JAPAN GEOGRAPHIC

福井県敦賀市 疋田
Hikida,Tsuruga city,Fukui

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Sep.2,2014 中山辰夫


敦賀市疋田地区散策

滋賀県塩津沓崖から深沢古道を通り、福井県の追分から疋田に入り、疋田地区内を散策した。

古道を抜けると「愛発(あらちね)」の掲示が目に付く。

愛発(あらたな)の歴史
古代にあっては、今の北陸三県は、広く、越と呼ばれ、畿内から独立して相当の勢力を維持していた。
大陸文化が日本海に上陸し、琵琶湖〜木津川という水運を利用すれば、最短距離で畿内に到達しうる道筋であることから、早くに開かれた。
5〜6世紀に大和に迎えられた継体天皇も越前三国の人であり、水運交流の深い近江の勢力に支えられていた。
愛発という名は、奈良時代に、鈴鹿関や不破関と共にこの地に愛発関が設けられたことより始まる。
敦賀南部の山間地に位置するこの愛発地区は、5世紀から敦賀と北陸を結ぶ往還とともに開けてきた。万葉の時代から多くの人が行き交い、戦国時代には越前の支配をめぐる戦火の舞台となった。江戸時代には街道を上下する物流で賑わい、江戸後期には、敦賀港と琵琶湖を結ぶ運河の一部が開通した。
明治に入ると日本海側では最も早く鉄道が開通した。

愛発の名は、愛発関が789(延暦8)年廃止されると平安時代以降、海津と敦賀との間に横たわる山の名前として和歌や物語の中に語り継がれてきた。
義経・弁慶の一行や、1207(承元元)年、親鸞が越後へ流された時に有父山(あらちやま)を越えている。
『越後なる あらちの山に 行き疲れ 足も血潮に 染めるばかりぞ』
1889(明治23)年の町村合併施行により愛発村が誕生、1955(昭和30)年敦賀市に合併されて現在に至る「説明板より」
今は国道161号線が中央を抜ける。

JR北陸線 新疋田駅

疋田地区
深坂古道の出口から約500m歩くと国道161号線、すぐ先が新疋田駅で、この辺りは追分である。

疋田は、敦賀市街の南方にあって、琵琶湖方面に約7kmの所で国道8号線が国道161号線と分岐する場所に疋田集落がある。
駅からは国道1号線に沿って約10分歩くと疋田集落に入る。


古代、追分(新疋田駅付近)で七里半越えから深坂越えの道に分かれた。この交通の要所に古代三関の一つ愛発の関があったと推定される。
恵美押勝の乱では越前に入ろうとした恵美押勝がこの愛発の関で阻止された。
戦国期朝倉家の前線基地として疋壇城が築かれた。朝倉義景は北近江で織田信長と戦い、刀根坂峠で壊滅的な敗北を喫し、この疋壇城に逃げ込んだが、一夜にして一乗谷に逃走した。
江戸時代に塩津道と西近江路が合流する追分の宿として賑わい、小浜藩本陣も置かれた郡内最大の宿場町であった。

瀬戸内海を経由して大阪へ直接乗り入れる「西廻り航路」が開発されるまでは、北陸・東北地域からの諸産物を京の都や大阪へ運ぶ物流は、敦賀や小浜で陸揚げし、陸路で琵琶湖まで運んで、そこから水運で大津を経由して運ばれるルートであった。逆もまたしかりで、琵琶湖の東岸と西岸を結ぶ2つの街道が合流する疋田の賑わいぶりは相当なものであったと思われる。
運河が平清盛にはじまり豊臣秀吉も計画に着手したが果たせず、江戸時代になっても幾度も検討はされ、幕府と小浜藩の手で着工された。水路は敦賀から疋田までの区間で開通したが、川舟運送に荷物を奪われた馬借座の反対により短期間で廃止へ追い込まれた。
さらに追い打ちを掛けたのが、「西廻り航路」の大坂港への直接乗り入れで、疋田は衰退していった。

現在の疋田には、伝統的な商家や町屋はほとんど残されていないが、当時の区画のまま旧道と水路に沿って軒を連ねる落ち着いた家並みは、遠い昔の様子を偲ばせてくれる。
疋田地区では①疋田舟川 ⑦疋壇城跡 ③日吉神社を訪れた。



■疋田舟川

JR疋田駅から国道161号線を進み、JR北陸本線の高架をくぐると左手に疋田集落への旧道が分かれている。
岩の上には祠屋根が乗せられていてなんとも奇妙な姿である。集落の安穏と往来の安全を祈願して造られた。

