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岐阜県御嵩町/可児市 中山道伏見宿
Fushimi, Mitake town/Kani city, Gifu

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May,2015 柚原君子

中山道第50宿 「伏見宿」
行程:顔戸(ごうど)交差点→比衣一里塚跡碑→大柳跡→本陣跡碑→女郎塚→旧旅籠三吉屋→恵戸一里塚跡碑→弘法堂→今渡の渡し場跡→土田宿一里塚跡碑

伏見宿概要
江戸から京に向かう中山道は峠を越えることはありますが、大きな川を渡ることはあまりなく、女性も多く利用した街道となっています。美濃国(岐阜県)伏見宿より加納宿までの中山道は木曽川に沿って続いていますが、伏見宿・土田宿のあたりの流れが急になって、渡しの場も変化していきます。中山道の宿駅として御嶽宿、伏見宿、(この間に土田宿があった)、太田宿〜京へと続いて行くわけですが、渡り場が上流の太田宿(太田の渡し)に移動したことにより土田宿が廃止され、その後に幕府から公認されたのが伏見宿でした。中山道としての「土田」(どた)宿は廃止とはいえその歴史は古く、江戸幕府が中山道を設置する以前から、中山道と名古屋城下を結んだ脇往還(街道)に上街道(うわかいどう)(土田→善師野→犬山という経路)で機能していました。1582(天正10)年、織田信長が武田氏攻略したとき、また1600(慶長5)年、徳川秀忠が関ヶ原合戦の際、土田宿に宿泊している記録があり現在でも本陣跡、土田城址などがあります。諸説の中の一説ではありますが、織田信長の生母は土田御前と呼ばれこの地の出身だそうです。
この土田宿はいつのころか不明ですが廃宿となり1694年(元禄7年)2月に新たに伏見宿が中山道の第50番目の宿として公認になります。しかし、新たに公認された宿とはいえ、突然宿が形成されたわけではなく、中山道「間の宿}(あいのしゅく)として機能していた伏見宿を格上げしたことのようです。江戸幕府は公定駄賃制度を制定して荷物の流通がスムーズに行くように図っていました。また上洛や大名通行の折も荷物の継ぎ足しのために宿場ごとに馬を出す頭数が割り振られていました。
雑誌名:愛知大学総合郷土研究所、『慶長〜寛永期における美濃国中山道の陸上交通政策』著者:橘 敏夫氏の中にこんな文章があります。
『慶長16 年2 月7 日、大御所家康の上洛が美濃国内を通行することが決定されると、鈴木重春・石原一重が河渡の渡に舟橋を架けるための用材の提出を周辺領主に命じている。これは大久保の指示によるものであろう。大久保自身も同年3月9日、甲府から岐阜まで馬6 疋を継立することを命じている。その際の手形には、美濃国内の宿として、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嶽・伏見・土田・太田・鵜沼が記載されているから、細久手宿の取立も実現したようである』。
慶長16年というと1611年ですから、中山道公認の宿となったという80年も前から伏見宿は手形の出されている、馬のいる駄賃が決められた宿として存在していたと言えます。
しかし伏見宿は大きく発展することはなく、1848(嘉永元)年の大火で消失したあと本陣の再建はありませんでした。1862年に参勤交代は三年に一度でよい、という文久の改革があり、更にその後の1867年には大政奉還で参勤交代制度そのものも消失したので、本陣消失により宿における役目をなさなかったのは、江戸幕府の最後の20年余りというところです。
1843(天宝4)年の『中山道宿村大概帳』によると伏見宿は尾張藩領にあり、人口485人、家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、 旅籠29軒という構成でした。木曽川に面して新村湊があったので荷の集積も多く、また太田の渡しが天候不順で川止めの時などは混雑し、飯盛り女も多くいた宿でした。
伏見宿の一つ前の宿「御嶽宿」には、現在「中山道御嶽宿地域景観等整備指針/御嶽宿地域景観形成の基準」というものがあり景観は守られていますが、「伏見宿地域」の指針・基準は無いようで、宿としての色は段々と薄くなり、本陣近辺に僅かに面影がある程度で、住宅の建て替えなども進んでいます。
伏見という地名に共通する全国的な考察では「伏せ水」→ふしみ、という変化のようですので、伏見も木曽川や可児川にはさまれて、そのようなことかと思います。

伏見宿を自転車で走る!

