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岐阜県御嵩町 御嵩宿

Downtown, Mitake town, Gifu

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Nov.2021 柚原君子

 

中山道第49 御嶽宿


概要

江戸から中山道を出発した旅人は碓氷峠、和田峠と大きな峠を越えたあとに、深い山々の谷底のような木曽路を進み、美濃路にはいる落合宿からはさらに緩やかな山をいくつも越えて行くことになります。碓氷峠や和田峠越えほどの高さは無いにしても山の上り下りを幾度も繰り返しますが、果てが無いと思われる山路の連続もこの御嶽宿の津橋でやっと平地に出ます。反対に京よりの旅人たちは覚悟をもって長い山道に入って行くことになります。

関ケ原の戦い終えて天下を平静に治める人となった徳川家康は、あらゆる面で戦後処理をして行きます。東海道を整備した次に既に機能していた東山道を中山道として改めて宿駅の整備を進めていきます。
東山道であった山あいの多くの里が、幕府の命に従って宿駅を機能させるように変化させていきますが、それとともに御嶽宿はもともと天台宗の名刹大寺山願興寺のお参りなどで門前町として発達してきたという特色があります。

願興寺は数千の蟹に囲まれて出現した一寸八分の薬師如来を本尊としているところから、別名蟹薬師とも言われ、その関係からか一帯を可児郡可児市などと町名にも残っています(諸説はありますが)。

一帯は加茂郡、恵那郡、可児郡、土岐郡などがあり御嵩は明治・大正期までは警察署や法務局などがある中心地でしたが、JR中央本線や高山本線が開通するとその近辺に都市が形成されたために、御嵩宿は名鉄御嵩線「御嵩駅」と「願興寺」のみが残されてひっそりとした宿の面影になっています。

可児郡広見柿田が母親の実家で子供のころに良く行きました。昭和30年代の頃ですが、広見柿田の駅に下りると、石炭の匂いがしていたことを覚えています。
現在の御嵩町では採掘坑道が多く残り、近年は陥没を支える杭の劣化によって大規模地震が発生した場合は多くの個所が崩れ落ちる危険があり、御嵩町は坑道を埋めるのに5000億円もかかるために抜本的な解決方法はない、という難しい問題も抱えています。

ちなみに御嶽宿を御嵩宿と表す場合もありますが、「嶽」が旧字で「嵩」が新字となるところから、江戸時代の中山道で使われていた字は「御嶽」で、現在の住所や文章は新字で表すことが多いので「御嵩」表記となっています。

天保十四年に編纂された中山道宿村大概帳によると、家数66軒、宿内人口600人(男323人  女277人)、本陣1、脇本陣1、旅籠は28軒となっています。 


1,山之内喜助屋敷跡~津橋~御殿場


前宿である細久手を抜けた津島神社の先の三叉路で、道路脇ですが持参した昼食を。津島神社を過ぎると山の中に入り尾根道を進んでいくと案内にありましたので、健脚でなくなった私は津橋までタクシーで行くことにします。予約してあったタクシーで、御嶽宿の津橋に向かいます。

その間の飛ばしたところは以下です。

『くじ場跡』(人足たちが運搬荷物もクジで決めた場所)
『馬水池』
『八幡神社』(近隣の地名由来の平岩有り)
『秋葉坂の三尊石窟』(1700年代の三面六臂観音様など三体が祀られている)
『切られ洞』(牛追いが盗賊に切られたところ)
『鴨之巣の一里塚』(地形の関係で両塚の位置がずれているそうです。見たかった)
『くじあげ坂』
『馬頭観音』(石窟の中に)

タクシーで『津橋』まで来ました。山之内喜助屋敷跡の石垣が残っているところが近くなので、山道を細久手宿の方に少し戻ります。登り道です。山の湧き水でしょうか道が濡れていて歩きづらいです。屋敷跡といっても石垣のみが残る場所です。酒造業を営み大名の休憩場所や一般人の旅籠も兼ねていたそうです。