疋壇城登口の案内を過ぎると、右手に水路が現れる。

分岐点に石造標識がある。文面は、『右、西京 かい津 志ほ津 左、東京 木之本道 明治6年十月一日 施行敦賀港 刀田勘四郎』

街道脇の水の豊かな、流れの早い溝が、埋められたものの、今に残された敦賀運河計画の夢の一端を担った舟川である。

すり減った石の階段、倉跡、舟泊まり、胴木に面影が偲ばれる。

蔵屋敷跡
当時のままの石垣脇に「船溜跡」の説明板があった。高い石積みの上に塀をめぐらし門を構えた立派な屋敷である。これが蔵屋敷跡であろう。
疋田総蔵屋敷に船溜りを作って川舟を回転させ、米・海産物の上り荷を降ろし、茶などの下り荷を積みこんだ。疋田宿には小浜藩の本陣があったというから、この屋敷は本陣にも使われたようだ。中にはいると古い建物が残っていた。六地蔵や五重石塔などもあってどうやら寺のようだ。

この水路の原型は疋田舟川と呼ばれた運河に遡る。1816(文化13)年幕府と小浜藩は敦賀町の小屋川(児屋川)と疋田村の間に幅9尺(2.8m)、総延長約6.5㎞の川舟を通す水路を完成させた。
敦賀から舟で運ばれた荷物は、疋田村から牛車で近江の大浦村へ、そこから丸子船で琵琶湖を縦走して大津や京に運ばれた。
さらに昔にさかのぼれば、平清盛は敦賀と琵琶湖を運河で結ぶ壮大な夢を持っていた。琵琶湖からは淀川を経て瀬戸内海から太平洋に出る道が確保されている。日本海と太平洋を短絡させる大きな夢であった。追分から深坂古道を通って塩津に出るルートが計画されたが、深坂峠の堅固な岩盤にぶつかって断念せざるを得なかった。その後も敦賀—琵琶湖の運河航路の計画は持ち上がるが、結局陸送の権益をもつ地元の反対や、北前船による西廻り航路の発達により頓挫した。疋田舟川は清盛の夢の一部分であった。
資料展示

その舟川も荷物を奪われた馬借座の訴願により1834(天保5)年廃止された。のち1857(安政4)年になって舟川は再開されたが、1866(慶応2)年大洪水で破壊された。悲運の運河は通算27年の現役を終え、今は親水公園と生活用水路として余生を送っている。

疋田は1727(享保12)年の記録では馬足49疋、牡馬40疋がいたという輸送基地で、塩津の下荷の三分の二が敦賀、三分の一が疋田の馬借であった。
家数84戸、人数411人とあって、中山宿の2倍、追分宿の4倍の規模を誇り小浜藩の本陣が置かれて郡内最大の宿場であった。
しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀湊から琵琶湖経由の輸送が減少し、衰退の道をたどらざるをえなくなった。
現在は、沿道の拡張により左岸が狭められていますが、右岸の石積は当時のまま残されている。

≪参考≫
疋田舟川用水は、1811(文化8)年に大浦〜中村(滋賀県浅井郡西浅井町大浦〜西浅井町中)の川舟を通すことを陳情し、1815(文化12)年琵琶湖疏水計画を幕府は小浜藩と協議して、大阪の富商飾屋六兵衛を資本主とし、1816(文化13)年敦賀から疋田間に舟川を開削し、4ヶ月後に完成した水路である。
1817(文化14)年8月、川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引60人で試運送が行われた。上り荷は米・海産物、下り荷は茶などで、疋田よりは牛車で近江大浦へ輸送された。以後1835(天保5)年から20年間、この舟川を活用して、北国筋の城米が多く大浦へ運ばれた。
疋田付近の舟川は、急流のため水位が上がらず、積荷を満載すると舟底がつかえるので、川底に胴木を敷設して、舟の上がりを滑らかにする工夫がなされ、ここでの川舟は、川沿いの道路から、棕梠網で幾人もの人夫によって曳き上げられていた。

■ 疋壇城跡
Hikidajo ato

敦賀市疋田

福井県指定史跡

疋壇城は文明年間(1469〜1486)に越前朝倉氏の家臣、疋壇対馬守久保により築かれ、以後7代約100年間疋壇氏の居城となった。
この地は、柳ケ瀬越・深坂越の塩津街道と海津越の西近江路が集結する交通軍事上の要衝であるため、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであ

大きな岩が祀られている祠を過ぎると、間もなく疋壇城跡へ行く案内と石段に出合う。

その先に疋田舟川の水路が見える。

城跡には石段を上る。国道161号線よりはやや高台にある。

石段を上がりつめると広いグラウンドに出た。人口減で廃校となった「西愛発小学校跡地」の標石がある。

グラウンドの北側に説明板と城跡の石碑が建っていた。

高台に登る 天主の石碑が立つ。周りはグランド跡や畑になっている。

遺構として段々構えの土塁と石組が残っている。周囲はロープが張られていて立ち入れない。個人所有の畑地になっている。

織田信長の二度目の越前侵攻で敦賀の金ヶ崎城と共に完全に城は陥落し、破却されている。
現状では段々構成の石垣の一部が残存し、天主跡をはじめ、ほとんど畑である。

■ 日吉神社

日吉神社
敦賀市疋田小32

疋田舟川や疋 城跡にも近い。

祭神:大山咋命 菅原道真公 783(延暦2)年創建 1859(安政6)年の大火で古記録一切焼失。古い神社であるも史料なし。
末社:天満宮 菅原道真公を1878(明治11)年合祀する。








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