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岐阜県関ケ原町 関ケ原
Sekigahara,Sekigahara town,Gifu

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May 1,2019 柚原君子

関ヶ原宿

概要

関ケ原町は伊吹山地と鈴鹿山系の迫るごく狭い地域の上に平野の少ない山岳地帯と言える場所にあります。
古代では今よりさらに人が定住できる場所も限られていて、藤古川と梨木川に挟まれた台地の部分に古墳時代の遺跡が多少発掘されているような状況で、大きな集落がなかった故でしょうか支配者や統率者が現れていた形跡も見られないそうです。
しかし後の世に、関ケ原は壬申の乱(672年)と天下分け目の関ケ原の合戦(1600年)といわれる大きな戦の舞台となりますので、江戸時代の中山道の宿駅としての遺構をとどめながらも、飛鳥、奈良時代の壬申の乱や戦国時代の関ケ原の戦いの史蹟も多く残っていますので、街道を行くとそれらが入り混じって出現してきます。
歴史好きにはたまらない場所ではありますが、少なくともこの二つの大きな戦いがこの地にあったことをある程度理解していかないと少し混乱します。
関ケ原で繰り広げられた壬申の乱(じんしんのらん)は、当時の政治は天皇を中心とするものであったので、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子が皇位を巡って戦った政権争いです。
当時の政権の地であった近畿地方より外に謀反を起こした者が逃げられないように、壬申の乱の翌年に「関」が設けられます。
中山道の前身である東山道のこの地に設置されたのは「不破の関」。
都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、北陸道の「愛発関(のちには逢坂関)」、東海道の「鈴鹿関」も設けられて壬申の乱の後からおよそ100年の間、治安維持のため畿内と東国との間の通行を厳重に監視することになります。
現在の地名である「不破郡関ケ原」は不破の関所のあった原っぱという意味があります。
関ケ原はまた、本州を東西に行き交う東山道、北から西に行き交う北国街道へ繋がる脇往還、南方向へは伊勢へ抜ける伊勢街道が分岐する地で、東日本・西日本を陸路で行き来する人は必ず通る要衝で、それはまた日本を東と西に分ける境目でもありました。
現在の関東・関西と呼称される「関」は不破関より東、西という意味でもあります。
天保14年の中山道宿概帳では本陣・脇本陣1、問屋場6ヶ所、旅籠屋33軒、家数269軒、人口は1389人とあります。
歴史に残る大きな戦いの地であった関ケ原ですが、近代においても太平洋戦争(大東亜戦争)における「東洋一の火薬庫」のある場所として「戦」にかかわることになります。
関ケ原は地形的に小高い丘が点在して土塁の構築に適するとして「洞窟式火薬庫」が作られます。
名称は「名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠(なごやりくぐんへいきほきゅうしょうせきがはらぶんしょう)」。
周囲6キロ、面積は約270ヘクタール。小高い丘の内部を堀ってコンクリートで固め、上部を土で覆った後に植栽して山のように見せたそうで、終戦まで空爆を受けることはなかったそうです。
現在は東海道新幹線、東海道本線、国道、名神高速道路などが関ケ原町を通るルートで建設され、現代でも交通の要衝といわれています。
また火薬庫があった伊吹山の方面から伊吹おろしが吹き付けてくるので、冬は豪雪地帯となり、米原辺りでは新幹線が立ち往生するニュースも時々見られます。
古戦場の地であったことから例年10月には「関ケ原合戦祭」が華々しく開催されています。
合戦の地らしく「関ケ原合戦絵巻東西8隊」「全軍武者行列」「甲冑パフォーマンスと演舞」「天下分け目の関ケ原・東西人間将棋」「戦国一の猛将・島津義弘を語る」「鉄砲隊演舞……本物の火縄銃を持った鉄砲隊。
出演:関ケ原鉄砲隊、薩摩日置鉄砲隊、大阪城鉄砲隊」「布陣パフォーマンス」「戦国グッズマーケット」「のろし体験」などの催しがあり、合戦場を観光の目玉とする地ならではの大きなお祭りです(イベントの名目はいづれも2017年の内容)。
なお「関ケ原」の表記は半角のヶではなく全角のケを正式表記としています。

1,日守の茶屋、垂井の一里塚

5月の連休。大人の休日クラブ割引適用外だけど今日しか空いていなくて中山道関ケ原宿をめざして「のぞみ201」で東京を6時23分に出発。富士山は今日も綺麗。米原より関ケ原に。駅のホームの「関ケ原」の表記が半角のヶになっていて、えっ全角でないの?と驚く。半角ヶを横目にしながら予約してあった自転車を借りに。
先回終了した「日守」の交差点まで戻り歩道橋の向こう側に伸びる旧中山道に入っていきます。

