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福岡県築上町 城井谷城跡
Kiidanijo ato,Chikujo town,Fukuoka

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Apr.27,2014 瀧山幸伸 video

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Dec.14,2013 瀧山幸伸 video

城井谷城(きいだにじょう)は、現在の福岡県築上郡築上町寒田にある城跡。萱切城などの別名がある。
1195年(建久6年)、源頼朝によって豊前守護職に任ぜられた宇都宮信房が築城し、豊前宇都宮氏の居城となった。後に宇都宮氏は城井氏と改名するが、この城の重要性は変わることなく、城井谷城を中心に城井氏は豊前の勢力を保った。時代は流れ、戦国時代になっても、周囲の勢力の変遷(大内氏→大友氏→島津氏)に翻弄されながらも、城は一度として侵されることなく存続した。しかし1586年(天正14年)より始まる豊臣秀吉の九州征伐によって、城井氏当主城井鎮房も秀吉に従うこととなった。1587年(天正15年)、秀吉は城井鎮房に伊予国への移封を命じたが、父祖伝来の地を守りたい一心の城井鎮房はそれに反発。中津城に入った秀吉の参謀黒田孝高と不穏な空気が流れることとなった。城井鎮房の心情を良く知る毛利勝信は、城井鎮房に一度城井谷城を出て、その後に秀吉への嘆願を行うことを提案し、鎮房は城井谷城を明け渡した。勝信は秀吉へ城井氏移封を中止するように訴えたが、秀吉は頑としてこれを拒否。鎮房はついに決断し、同年10月、城井谷城を急襲し、奪回。籠城して豊臣軍を迎え撃つこととなった。また、豊前最大の国人領主である城井氏の蜂起に呼応する形で豊前国人一揆が発生することになった。
地の利のある城井鎮房はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田孝高・黒田長政親子が率いる豊臣軍を撃退。鎮房は本領安堵および黒田長政と娘の結婚を条件に和議を受け入れ、1588年(天正16年)、中津城へ向かったが、孝高が長政に授けた謀略により、鎮房は城内で暗殺された。城下の合元寺に待機していた部下および城井谷城の留守を守っていた鎮房の父・長房および家臣団も掃討され、さらに肥後国人一揆鎮圧ため黒田孝高に同行して肥後にいた嫡子・朝房も暗殺され、城井氏は滅亡し、城井谷城も廃墟となった。
戦国の世とはいえ、孝高はこの謀略で勇将の城井鎮房を殺害したことを悔い(中津城に城井鎮房の亡霊が出たためとも)、中津城内に城井神社を創建し、その霊を祀っている。後に黒田氏の居城となった福岡城にも創建されている。(wikipedia)

城跡の外郭




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