。

一階部分外観
           
一階はクリーム色のスタッコをコテ跡も粗く塗ったスパニッシュ様式

二階部分外観

校倉造りの壁、校木(校倉用の角材)を突出した持ち送りと、それに支えられたベランダなどスイスのシャレー風。
イギリスのチューダー様式を取り入れたバルコニ―のX状に湾曲した手すりが目立つ。
                         

玄関ホール周辺
          

玄関ホールの半円形のニッチ
   

内部
内部は和洋折衷になっており、1階には、暖炉を備えたホールと寝室を中心に、厨房、洗面脱衣室、浴室、水洗便所などがある。

あがり口のドア 鋼鉄製
       

暖炉廻り
色タイルで囲まれている。暖炉の左には「イングルヌック(暖炉の小部屋)」のある空間である。館主のこだわりがうかがえる。
     

梁や根太(ねだ)を露出したホール天井・他
          

1階外回りの鍛冶細工、他
      

二階へむかう
階段廻り
        

2連のアーチやコリント式のねじり柱
   

ステンドグラスがはめ込まれた窓
    

2階には4畳の前室を持った10畳の和室がある。
   

遠景
      

また、背後の山には散策道でつながる庭園や、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリート造りの擬木を用いた休憩所・四阿があり、そこからは日本海を一望することができる。
       

山荘展示館
西洋館から展望台へ行く途中にある。河野村の海に生きた人たちを現代に蘇らせる。「西廻り航路」のフォーラムが隔年に行われ、全国から多くの研究者が集まり年々盛んになるときく。
     

一階展示場
ショーケース内には、日露戦争(1904〜05年)に徴用され、旅順港閉鎖作戦で海軍中佐広瀬武夫が乗船した、右近家所有の福井丸関係品が展示されている。
徴用された八幡丸と福井丸
福井丸は、英国で竣工した遠洋用船、総トン数二千九百四十三トン、排水量四千トン、千三百馬力、最大速力十一ノット(時速約20km)
     

福井丸出港時の敦賀港および旅順港閉塞決死隊の「福井丸」の絵画。作者は当時の従軍画家「東城鉦太郎画伯」。現在舞鶴の海軍記念館に展示されている。)
  
日露戦争の緒戦の一撃以来、ロシアの旅順艦隊は遼東半島先端にある旅順港に留まり兵力温存を図り、そこから出撃しては日本の艦隊を苦しませていた。
遠くヨーロッパからは同じくロシアのバルチック艦隊が太平洋艦隊に合流すべく準備を進めていることが伝えられ、日本海軍は旅順港のロシア艦隊を封じ込めるために、その湾口の狭いことを利用し、貨物船を湾口に沈める封鎖作戦 を計画しました。

左上に沈められる貨物船福井丸の船体、手前には決死隊が脱出を図るボー ト、右上にはロシア軍要塞のサーチライ トが描かれています。福井丸の船上には部下を気遣う広瀬中佐の姿が見えます。
この画を囲む額縁は、日露戦争終結後、旅順湾口から引き上げた福井丸の船体で作られており、船喰虫の跡や、旅 順港に沈められていた際についたカキ殻がついています。この画は、額縁を含め極めて貴重なものです。≪引用≫

河野町役場では、『旅順港閉塞船「福井丸」』なる本を出版、販売している。
 

八幡丸絵馬
  
1894(明治32年)磯前神社に奉納されたもの。河野浦の船乗稼業と縁の深い近郊の総社であった八幡神社から船名を取った。

二階展示場
   

社会還元
郷土の発展にも私財を投入、中村家と謀って河野・武生間の春日野新道開削や、河野敦賀海陸運輸会社の設立、宮の谷水道の建設など、枚挙にいとまがない。村十軒のうち9軒が右近家や中村家の用をし、それぞれの生活の資とした。
春日野新道に関する展示が多い。新道開通は地元発展に大きく寄与した。この道は大正年間まで使用されていた。
     

西洋館は「お助け普請」
北前船で集めた資材を運び上げるのは人力しかなかった。村を挙げての建設工事であった。
    

海上保険への歩み
右近家が五大船主と称される産をなしたのは、第九代権左衛門広隆の時代からである。家を継いだのは1832(天保3)年、17歳の時であった。
当時は僅か小船3艘を漕船する艘運業者であった。が、広隆は、若いころから右近家の廻船に船頭として乗組み、各地の情報を収集するとともに廻船経営のノウハウを体得した。折しも、江戸後期の北前航路が活況を呈し始めた頃で、広隆は一代で千石船三十余艘を所有する船主となった。
「才知を尽くすこと」「利益をすぐさま判断すること」「その時勢を見ること」この三つが広隆の処世訓であった。その基盤を十代目吉太郎が継いだ。
弁才船から洋式帆船さらに汽船への転換を図り近代船主へ脱皮した。この吉太郎が現在の右近家へ改築を行った。また、日露戦争の際に、「八幡丸」「福井丸」が徴収され、沈没した。
航海は常に危険と隣り合わせ、遭難も多い。そこで各船主相互扶助のために、海上保険の必要性を感じ、「日本海上保険株式会社」を設立した。

慰霊碑公園
河野村糠浦

舞鶴行きの命を受けた特務艦「関東」が、吹雪と怒濤により糠浦海岸で座礁したのは、大正13年12月12日のこと。その難を聞きつけた村人は、身の危険も顧みず必死に救護活動を行った。乗組員207名のうち97名が激浪に巻き込まれて殉死した。
仮死状態になった兵士たちを裸になって温めたのは糠浦女性の肌だった。お蔭で30余名の命がよみがえった。冬場の男たちは杜氏として出稼ぎに行っており、残っているのは女性ばかりであった。
当時、日本の人々を感動させたこの事件にちなんで、糠浦海岸には遭難慰霊碑園地があり、弔魂の碑と当時の救護活動の様子を描いたレリーフ(2.5m×7m)が建てられている。
  






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