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岐阜県大垣市 赤坂宿

Akasaka,Ogaki city,,Gifu

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撮影 Jan.2018 柚原君子

概要

赤坂宿の中心を流れている杭瀬川(クイセガワ)は、岐阜県揖斐郡池田町の池田山周辺の湧き水を水源として、大垣市、養老郡養老町を流れ、やがては揖斐川支流の牧田川に合流していく木曽川水系の一級河川です。杭瀬川はもともとは今流れている場所より西へ200m位の所を流れていて、揖斐川の本流であったといわれています。1530(享禄3)年の大洪水で水路が変わって川幅も狭くなり今の状態になっています。現在は赤坂宿の本陣の手前にあって「赤坂大橋」が架かっています。

杭瀬川は明治・大正期までは数百艘の船が上下している経済にとって主要な川で、人足がたくさんいる大きな川湊も抱えていました。中山道が整備される以前は東山道といわれた地ですが、その頃は赤坂宿の前身とも言える「杭瀬川宿」が存在して、川の流れを利用した物資の集散地として栄えていたとの記録があります。

またこの地は関ヶ原の戦いの前哨戦として「杭瀬川の戦い」があった場所でもあります。しかし川の流れがいろいろと変化したところから、戦場がはっきりしないために古戦場としては公に認知されていません。

杭瀬川の戦いの四年後に関ヶ原の戦いとなりますが、その時の徳川家康の最初の本陣となった御勝山も杭瀬川下流方面東後方にあります。山の名前は「岡山」(美濃赤坂駅直近の海抜53メートルで山というよりも丘陵)だったそうですが、戦が勝利したので「御勝山」と呼び替えたそうです。また、周辺には古墳も多く、この辺りが古代美濃でも中心地であったことがうかがえます。

1843(天保14)年の中山道宿村大概帳によれば本陣、脇本陣共に一軒、旅籠屋は17軒、宿内人口は1129人で大垣藩領でした。

先宿の美江寺宿を出てから道はくねくねと曲がることが多く、「中山道の七回り半」と呼ばれている地でもあります。歩いてみると本当に幾たびもクイックィックと曲がっていておもしろいです。

「赤坂」の地名ですが、地名由来辞典によると、「赤い土の坂」または急な上がり坂「アガリザカ」が変化したものが一般的な命名だそうです。が、赤坂宿は坂のない、平坦な道が何度も曲がりながら続いている印象ですので、赤い土の方に由来があるのかもしれません。ちなみに赤い土としてこの地方を見てみると、近くにある伊吹山は全山石灰岩の山で、赤坂宿は石灰が特産となっている記述もありますし、石灰は茶色に変化するものもあるそうですので、伊吹山近辺の地名は、石灰岩の茶色い土、赤茶色のような土から来ているのかも知れません。

宿名に関しては東海道五十三次にも赤坂宿があるので、区別をするために「美濃赤坂宿」と表記されることもあります。

1平野井川〜七回半〜東赤坂駅〜池尻の一里塚

昨日は雨に降られてJRの駅にして三つばかりを迷いながら岐阜に帰ってきまして、偉い目に遭った!という感想ですが、本日はお正月ながらリーズナブルお値段で宿泊している「ホテルリソル岐阜」の豪華バイキング朝食で、すっきりとして宿歩きの出発となりました。

今日は宿の途中駅が無人駅となっていて自転車が借りられませんので歩いて行きます。「岐阜」より出発。「大垣」乗り換え→樽見鉄道で「東赤坂」下車。昨日の続きからきっちり歩きたく、30分くらいかけて平野井川まで戻ります(律儀!)。

赤坂宿には「三回り半」と「七回り半」がありますが、素盛鳴社(祇園信仰の社)の手前が「三回り半」、その先の「聖観世音菩薩」の先あたりから「七回り半」です。参勤交代の時に行列の人数が多いほどお殿様は気分が宜しかったようで、角を曲がるたびに前と後ろに続く行列の人数が一望できて、殿様は大満足。そのためにわざわざ道をクネクネと曲げて整えたそうです。「半」が付くのは、満足のいくように眺めた後に、前に向き直ったとして戻った顔の位置が「半」になるとのこと。

おもしろいように曲がって曲がって進んでいくと「地蔵堂」に。ここからしばらくは一本道。右側に先ほど下車した「東赤坂」駅です。菅野川、白山神社を越えると「池尻の一里塚跡」の標石があります。

                                                            

2美濃追分道標〜赤坂湊跡〜浅間神社

一里塚を過ぎると左側に美濃路追分の道標。上部が灯籠となっています。「左中山道右大垣道」とあります。道標を過ぎると、大垣市の天然記念物となっている、日本最大のゲンジボタルが生息する杭瀬川。架かる橋は赤坂大橋です。杭瀬川の字に関しては天武天皇が672年の壬申の乱(ジンシンノラン)で傷を負ったけれども、この川の水で洗ったらたちまち治ったところから「苦医瀬川」と呼ばれた、という言い伝えがあるそうです。でも、たちまちに治る川の水なんて現代医学でもありえない……この地での壬申の乱はほんとうですが、字の成り立ちに関しては講釈師が土地の夜話に創作したような感じがします。私が講釈師だったら「苦医背川」、医者が苦々しく背を向けた川、としたいと思いますが。