鴨之巣の一里塚まで戻るには相当の上り坂ですのであきらめて津橋に。
津橋の手前に天満宮常夜燈。近辺をつばせ村と言い、間の宿があったところです。
山之内喜助屋敷跡の先にあるくじあげ坂とこれから行く諸の木坂に挟まれた盆地です。常夜燈には氏子一同と銘があります。
小さな津橋を過ぎると路はまた山の中に入ります。山肌に観音堂。もとは藁葺き屋根であったような民家の前を抜けてさらに登りに。諸の木坂です。30分ばかり登ると空が少し開けてきた感じ。馬の飲み水場跡があります。ただの穴のようになっています。ここが物見峠で五軒の茶屋があった場所。その先石段を登っていくところが御殿場。皇女和宮の休息場所として御殿が建てられた所。恵那山や御嶽山を見ることが出来て見晴らしが良いとありますが、木々の繁りでよく見えません。紅葉はとてもきれい。きれいなトイレも備わっているのでしばし休憩をします。

                                                                                              

2,唄清水~謡坂石畳み


再び山路に。細い舗装路を横断して進むと左側に唄清水。『旧謡坂村が尾張藩千村氏の知行地で、源征重(五歩)が1857(嘉永7)年に建てた碑で「馬子唄の響きに波たつ清水かな」と唄ったことから"唄清水"と名付けられました』、との看板が立てられています。

この辺は旧善知鳥村(うとうむら)。旧家らしき前を過ぎていくとその先は謡坂に入ります。村名の善知鳥という『うとう 』という読みがあったのに、『謡う(うとう)』に変化。あまりの急坂で苦しさを紛らわすために歌を歌いながら坂を登った、との謡うに変化させたとの説明ですが、坂道登りは苦しければ苦しいほど唄など歌う余裕はないので、ちょっと疑問に思う説明です。

国道に合流して一呑の清水。和宮の野点に使われた水とあります。少し先に十本木立場。立場は人夫が駕籠や荷物をおろして杖を立てかけた場所ですが、ここには参勤交代で行き来する諸大名のために警護の武士が駐屯して、一般通行人に変な輩がいないかを見張った場所でもあったそうです。
国道を外れて左の山道に入っていきます。枝に似せたトンボが止まっています。成虫のまま越冬するオツネントンボです。枝に疑似。そっくり!

一里塚。一里ごとに榎。十里ごとに松を植えたとあります。しかもこの一里塚は明治になって必要で無くなり2円50銭で払い下げられたとも。一里塚があったであろう所に跡碑を建てたとあります。
安藤広重が描く木曽街道の「御嶽宿」は「十本木立場の夕景」を描いていて、この近辺とされています。木賃宿で庶民が憩う様が描かれ鶏までがいる絵は非常に珍しいとのこと。昔の宿は自炊が主でしたので、川でお米をとぐ婦人も描かれています。
家の左側ですが鶏小屋のような所に入口を描くように十字架が見えます。謡坂をこの先少し進むと隠れキリシタンの碑がありますが、安藤広重はそれも描き込んだのか、と深読みしてしまいました。
この辺りは坂の一番上で10本の松がならび茶屋もあり、旅人の休憩場所でも有ったそうです。石畳みが続きます。

                                                                