1、顔戸〜比衣一里塚跡碑〜大柳跡



今回はJR美濃太田駅が出発です(駅前のホテルで自転車を借りています)。太田宿と伏見宿写真撮影が目的です。江戸より京に上る行程ですのでひとまず太田宿を横目で見ながら、伏見宿に向かいます。けっこう遠かったのですが、名鉄広見線「顔戸駅」近辺から撮影を開始しました。
このあたりの中山道は国道21号です。顔戸交差点の横を流れるのは可児川。右の山の方に上がると顔戸城址(城は1467〜69年の応仁年間に斎藤妙椿により築かれた。土塁が残る)もあるようですが省きます。中山道を旅人が行き交った頃は松並木があったそうですが、今では一本もありません。
顔戸からしばらくして少しだけ右側の旧中山道に入ります。中山道・比衣一里塚跡という碑が目印です。ほんの少しの距離で、道は住宅街を抜けてふたたび国道21号にもどります。東海環状自動車道をくぐると高倉の交差点に出ます。交差点を左に行くと花フェスタ公園に出ますが行きません(笑)。余談ですがちなみにここは私の母の故郷です。小さい頃、広見線に乗って母方の祖母の家に遊びに行ったなつかしい場所。当時まだ炭鉱があったのでしょうか石炭の匂いがかなりしていました。
さて中山道、右にある伏見駐在所の脇よりまたほんの少し山側に入って行きます。何しろ、国道が問答無用とばかりに村の中心をスパッ!と分断しましたし、東海環状自動車道が伸びてきて、さらに目の前にジャンクションまでできてしまったのですから、美濃の農村に土地騒乱狂踊、財産相続混乱裁判沙汰があったと訊きました。現在の戦国時代のようだと親戚は笑っていました……余談です。それですから母方祖母の家の周囲や、これから行く伏見宿などは昔日の面影はなくなりました。開発を免れた道が時々旧中山道として山道に入っているわけです。伏見駐在所から旧中仙道にはいってすぐ畑の真ん中にポツンと石碑が建っていました。
石碑名は「伏見宿大柳之碑」です。
樹齢は解らないそうですがかなり大きな柳の木があったそうです。近所の方のひいお爺様の子どもの頃はこの柳の木のあたりで泥んこになって遊ぶのが楽しみだったそうで、掘ると、昔の小銭や櫛などが出てくることもあったそうです。この柳の大木は「お柳様」と呼ばれて、女の人の病気を治してくれるということで、近在の人、また伏見宿の飯盛り女たちが小銭を投げて(埋めて)、持ち物の櫛などを捧げて、病気回復を祈ったそうです。1959年(昭和34)年9月の伊勢湾台風で倒れ放置されていたそうですが、1975(昭和49)年、鉱害復旧事業として、国道より北の部分の耕地整理が行われ、さらにその後の1979(昭和53)年に遺跡として石碑が伏見町役場の門柱を持ってきて建てられたそうです。何の説明もない碑の前に佇んでいたら、農作業のおじいさんから説明を頂きました。

