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岐阜県恵那市 岩村 
Iwamura,Ena city,Gifu

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General
教育熱心な町で、多くの有名人を輩出している。観光商業に汚染されていない気品の高さが素晴らしい。
Nature
 
Water
 
Flower
 
Culture
小さな城下町の街並と無料開放政策。「日本一の農村風景」となるには農家を江戸時代の建築に戻す必要がある。
Facility
 
Food
酒、カステラなど

May 11, 2014 瀧山幸伸 movie

岩村城跡



富田







上矢作



Apr.2012 中山辰夫

岩村城跡
岐阜県恵那市岩村町

岐阜県指定史跡

JR中央本線恵那駅で下車、明智鉄道に乗り換え、岩村駅で下車。

岩村駅から約20分歩いて、岩村本町の町並みを抜けて山麓に向かう。
岩村城は標高721mの山上にあり、日本三大山城の一つに数えられる。
山麓からの比高は180m余りなので登るのはそれほど大変でない。本丸裏には自動車道も通じている。

岩村城というより、「女城主の城」として有名。
戦国時代、城主・遠山景任(かげとう)に嫁いでいた織田信長の叔母が、夫の死後、しばらく城を守り抜いたことから
その名が生まれた。が、後に甥の信長によってハリツケに処された。

岩村城は中世以来の山城を天正〜慶長年間(1573〜1615)に石垣を構築し、櫓や門、塀を建てて規範施設を整備したとされる。
山上には本丸以下、石垣をよく残し、端部の尾根上には中世段階の堀切遺構も残されている。が、建造物は一切残っていない。
山城には珍しく近世まで使われている。

山麓の遺館部は、現在岩村歴史資料館敷地となっている。その敷地入口には石垣が残る他、太鼓楼・門が復元さ
れている。

岩村城の全容を知る絵図としては、享保3年(1718)岩村城絵図(岐阜県重要文化財)が著名。
他に宝永2年(1705)の岩村城絵図(岐阜市文化財・個人蔵)がある。

さらに、松平乗紀が小諸から入封して間もない宝永2年(1705)に、崩壊した石垣修理を幕府に願い出るために
作成された岩村城絵図がある。これをポイント毎に挿入する。

岩村城復元図

岩村城を目指す。

常夜灯を確認して暫らく進むと太鼓楼、門が見えてくる。城山城址公園である。

慶長6年(1601)、松平家乗により城の山麓に藩主邸が構えられたが、明治14年(1881)全焼した。

藩主邸跡に、平成2年(1990)に、太鼓楼、表御門、平重門などが復元された。岩村歴史資料館などが建つ。

石垣と石敷の道が現れる。下田歌子の誕生地で、勉学所でもある。
石田歌子は、明治・昭和にかけて女子教育者の代表とされ、日本の女子教育の先駆者で歌人。
実践女子学園を創設した。

やがて「藤坂」と呼ばれる急坂にでる。なが〜く続く石畳の道である。

「初門」

「一の門跡」につく。ここからが城内である。ここまでの上りはきつい。
藩主邸からの登城道の最初に設けられた第一の門で、櫓門と櫓一の門櫓が構えられていた。

道はさらに険しく、折れ曲がる道を少し登ると
「土岐門跡」
土岐門は一の門に続く第二の門である。城主遠山氏が土岐氏を破ってその居城の城門を奪い、ここに移した。

土岐門は薬医門で、明治初年に払い下げられ、現在は徳祥寺山門として使用され、現存する唯一の遺構である。

今の岩村城跡には当時の建物は何もない。

「三重櫓」「追手門」「畳橋」
土岐門に続く第三の門が追手門で、前面の空堀には畳橋と呼ばれる木橋が架かっていた。

追手門の脇には天守に相当する三重櫓(橋櫓)が構えられていた。

「霧ケ井」
井戸であるが、岩村城の別名「霧ケ城」の名の由来が伝えられる。
敵が襲来した時、この霧ケ井に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、たちまち霧が湧いて城の姿を隠したとされる。

進むと二の丸そして本丸へと続く。

「菱櫓」
二の丸東側の石垣は自然地形に沿って鈍角に積まれている。
この石垣に合わせて平面を≪く≫の字状にした菱櫓が建てられていた。

前方に六段積の石垣が見えてきた。

「六段壁の石垣」
本丸の北東に積まれている。雛壇状に築かれた石垣は長方形の石材を交互に組合わせた「落とし積み技法」で
江戸時代後半に詰まれたものとされる。先行して築かれた最上段の石垣を一気に立ち上げ、その後前面に低い
石垣を五段にわたって積上げてある。最上段の高石垣の補強である。