3七御前遺跡


石畳みを更に行くと、隠れキリシタン遺跡があります。キリスト教は織田信長が布教しますが、その後に豊臣秀吉、徳川家康が伴天連禁止令を高札場などに掲げて厳しく取り締ります。信者は地に潜り隠れキリシタンとなって密かに十字架の形を残します。奈良井宿にも一般の墓石に紛れてマリア像の遺跡があります。
美濃地方も『尾張 美濃崩れ』という、芋づる式に信徒が大摘発される事件が起きています。この近くの可児市塩村などは隠れキリシタンの村として有名だったそうですが、御嵩町ではそのようなことは無かったと思われていましたが、昭和56年の道路拡張工事の折に仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡が出て大変驚かれたそうです。現在遺跡は御嶽宿の中山道みたけ館に展示されています。
七御前遺跡は謡坂の途中、中山道からそれて細い山道と一般住宅の前の急坂を下るとあります。昔からこの付近は近寄ると祟りがあると言われていた場所だそうで、人はあまり近づかなかったそうです。
七御前遺跡とありますが、七御前とはどのような意味でしょうか。天神七代の神々が七日間で天地創造を成した、という聖書からの七御前でしょうか。仏教にまつわる七なのでしょうか。いづれにしても仏教の墓地に見せての遺跡であったようです。

                    

4、耳神社


七御前キリシタン遺跡から謡坂石畳みに戻ります。ゆるやかに下る石畳。紅葉がきれいです。遺跡から5分ばかり歩いて石畳みは終わります。国道にでると軽井沢の碓氷峠から続いていた峠やいくつもの山坂越えがこれで終了になり、京都までほぼ平地を歩くことになります。

国道をさらに5分ほど行くと耳神社に。江戸時代からある神社で250年以上の歴史。由来は、御嵩町発行の『じいさまから聞いた話』に書かれています。それによると、大工の松右衛門が風邪を引き高熱を出した後に耳が聞こえなくなって神様に祈ったら聞こえるようになった。産まれた赤ん坊の泣き声も聞こえた。大工の松江門は御礼に大工にとっては大事な錐(キリ)を神様に供え、大工の腕を振るって洞を建てたとのこと。耳が聞こえなくなったら神様に奉納されている洞の横にある錐で耳を刺す仕草をし、御礼に後日、年の数だけの錐をまねて“竹”で編んだ簾を奉納しておくのだそうです。
神社は手入れがされていません。耳には御利益あらたかかもしれませんが、石段がぐらついていてこわい感じです。耳神社のすぐ先には小さな馬頭観音。

時間は16時。この先は牛も馬も鼻が地面に付くくらい下を向いて力を入れて登ることができ
ず、牛の鼻もすれて欠けるという急な下り坂が控えているそうですが、その坂までも歩くとかなりの距離ですので、ここからは再びタクシーで御嵩駅に向かい、そこから名古屋に出て帰京します。御嶽宿内は後日。

                                                                

5、東京~御嶽駅~和泉式部廟所

2021年春に亡くなった岐阜県美濃加茂市在住義兄の墓参を前日に済ませ、可児市内のホテルに宿泊。名鉄広見線で可児駅から御嵩駅に。そこからタクシーで前回の続きの御嶽宿を歩きます。先回は耳神社で終了しています。あれから一ヶ月が過ぎています。耳神社のあと御嶽宿までの遺跡はなく西洞坂、牛の鼻欠け坂など東京方面から行くと下り坂ではありますが、急な坂が二つあるそうです。それなのでパスして、井尻村公民館前までタクシーで行きます。パスした所。


■西洞坂(さいとざか)
■牛の鼻欠け坂(荷物を背に坂を上がってくる牛は、鼻が地面に付くくらいの急坂のために、牛の鼻も欠ける坂)

井尻村公民館バス亭よりすぐ国道に出て右折すると平安時代の女流家人であった和泉式部の廟所。この辺りで倒れて近くにある鬼岩温泉で病体を休めたのですが亡くなった、とあります。「ひとりさえ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ」と石碑に刻まれています。平地で柿の木の多い中を行きます。柿は名物なのでしょうか、地名にも柿田、柿下などが残っています。

                                                