2、本陣跡碑〜女郎塚〜旧旅籠三吉屋〜恵戸一里塚跡碑


5月にしては日差しが強い中、国道を走ります。
「伏見」の交差点の手前の植え込みの中に「伏見宿 本陣之跡碑」があります。本陣は元禄の頃から岡田与治右衛門が務め、建坪は120坪。碑の立つ向かい側にあったそうです。本陣跡碑の横に「是より東尾州領」と刻まれた領界を示す碑があります。本陣は宿のほぼ中心にありますので、本陣跡碑の横に国の境があるのはちょっと変。本当はどこに有ったのでしようかしらね。
交差点の脇に宿場行燈があります。「一本松公園」です。伏見宿の面影再生を目指して建てられた比較的新しい物です。伏見宿の歴史や言い伝え等の額展示があります。街道際には「道標」があり、「右 御嶽 左 兼山 八百津」と刻まれています。斉藤道三の養子であった斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分ともなる伏見の交差点です。
伏見交差点を左に入ると少し奥に臨済宗妙心寺派の洞興寺があります。そのそばに「女郎塚」。伏見宿が栄えるのは旅人のお蔭と旅人の道中の安全を祈る塚を築いて近在の人々が観音様を祀ったそうです。また宿には飯盛り女など身寄りのない者もいたので、この塚に懇ろに葬ったそうです。石仏には文化年間の文字が見えます。色々な表情のうつむき加減の石仏が彫られています。悲しい身の上とか身寄りのない女たちの供養でしょうが石仏の表情は柔らかく、女郎塚の後ろには色濃い藤の花が揺れていました。
すぐ近くに東寺山古墳がありましたので登ってみました。30歩も登れば上に辿り着ける小さな古墳です。どのように管理されているのか、木々が茂り全体が見えませんが前方後方墳との事。小さな古墳の上からは伏見の田園風景が見渡せました。
街道に戻り、伏見宿といえば唯一有名な駱駝の家の前を通ります。先程のお休みどころの「一本松公園」の斜め前になります。「旧旅籠三吉屋」。袖うだつや格子が残っていて宿の趣があります。
駱駝が伏見宿にやってきたのは1824(文政7)年。オランダ商人によって幕府に献上される予定でペルシャより連れてこられたそうですが、献上を断られたために見世物興行師の手に渡り、各地を興業していくことになったそうです。伏見宿を通りがかった時に興行師が病気になり、3日ばかり逗留したそうで、近隣の村から2000人以上の人が見物に来たと「御祭礼当人帳」という記録に残っているそうです。この時代、舶来動物は霊獣として厄払いになるとか、悪病除けになるとか信じられていたそうで、駱駝の絵のお札はお守りとなり、その尿も薬として売られ、駱駝の毛は疱瘡除けになったそうです。上野動物園にパンダが来た当初の行列を思い出しました。珍しい物には見物の列ができる。昔も今も変わりませんね。
伏見宿をゆっくり歩きます。趣のある家は数軒。常夜灯もありますが、それでも気を付けて歩かなければ普通の国道という感じです。さて自転車に戻り、新村湊が江戸時代の物流の拠点だったというので、それらしき辺りに行ってみましたが、木曽川に面した竹藪が繁るばかりで探せませんでした。
街道を進みます。上恵土の交差点にくると「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」と刻まれた「道標」がありました。さらに進んで上恵土神社。ちょっと目礼をして通過します。次に目指すは「恵戸一里塚跡碑」ですが、これがなかなか見つからず、歩道橋も地下道入口もある大きな交差点をグルグル回りました。邪魔なのであちらこちらに移動させるのは日本人は平気なようで、「もう……」と思い、交差点脇の床屋さんにお訊きしましたが「知らない」との事。地図を示すと場所は確かにここらあたり。そんなもんあったかしら……ああ〜歩道橋の下にそういえばなんかあったねぇ、と指差していただいたところに、しっかりと建っていました。真新しい碑です。……なんだか疲れました。さて、思い直して進みます。