「本丸」
本丸は東西約31m、南北約85mで長方形
本丸には納戸櫓など二重櫓が2基、多聞櫓2基が石垣上に構えられ、門が3基設けられていた。
本丸内部には何ら施設は配されておらず、詰城としての空間であった。

「龍神の井」
本丸の中にある。城内には17ケ所の井戸があった。慶長6年(1601)迄は山上で居住していた。

「出丸」
城の南西部に突出して構えられた。本丸を守る重要な曲輪だった。出丸には太鼓櫓、武者隠多聞櫓
北多聞櫓が配されていた。

本丸埋門
二の丸から本丸へ入る門。位置的には本丸北口であり、裏門にあたる。本丸にはさらに二つの門が
構えられていた。

本丸の石垣は壮観である。基本は打込ハギで、部分的に切込ハギが見られ、武者返しの所もあり見応え
が十分ある。

二の丸は東西約57m、南北約62mの正方形、本丸は東西約31m、南北約65mで長方形、その周りは石垣
である。

本丸の東側に東曲輪があり、さらにその外側に帯曲輪が取巻く形となっている。

岩村城は文治元年(1185)に創築されてから、戦国の世を経て、さらに江戸期の300年間にわたり城と
城主が連綿と続き、明治の廃城令が発令されるまで、およそ700年間存続した。
城は幕末まで使われていて、城内には50を超える建物があった。
最近になって藩主邸跡の太鼓楼が復元され、「藩校知新館」の正面が移築されている。

山裾に茶室も復元されている。

「参考」

女城主

戦国時代の岩村

岩村城の特徴・岩村城跡の構造

岩村城の石垣・岩村城の社と井戸

参考資料≪ 恵那市発行:岩村城 、いわむら散策絵図、ほか≫

「参考」

美濃国(岐阜県)東端の山間にある恵那郡。ここには鎌倉時代以来、遠山一族が蟠踞(ばんきょ)していた。
戦国時代の遠山氏は「遠山七頭」といわれるような一族の結束を誇っており、その一族の本家が岩村城の岩村遠山氏だった。
岩村は遠江(愛知県)、尾張(同県)、信濃(長野県)三国と美濃とを結ぶ街道の結節点に位置しており、戦国時代の遠山氏は
織田、徳川、武田三勢力の境目にあって微妙な立場に立っていた。
元亀年間(1570〜73)の岩村城主は遠山景任。その妻は織田信長の伯母であった。
遠山氏は織田・武田の間で微妙なバランスを保っていたが、織田・武田間で緊張が高まってくる。元亀三年(1572)武田信玄が
上洛の郡を起こした。この重要な局面を前にして、当主景任が病死。その隙をついだ織田軍が岩村城を織田の城とした。
遠山景任とその妻には子がなく、信長の第四子御坊丸が養子となったが、当時3歳で実質的に景任夫人が城主となった。
浅井・朝倉や本願寺勢力の反信長勢力も動き出し、岩村城は武田軍側の秋山信友により開城させられ、信友と遠山景任夫人
即ち織田信長の伯母が結婚した。これは岩村遠山氏の滅亡を回避するギリギリの選択だったとされる。
織田信長はこれに憎悪を募らせたとされる。この直後に武田信玄が病死して、武田軍は甲斐へ引き上げたが、岩村城は武田軍
の城として残され、以後岐阜の背後を脅かした。
信長は天正3年(1575)長篠の合戦で武田軍に勝利すると、直ちに岩村城奪還に着手。半年にわたる包囲の後開城させた。
開城の条件は、籠城の将兵の救命であったが、信長は籠城兵を皆殺しにし、助命の礼に訪れた秋山他の武田方将三人を磔に
処し、信長の伯母も磔刑に処した。この時、彼女は信長に対する呪いの言葉を絶叫して息絶えたとされる。



岩村町本通り
岐阜県恵那市岩村町

重要伝統的建造物保存地区


岩村町は、関ケ原の戦後の1601年に松平家乗が城主となり、標高721mの城山に山城を築きその下
に城下町を築いた。
城下町は、岩村川で区分され、南側の本町辺りが町人地区で、北側の馬場町辺りが武家地区である。
町人地の中央を平谷街道が走り、ここが現在の中心地となっている。
岩村町本町は江戸時代に東濃地方の政治、文化、経済の中心地として栄えた城下町である。

平成10年(1998)に「重要伝統的建造物保存地区」選定された。
保存地区は面積約14.6ha、東西延長約1.3kmの細長い地域で、城下町の町家地区と近代の発展過程を
伝える町並みが周辺環境と一体となっており、商家町として特色ある歴史的景観を良好に伝えている。
この地区には120余の伝統的建造物があり、ナマコ壁、格子戸などの昔の面影が随所に現れる。