日守の茶屋と一里塚があります。一里塚でホッとしてお茶を飲むという組み合わせに見えますが、日守の茶屋は明治の頃に関ケ原の山の中の集落から移築されたものです。

茶屋のとなりに松が生えている垂井の一里塚。南塚だけが現存しています(国の史蹟。中山道では板橋宿の志村にある一里塚と共に二つ)。この辺りは関ケ原の合戦で東軍の浅野幸長が布陣したところ(南宮山にいる西軍の毛利秀元らと対峙)。
伊富岐神社(いぶきじんじゃ……伊吹山を背後に背負っている)の鳥居を過ぎて右側に野上七井戸。現在もつるべで水を汲むことができます。
野上は中山道以前に東山道といわれていた時代には「遊女の里」と呼称された宿。中山道時代になって間の宿となったところです。
関ケ原町のマンホールがあります。町の木と花である杉と梅があしらわれています。当然ながら兜も。マンホールセンターの丸の中には関ケ原町の「せ」の図案化されています。かっこいいですね。
それぞれの市町村のマンホールを見るのも中山道歩きの楽しみです。

七つ井戸の奥に壬申の乱の大海人皇子行宮跡(おおあまのおうじあんぐうあと)(仮宮殿を作り本営地とした)があるのでいってみます。途中の電柱には関ケ原の合戦の武将たちの説明も次々と出てきますので、時代を行き来して忙しいです。大海人皇子行宮跡はただ樹木が生い茂り場所を示す木札が一つ立つのみ。

その先の真念寺には班女の観音堂。東山道時代野上宿の遊女の話。

街道に戻ります。岐阜県内の中山道で唯一残る松並木に。綺麗な松並木が続いています。この辺りは山内一豊が布陣した場所。緩やかに曲がる松並木を歩いて行くと左側に「六部地蔵」。六部は「六十六部」の略で、法華経の書き写し66部を、日本全国66ヶ国の霊場に1部ずつ奉納して巡る僧のことを指し、その僧がこの地で行き倒れたので、地元の人々が祠を建てて祀ったもの。

松並木は石畳になっています。左側の丘陵一帯は桃配山。壬申の乱で大海人皇子がこの辺りに布陣して、兵士に桃を配って勝利を得た故事を踏襲して、徳川家康が関ケ原の合戦で最初の布陣を行ったところとあります。
                                                                    

2,枡屋旅館、追分道標、脇本陣遺構の門、合戦の首塚

一ッ軒の信号を渡ります。松並木はまだ少し続きます。「若宮八幡神社」。この辺りが宿の入り口。古戦場の歴史は多く残っていますが中山道関ケ原宿としての史跡はほとんどありません。與一宮という小さな祠がありますが、関ケ原村の開拓者を祀ってあるとか。この辺りには関ケ原の一里塚があったと推定されています。

「関ケ原たまり」と書かれた宮内庁御用達・関ケ原醸造の大きなお店が見えてきます。明治32年の創業。大豆のみを用いてもろみを作り、1年以上の日数をかけて作るのだそうです。

次の信号が関ケ原駅前。角にあるのは「枡屋旅館」。特に何の変哲もない説明もない旅館ですが、平安時代の1096(永長元)年の創業とはびっくりです。

旅館の向かい側には「伊勢街道追分道標」があったそうですが、現在は関ケ原町歴史民俗資料館に移設されています。この先少し行くと右側には「北国街道追分道標」。同じように資料館に移設されています。
国道の車が激しく行き交うこのあたり。いづれも追分のあった古い道は想像できませんが、交通の要衝であったことは想像できます。

枡屋旅館の少し先に相川脇本陣跡があります。門が残っています。続いて本陣の跡。この庭にあったとされるスダジイが街道より少し奥にある八幡神社に残されています。

関ケ原の合戦の説明があまりにも多いので、中山道歩きの身ではありますが矢張り立ち寄ることに。道をいくと電柱ごとに武将の戦った詳しい説明が出現してきます。読むのに忙しい(笑)。寝返ったり、取り込んだり、策略も激しい合戦であった様子が分かります。こちらの電柱には井伊直弼が合戦でどのように戦ったかの説明。赤い字で「東」とありますので東軍だったのですね。わかりやすい。