6、長岡交差点~津島神社~用心井戸


丸くこんもりとある赤い鳥居の山は丸山稲荷神社。
長岡の交差点を過ぎると右側の山の中腹に津島神社。前宿の細久手には道ばたに本当に小さなお社の津島神社がありましたが、いづれも京都八坂神社の牛頭天王様の信仰のようです。こちらのお社はあまりにも高いところにあって登れません。遠くよりおじぎだけをして次に。国道を離れて左手に入るように案内版(この辺りに栢森(カヤモリ)一里塚があったそうですが場所は未定)。
しばらく行くと『用心井戸』。水神様がまつられています。この辺りから御嶽宿上町。火災のための用心や旅人の飲み水処の井戸。

                             

7、商家竹屋~高札場~+本陣、脇本陣


郵便局の脇にあるという高札場跡が見つかりません。
「商家竹屋跡」は本陣の隣。商家竹屋は本陣を勤める野呂家の分家。主屋は明治10年建築と推定されていますが、江戸時代の豪商らしく中央に土間があり東側に店や居間や表と奥座敷と続き江戸時代の建築様式を残すとして御嵩町指定有形文化財になっています。
豪商らしくとんでもなく間口が広く、低い二階が風格を現しています。商家跡とはありますが、一般的な対面販売をしてたのではなく、品物を卸す総合的とりまとめをしていて、商社のようなお店だったとのこと。
中に入りたかったのですが休館日。私はいづれの宿も(月)(火)に訪れることが多く、日曜日のあとということで公的場所の休館が多く残念に思うことが多い中山道です。
表のガラス戸にカメラを押しつけて一枚だけ撮れました。土間と家の配置図がありました。

外の板塀には天保13年頃の宿場の配置図が掲げてあります。
茶店、百姓、馬借り、はたご屋、木賃宿の注釈が図面上のそれぞれの家の前に付けてあります。門前町でもあった御嶽宿ですから、はたご屋も多い様子です。
隣が建坪181坪の野呂家が勤めた本陣。門は当時のもの。野呂家には「本陣諸用記」という記録が保存されていて大名家は年に6回~7回も宿泊の記録があり、定宿にしていた藩は加納藩、大垣藩、越前大野藩、彦根藩とあるそうです。
その隣のみたけ館は脇本陣があったところ。宿場時代の資料がいっぱい展示されているとのことですが、矢張り休館日。またもや残念

本陣、脇本陣を過ぎると枡形が微かにあるかないかの道の曲がりで御嶽宿は終わってしまいます。その先は蟹薬師願興寺。
                                        


8,蟹薬師願興寺


概要にも書きましたが、御嶽宿は宿の機能の前に門前町として栄えた地です。宿の西口、名鉄広見線終点である御嵩口の目の前にあります。

願興寺は815年、天台宗の開祖である最澄が布施屋(無料宿泊所)を建て、自らが彫った薬師如来像を安置したのがはじまりとされています。
993年、一条天皇の皇女が得度して庵を結び祈り続けたところ996年西方の池より金色に輝く薬師如来が数千、 数万匹の蟹に乗って現れます。皇女はこの金色の薬師如来像を最澄の刻んだ薬師如来の腹中に納めて胎内仏として、大切に信仰を続けます。
その話が朝廷に伝わり有り難い出来事として勅命により七堂伽藍が建立されることになり、 大寺山願興寺 として、美濃国各地より信仰されるようになった、という謂われがあります。一帯の可児郡可児町など“音”の痕跡として現在でも残っています。

願興寺は幾度も火災に見舞われ、近隣の「愚渓寺」の僧侶や村人たちがその都度仏像を抱え持ち避難させています。荒廃した時期もあったようですが、1581(天正9)年には地元民の勧進により、 本堂(間口十四間、奥行十間)を始め、諸堂が再建されて、 1625(寛永2)年には徳川幕府から寺の領地として100石が与えられています。