本町の町なみと民家
岩村駅々前の通りを進むとすぐに町中である。最初に目に付いたもの。

本町地区は江戸時代の城下町のあったところ。主屋のうち四分の一は江戸時代の建築物である。
丁度「ひな祭り」が行われており、旧家には飾ってあった。

巖村天満宮
岩村町新町通りの真ん中あたりに位置している神社。
文政5(1822)年、木村家当主であった知英が、九州の太宰府から勧請して造営したのがはじまりとされる。
現社殿は大正15年(1926)に建立されたもの。この地域には、菅原道真を祀る天満宮が珍しく、昔から
地元民により、学問の神として熱心に信仰されてきたという。

岩村の町家の主屋は平入、桟瓦葺の形式で、二階には格子戸が入っているものが多い。平面はトオリニワ
のある一列三室、もしくは一列四列のものが多く、ドマミセをもっていたと見られる。

敷地のほとんどが東西にのびる通りに面しており、長い地割になっている。
車の通りをしやすくする為、一階の軒が切られている。

建物は連坦して建っており、そのほとんどが比較的軒の低い厨子二階建及び二階建を基本にしている。

敷地内には中庭を儲け、奥に離れ座敷や土蔵などがあるものが多くみられる。

ナマコ壁をはじめ、土壁が多く使われている。左官技術もすぐれたものが多い。

個々に見て歩く。

いわむら美術の館
明治末から大正初期に建てられた建物で、復元し公開している。

加納家
恵那市指定文化財
加納家は古くから鉄砲鍛冶を生業にしてきた家柄。

二階格子が美しい岩金製麺所とK氏宅 柳町には大正以降の家並みが残っている。

勝川家
恵那市指定文化財
幕末、窮乏した藩財政を支えた商家の一つ。

座敷は書院づくり

欄間の彫刻、頑丈な柱

勿論、奥庭もある

見事な土蔵。岩村城のものとされる。

浅見家
恵那市指定文化財
庄屋でありながら御用達職を任じられた家
    

土佐屋
恵那市指定文化財
江戸時代の紺屋を復原し公開中。藍染めに関する資料、工芸作品を展示している。
   

一階部分の間取りは文政4年(1821)以前のまま。町家風である。書院、階段、おかまなどが見える

二階と奥庭

土蔵と染工場の藍染ツボ

染工場二階での藍染

「天正疎水」
町人地に、天正疎水といわれる水路が三本走っており、屋敷内を走る水路は、生活用水や防火用水に
利用されてきた。山里の城下町ならではの工夫や意匠が見られ、今も使われている。

木村邸資料館
恵那市指定文化財
江戸時代の建造で、敷地内には、二棟を一棟に改造した主屋と二棟の土蔵が建つ。
木村氏は五代弥五八の時に藩の御用達職に任ぜられ、名字帯刀を許された。

一、二階とも格子戸が入っているが、土間に対応する部分には太い格子がはめられている。

主屋には藩主を迎えるための玄関と書院を設け、有力な町人であったことがうかがわれる。
主屋は当初板葺石置屋根で、開口装置は摺上げ蔀戸・跳上げ大戸であったとされる。

庭には天正疎水、なまこ壁の土蔵、酒造蔵がある。

浅井家 タバコ店

旧家が集まる本町通りの東方向にも、水野薬局、岩村醸造、松浦軒など、目を引く店構えが見られる。

岩村造酒
二百年の歴史のある蔵元、創業以来「玲瓏馥郁(れいろうふくいく)』を信条に酒造りをしてきたとされる。
(玲瓏…透き通るように美しく輝く馥郁…良い香りが漂う)がモットー
酒造の創業は天明7年(1787)、当時は岩村藩御用達の運送業を本業とし、酒造業は副業だった。

明治になり岩村藩が消滅したことで酒造りが本業となり、味噌、醤油、みりん、焼酎も作る様になった。
戦後からは日本酒の専業メーカーとして地域一番の名醸蔵を目指してきた。
装飾が際立っている

入ると店(見世)となっており、中の間、奥の間は雛飾りで締められていた。

通り庭は100m程あって、かつては土蔵近くまでトロッコを使っていた。そのレールが残る。

奥庭

天正疎水

名物行事“蔵開き”
30年来、毎月2月の日曜・祭日に新酒のお披露目試飲会「蔵開き」を開催している。
通常3種類のしぼりたての新酒を菰樽から直接戴けるイベント。
大好評で、多い日は千人以上来場者があるようだ。