3、弘法堂〜今渡の渡し場跡〜土田宿一里塚跡碑



上恵土交差点からしばらく直進ですが「可茂公設市場」交差点から国道を右側に外れて旧中山道に入って行きます。時々ビックリするくらいの大きな「中山道」と書いた看板があります。そういえば、中部圏は婚礼の引き出物でも何でも大きなものが好きだったんだなぁ、この地域に親戚が多い私としては、看板までデカイ!と苦笑しつつ通過します。JRの線路を渡る手前に辞世塚がありますが、寄せ集められたのかなんだか良く解りません。その先の今渡公民館南の交差点先にある龍洞寺にある真新しい龍の根枕も良くわからないまま、ひたすら走ります。道はやがて右と左に分かれるところに出ます。右に直進すると太田橋でそのまま太田宿に入りますが、旧中山道は橋を渡らないで左に折れます。木曽川の石畳.今渡の渡し場跡や弘法堂、を通って道は土田宿に続いています。弘法堂には魔性と恐れられていた石地蔵を木曽川から引き上げて安置し、船頭の川の守護にしたという言い伝えがあります。弘法堂を下りて行くと今渡の渡し場跡に出ます。木曽川沿いに石畳がほぼ当時のまま残されています。
江戸時代に中山道には三大難所がありました。一つは長野県木曽郡上松町の国道19号の下にある橋である『木曽のかけはし』。二つ目は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある『碓氷峠』。標高は約 960 mで信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺となっています。三つ目がこの『太田の渡し』です。木曽川の対岸の名称が太田の渡しで、土田宿に続くこちら側が『今渡の渡し』です。江戸時代後期から、太田橋が架けられる昭和2年までの渡し場です。木曽川の増水による川止めに悩まされた渡しでもあったので、「木曽の桟(かけはし) 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」と詠まれたほどの難所でした。この先、土田宿まで木曽川べりの道が遊歩道として整備されていますので歩きます(50年以上放置された荒廃地でしたが、平成19年に延約1000人の地域ボランティアにより整備されました。竹林、鳥の声、川風が吹いてきて気持ちの良い道になっています。竹林に入ると歩道は竹のチップでフワフワとしています)。
ゆったりと歩きながら木曽川に目を向けると対岸の太田宿が見えます。川の中にも自然の景観で貴重な「化石林」があり説明版が設置されてありました。1500万年前の森林が立ったままで埋没してできた化石林。平成8年の異常渇水により発見されたとあります。「土田川並番所跡と杭跡」もあります。川並番所そのものは江戸時代には現在の土田のカヤバ工業の敷地の中の辺りにあったそうです。川並番所は通行する筏や船を管理したり、洪水で流出する御用材木や商業材木を拾い集めたり、盗木の監視、船荷の改めなどをした役所です。川底に杭を打って流れてくる材木を拾ったそうで、川にはその杭の穴跡が残っていました。
「夜泣き石」もありました。1185(文治元)年、平知盛が壇ノ浦で海に身を投げました。そのことを知った知盛の妻はこの近くの淵に身を投げて死んだそうです。月の澄んだ夜には川にある石の上で美女が泣いているとか……。伝説や歴史を思い起こしながら竹林の中を風に吹かれながら進みました。土田宿を経由して太田宿に行きたかったのですが、整備された川のほとりを進んでもどうやら街道には戻れないようです。土田宿の一里塚を確かめるためには今来た道を弘法堂まで戻るしかなさそうです。弘法堂から街道に戻り曲がりくねった住宅街の道を行くと、右側に土田一里塚跡碑がありました。廃宿になった土田宿の渡し場があった辺りとなります。この近所に藤原定家が「散れば浮き 散らねば底に影見えて なお面白し 桜井の泉」と詠んだ泉がありますので行ってみます。弘法大師堂というのぼりが派手に立っているところを右折すると現在でも清水が湧き出ている泉がありました。ここで伏見宿を終了します。次は太田宿に向かいますので、先ほど見えた水色の橋「太田橋」に戻ります。




June 7,2015 瀧山幸伸 movie



伏見寺山西塚古墳

女郎塚

 

 

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