近代では村民たちが松や欅を持ち寄って建て替えた時もあったそうで、柱のユガミもあり、シロアリの被害にも遭っています。現在、70代の女性住職のほか檀家はわずか7軒ということで建て替えようにも資金がなく、2017年11月から10年をかけて総額11億5千万円の解体修理が行われる予定で、掲示板には寄付のお願いも出ています。発掘調査も行われているようですべてが覆い幕の中で、何も見ることが出来ませんでした。またもや残念です。

            

9、鬼の首塚~顔戸駅


願興寺を出ると名鉄広見線の終着駅の正面となる御嵩駅交差点に。右折していくと次の「伏見宿」です。伏見宿は2015年5月に訪ねて顔戸駅より京都に向けて出発していますのでそこにつなげるためにこれから顔戸駅まで歩きます。右折して左手に秋葉神社の常夜燈。そのあと少し迷って間違えて信号二つ先の交差点を左折してしまったのですが、本来の中山道は常夜燈の先の道を左折するべきでした。それでも国道に出てくる中山道なので「中」交差点で左側から出てくる中山道と合流。国道を行きます。やがて右側に「鬼の首塚」があります。奉納とは言え旗は景観を損ねるのでどの地にあっても反対なのですが、行政はあまり気にしないみたいで残念です。
鬼の首塚は鬼の伝説では無く、乱暴狼藉甚だしい男のことのようです。説明版には次のようにあります。

『鎌倉時代の建久、正治の頃(1190~1200) 頗る凶暴で悪業三昧の男が 次月の鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め住民を大いに大いに悩ませました。 この者は西美濃不破の関の生まれであったため、住民はこれを「関の太郎」とか 「鬼の太郎」と呼び怖れていました。そこで正治元年(1199)、人々はこの地の地頭 交告源吾盛康にこの惨状を訴え退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、 おいそれと帰ることができませんでした。 そこで自分の家臣四名に太郎の退治を頼み 御嵩の地に帰しました。 
ところが、なかなか太郎を討つことができなかったため、 蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げの とおりに四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕らえ首を切ることが できました。四人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとしたところ 急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。すると首桶を縛っていた 縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それを この地に埋めました。これが「鬼の首塚」の由来といわれています。首塚のあるあたりを「桶縄手」と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを詠んだ 歌を残しています。 
”桶縄手 今もその名を 朽ちさりき 塩漬にせし 鬼の首かも“
御嵩町・御嵩町観光協会』 
       
首塚の左側には正岡子規の歌碑もあります。
「草枕 むすぶまもなきうたたねの ゆめおどろかす野路の夕立」明治の終わり頃、木曽路を伝って郷里に帰る子規がこの「桶縄手」の辺りを通りかかってうたた寝をしてしまい、夕立にビックリして、見ていた夢も絶ちきられて起きてあわてた様子を詠っているのだと説明にあります。

先の大庭交差点に御嶽神社。 覚清心霊神碑、清嶽覚直霊神碑、常夜燈などが並んでいます。
この先で案内に従って国道を離れて右側に入っていきます。手押し車を押す御老人がゆっくり歩いている新木野旧道の住宅街を抜けると、再び国道に合流。
左手に大きな川「可児川」が流れています。ゆったりとした広い川をみると本当に平地に出てきた感があります。顔戸信号を左の折れると「顔戸駅」です。

駅の手前の川の脇に在原業平の兄である在原行平が美濃を治めていた時期があり、この地を良く治めていたと地元民が感謝をして講の皆で記念碑を建てた、と説明にあります。
在原行平は百人一首に治められている歌で「 立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り こむ 」という猫好きにとっては有名な歌を詠んだ人です。猫が行方不明になると、それまで使っていたご飯茶碗を伏せて上の句だけ書いて茶碗の上に乗せておくと猫が帰ってくると言われて、明治生まれの祖母が行っていたことをみたことがあります。立ち別れと帰りこむに御利益あらたかだったのでしょうね。

遠くで野焼きする風景。顔戸の駅に着きましたので名古屋経由で東京に帰ります。

                                                                                        

 

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