水野薬局
水野薬局は江戸時代から続く薬種商で、美濃・飛騨・三河まで手広く薬を卸していた家だ。

軒下には、古い板の薬の看板6枚がかかっている。
「清龍丹」(養神保寿四季要薬、東京牛込邑田資生堂)、「新月丸」(子宮病を治す、東京高木與八郎)
「六神丸」(腸病・胃病・風邪・下痢諸症、京都市伊藤半次郎)、「美顔水」(にきびとりの妙薬、紀州粉川桃谷順天堂)
「百毒下し」(伊勢国赤堀加藤翠祐堂)「奇応丸」(小児かん虫諸病奇効の良剤、木曽福島高瀬兼喜製)
と書かれ、上に商標がついている。水野薬局は、これらの薬の販売店となっていた。

松浦軒本店
松浦軒は、素朴な味のカステラを販売する店。建物は修景され、古い町並みによく調和している。
この店で作っているカステラは、寛政年間、岩村藩の藩医・神谷雲沢が長崎に遊学した折、製造法を覚えて松浦軒に
伝授したものとされる。その製法で今も製造販売している。サライで紹介されたことがある。「参考欄」

かんから餅
かんからやの餅はあんころときなこ、ごまの餅の3種 岩村へ着た人は必ず食べる?

浄光寺

その他、目だった建造物

岩村には本町、柳町、西町、新町があり、夫々町家に特長がある。
屋根の瓦葺、出桁造り、外壁の板張り、壁材、建具、手摺、格子、屋根上看板等を詳細に見ると使われている種類が
多く、構造も面白い。一例を示す。

ひな祭り
ほんの一部である

御輿渡御「秋祭り」
武並神社から本町を通り、八幡神社まで2日間かけて往復する。その行列の長さは数百mになる。

佐藤一斎の言志四録
町を歩いていると、そこかしこで佐藤一斎の詩碑や言志四録の言葉に出会う。

江戸時代後期の儒学者で、朱子学はもちろん、陽明学、易学などにも造詣が深く、門下に佐久間象山、横井子楠など。
そして孫弟子には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らもいる。むしろ佐藤一斎は知らなくても弟子や、孫弟子の方が良く
知られている。
その佐藤一斎が書き残した「言志四録」は今でも指導者の教科書にもなっているときく。
「言志四録」は「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録(てつろく)」の全4巻を総称したもので、内容は
学問、思想、人生観など多岐にわたり、修養処世の心得が1,133条にわたって書かれた随想録である。

≪参考≫
昔のカステラを岩村で発見!
サライに記載された内容






May.2005 瀧山幸伸 Preview video 500Kbps HD Quality Video FAQ (1280x720)


鎌倉時代(1185)に築城された岩村城は、日本三大山城として、そして信長ゆかりの女城主の城、武田軍との攻防前線として有名である。ぜひとも城跡に登り、時の情勢を体で感じるとともに美しい城下町を俯瞰してみてほしい。

この町は学問を奨励し、優れた教育者を世に送り出している。
昌平坂学問所の塾長を務め、門下に佐久間象山や渡辺崋山を育てた佐藤一斎は、21世紀初頭においても首相の教育関連演説に生きている。
「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず」
また、当地出身の下田歌子は実践女子学園の創始者であり、三好学は近代植物学の祖と言われ、桜などの研究と天然記念物制度の創設で著名である。

このような文化的背景を持つ街並には格子が並び、一部なまこ壁の家屋も現存する。文化度を反映し、商店、名産品などは質素ながらも上品であり、近在の街とは一線を画している。
カステラは長崎遊学の医者が持ち帰った由緒があるし、酒蔵も歴史を反映するものである。
街を歩いても際立った建築や名所というものは無いが、なんとなくなつかしく落ち着く街並なのだ。本通り地区は、平成10年(1998)に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
岩村と、すぐ南に位置する明智とを歩き比べるのも面白い。明智は「大正村」で売り出しており、中馬街道の物流で栄えた町だ。

富田地区は日本一の農村景観(平成10年第7回美しい日本のむら景観コンテスト農林水産大臣賞)として売り出しているが、この地よりも美しい農村景観は日本各地にあるのではないかというのが正直なところ。
何を持って「美しい」尺度とするかの定義にもよるが、景観と音景(水音、鳥の音など)を考えると、 この地の農村家屋は茅葺でもなく近代的なものである点、農地が平面的であり、棚田と山林との調和、いわゆるアジア米作り地帯の三次元的棚田、そこに写る月などのプロトタイプ的景観ではない点が気にかかる。
新潟の荻の島やかつての山古志村などと比較してほしい。





Aug.2003 瀧山幸伸 Preview video 500Kbps Hi Quality



なまこ壁







公開家屋









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