その杭瀬川を越えると前方に火の見櫓(歴史に特に関係はないようです。防災無線やホースを干すのに使用されているようで、宿の街に合わせて時代物のように作ってある)が見えてきて、いよいよ赤坂宿の中心に入ります。

「赤坂宿御使者場跡」の標石があります。宿場の東口で、参勤交代大名や公家が通行の際、名主や役人が送迎をした場所です。向かい側に「赤坂湊跡」。脇を流れる小さい川がもともとの杭瀬川の流れ。当時の常夜灯と湊の守護をした浅間神社と続きます。明治時代の建物がありますが、旧岐阜県警察大垣出張所屯所。1875(明治8)年に中山道と谷汲街道の分岐点(本陣の辺り)に建てられた警察屯所の復元です。内部は資料館になっていますが、お正月なので入れません。

                               

3赤坂本町駅跡〜矢橋家住宅

時折小雪が降ってきます。お正月故でしょうか人通りが全くありません。「赤坂本町駅跡」(西濃鉄道市橋線)廃線の線路にも小雪。西濃鉄道が鉄道省初のガソリン機動車を用いて大垣から美濃赤坂駅までを1日4〜7往復していた線。開設は昭和5年。廃線は昭和20年。写真右手奥にかつてホームだった石垣が見えています。侘しい感じ。

十六銀行の先にある広場が「赤坂宿本陣跡」。寛永以降は馬淵家、平田家、天明の頃は谷家と代わり以後は明治維新まで矢橋家が勤めています。239坪と広大な本陣で和宮様も宿泊。今では広場になっていますが、そこに立つ銅像は赤坂出身の「幕末医学土 所郁太郎」です。本名は矢橋直則。医師である所伊織の養子となって所姓に。畳針で縫合して幕末藩士の命を救ったとあります。

広場には行政による赤坂宿の散策マップがあり、昔の写真もアップしてありました。セピア色よりも古い色……赤坂湊の写真は本当に広重の描いた絵のようです。

右側に「旧清水家住宅」。赤坂宿内で最も古い町家遺構です。以下、市のHPより全文です。

「大垣市の重要文化財。1730(享保15)年に建築された建物。切妻造りの中2階建てで、2階の軒高が低い「つし二階」の町屋の技法を採っている大きな商家の建物です。南面1階は、ほぼ全面にわたって格子が入れられています。昔は米屋を営んでいたこともあり、2階には米を収納する広い部屋が残っているそうです。また、2012(平成24)年に所有者からこの住宅の寄贈を受け、現在は市の重要文化財に指定されています」。

この先のやや枡形になっている四つ辻に「赤坂宿碑」「谷汲観音道標」、南に進む人のために伊勢街道の案内があります。旅人が賑わって交差していく様が想像できます。

左側には1833(天保4)年築の大型町家、本陣を勤めていた矢橋家住宅がどっしり建っていて見応えがあります。(文化遺産オンラインより全文……木造2階建,瓦葺,建築面積284㎡/岐阜県大垣市赤坂町226/登録年月日:19970715/登録有形文化財(建造物)/中山道に北面する平入の大型町屋。2階の軒裏やうだつを黒漆喰塗りとし1・2階ともに千本格子をはめる等、正面外観は瀟洒な意匠になる。大規模ながら2階をつしとする点等に、江戸時代末期の地方都市における大型町屋の特徴がよく表れている)。

つし二階が解らずに、帰宅後に調べてみたら、漢字は「厨子二階」。天井の低い中二階と呼ばれる2階部分がある造りのことで、京町家に多く、明治後期まで建築されていた様式。町人が武士を見下ろすことがないように、本格的な二階建ては禁止であったことから中二階様式に。厨子二階の窓は虫籠(むしこ)窓があるのが一般的で用途は倉庫や使用人部屋、とのことでした。

                                               

4脇本陣〜兜塚

立派な矢橋家住宅の先にあるのは「脇本陣跡」。宝暦年間(1751-1764年)以後飯沼家が勤めて問屋と年寄り役を兼ねていたそうです。明治期には建物の一部が解体されて町役場になっていたこともありましたが、その後は、榎屋旅館として営業。現在は営業していません。また一般公開もされていませんが、残っている建物には、賊の侵入を防ぐために紙でできた天井や槍が残り、宿泊者を記載した大福帳も残っているそうです。見た目はこじんまりとした脇本陣跡ですが、当時はもっと大きかったと想像できます。

その隣の「五七屋」は赤坂宿が五七番目からきているネーミング。勝山もあり徳川家康が初勝利をした地でもあるので、開運関連の物がたくさん置いてあるそうですが、お正月でお休み!

「妙法寺」には本陣跡に銅像のあった所祐太朗のお墓があります。医師ですが28歳の若さで病死とあります。

妙法寺の向かい側に「お嫁入り普請深訪館」。和宮様が通過の折りに見栄えを良くするために町家の表側だけを二階建て風に見せる変更を町全体でしたこと。さらに街道沿いの古い家を建て替えたり空き地にも新築物件を建てて合計54軒もの家が完成したそうです。工費は10年返済だったそうですが、途中で江戸幕府がなくなってしまったので、返済3年目に借金はウヤムヤとなり宿の人たちは大喜びだったとの余談があります。いつの時代でもローンは大変なので、下々の大喜びの様子に親近感がわきます。

「正安寺」の奥に「お茶屋屋敷跡」。本陣は大名達の宿泊所ですが、お茶屋は将軍家専用の宿泊所になります。1604(慶長9)年、徳川家康が岐阜城の御殿を移築させています。当時の建物は想像するしかありませんが、61棟もあったと記録にあります。現在は土塁や空堀だけが残り、敷地内には牡丹園があります。現在は個人が所有されています。青竹がさやさやと風にそよいでいました。

街道に戻ります。町家が続いていきます。「兜塚」(関ヶ原の前哨戦となる杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母の鎧兜が埋葬されている)と「赤坂宿御使者場跡」があります。こちらが京都側の西口となります。

                                              

5昼飯大塚古墳〜粉糠山古墳

街道は直線の道になりしばらく行くと小さな公園の脇に「二つ塚古墳」その先に「昼飯大塚古墳」。前方後円墳は歴史の教科書で何度も出てきていますね。鍵穴の形をしていて丸い方がお墓の部分で四角かあるいは長方形に当たる部分が祭祀をしたところ、と習いましたが、今の研究ではどうでしょうか。

昼飯大塚古墳は今から約1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳で墳丘の長さは150mもあります。後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という3つの埋葬形態が存在しているそうです(調査の後は埋め戻されています)。ドラム缶の様な円筒埴輪のレプリカが飾られています。

古墳には上っていく階段があります。上は平になっていて、伊吹山など四方八方が見渡せる大パノラマです。今でこそ整備されていますが、中山道時代は森になっていたでしょうか。「昼飯」は大阪の海に如来様が打ち上がり、それを善光寺に納めに行く人々が、ここでお昼ご飯を食べたということが土地名の由来だそうです。ヒルメシ町→下品な言い方なのでヒルイイ町に変更→言いづらいのでヒルイ町に落ち着いたという経緯もあります。

東海道本線をくぐると青墓町。この地域は古墳が多かったので大墓と呼ばれそれが変化して青墓町となったそうです。先の右側に粉糠山古墳があります。昼飯大塚古墳と同じ前方後円墳。昼飯大塚古墳が150Mに対してこちらは100Mですから、少し小さいですが、それでもこんもりとした丘に見えます。一周してみましたが、古墳の上に地域のお墓があり、ちょっと変な感じ。古墳もお墓ですから、墓の上に墓なんて不謹慎な気がしましたが、全国的には良くあることとだそうです。

青墓は中山道が東山道と呼ばれていた昔にあった宿駅で大墓宿ともいわれていたところ。遊女の里ともいわれていたそうで、その頃の遊女達が化粧に使った粉糠が積もって山になったという言い伝えのある青墓古墳です。ちなみに青墓宿は赤坂宿の前身杭瀬宿が杭瀬川舟運で栄えたために、そこからいくらも離れていない青墓宿は徐々に衰退していったそうです。

                                                

6,圓興寺跡〜青野ヶ原の一里塚

照手姫の墓(五輪の塔)がある「圓興寺」。照手姫伝説は各地にありますが、姫といっても遊女です。絶世の美女であったことから姫の尊称が付けられています。流れてきたのか売られてきたのかはわかりませんが、この青墓宿で客取りを拒否したために籠で水を汲んでくるようにと青墓宿から二キロはあるこの地に水を汲みに行かされるイジメにあった井戸があります。また義経が都を落ちていく途中に芦の杖を地面にさしたら竹になったという言い伝えのある所です。

先に進みます。大谷川の脇に東山道時代に宿であった「青墓宿」の標識。国道を越えてミニストップで赤坂宿の案内が貼り付けてあるのを確認して国分寺の道標に。右の方に入っていくと美濃国分寺跡がありますが、足も痛くパスします。時刻は16時近い冬ですので日暮れの時間です。赤坂宿としての区切りは青野ヶ原の一里塚でおしまいにします。

程なく右側に地蔵堂と一里塚。常夜燈があります。大正5年の建立です。これから垂井の駅まで歩いて行きます。赤坂宿を終了します。

                                     


June 10 ,2016 瀧山幸伸 source movie

西から東へ

                  

お茶屋屋敷跡

                    

                                        

               

ハリヨの湧水

         

レストラン「膳」

               

美江寺宿へ

To Mieji

        


Nov.2010 柚原君子

                              

    


Nov.2010 撮影:瀧山幸伸 source movie

A camera

                           

昼飯大塚古墳

     

B camera

                               

      

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