八幡神社の奥になりますが首塚がありますので行ってみます。赤い唐門と供養堂。首級墳碑と書かれた説明板は以下のように書かれています。

1817(文化14)年、関ケ原宿本陣の主を務める古山兵四郎は、関ケ原の戦いの地が将来忘れ去られることを危惧し、首級墳碑を建設した。要旨は次のとおり。「徳川家康が東国で勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権が不利と見て兵を挙げた。慶長5年(1600年)9月、関ケ原において両勢力が激突したが、三成側が大敗。家康は東西2箇所に首塚を造り、全ての首や遺骸を葬らせた。豊臣のために犠牲になった者を納め葬ることは仁義に厚く、家康の教えが泰平の世をもたらしたといえる。将来この首塚が丘や谷に変わり果てることのないよう願うものである。」
首塚の説明は以下の通り
「関ケ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言われる兵が集結した。戦死者数は諸説あり未だはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。関ケ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて遺体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営した。敷地内には文化14年(1817年)に建てられた首級墳碑が残る。墳墓は、国史跡指定された昭和6年(1,931年)の官報に、「周囲5間、高さ5尺(周囲9メートル、高さ1.5メートル)の円塚」とあるが、風化によるものか現在はその形を留めていない。玉垣に囲まれそびえるスダジイの古木が残るのみである。唐門と供養堂は、尾張藩第七代藩主・徳川宗春に関連する建造物といわれる旧山王権現社(名古屋市)の一部を昭和17年(1942年)に移築したもの。戦いの後に敵味方の区別なく供養を行うのは当時の習わしであり、東西両軍の戦死者の供養は、現在に至るまで丁重に行われている。」

東首塚よりさらに北の方に合戦場となった広大な広場があり、徳川家康の陣地の跡や戦死者の首実検するために家康が床几に座ったとされる場所もあります。

街道に戻り西町の交差点を過ぎるとすぐに「西首塚」があります。胴のない兵士などを埋葬したので、別名胴塚とも呼ばれています。塚の前に供養堂。現在は周囲およそ30メートルとこじんまりとしたものですが、当時は7000坪もあったといわれ近隣の鉄道敷設工事では供養塔や白骨が多数出た記録があるようです。
枡形も残っていませんがこの辺りが京への西口と推測されています。

街道に沿って右奥には小早川秀秋陣跡、福島正則陣跡などがありますが、先を急ぎますので松尾の交差点より中山道に戻ります。
                                                                             


3,不破関跡、立場跡、高札場跡

松尾の交差点の少し先右側に「不破関東城門跡」があります。東山道の時代のことですが、関の東方と西方には城や楼が設けられて兵士が守りに立ち、日没に閉門して夜明けに開門、都で天皇が崩御されたりまたその他の一大事には通行が禁止された、とあります。
少し先に「不破関庁舎跡」の看板。庁舎、官舎、雑舎が立ち並び、周辺の土塁内には兵舎、食料庫、兵庫、望桜などが建っていたそうです。大海人皇子が兜を掛けた石と靴脱ぎ石が祀られています。
不破関守の跡。急坂にあります。壬申の乱以後に作られた関で、破ることのできない関を意味しています。高台にあり見晴らしが良く、古代律令制度の元での三関の1つを誇るだけの大きな規模です。

登ってきた分だけ下って行くと「戸佐々神社」。付近には大木戸という地名も残っているところからこのあたりが不破関西城門であったろうと推測されています。

前方に見えてきた川は藤古川。不破関の西限。古くは関の藤川といい壬申の乱では川を挟んで東が天武天皇軍(大海人皇子)、西が弘文天皇軍(大友皇子)それぞれに陣を敷いたので、住民たちはそれぞれの軍を支援し、戦いの後は川の手前の井上神社には天武天皇を、川を越えた先の八幡神社には弘文天皇を祀ったとあります。
両軍が対峙して戦があったとは思えない小さな川です。
過ぎると今度は関ケ原合戦の武将の陣地を示す看板が……本当に関ケ原は忙しい。しかも問屋場や高札場などの宿場自体の案内があまりない……。
八幡神社を過ぎて再びの上り坂。見晴らしの良いところで登ってきた坂を見ながら小休止。
左に折れて数分行くと壬申の乱に破れて自害した大友皇子の首級が埋葬された三本杉があるそうですがパスします。前方に見えてきた歩道橋を横断します。その手前の電柱には、またもや、どの大将が東軍か西郡かがクイズ形式で貼られています。関ヶ原の戦い一色です。
歩道橋を渡って三分ほど先にやっと宿場の色が。「立場跡」です。
天保年間、十数軒の商店が軒を連ねて賑わっていた場所で、旅人が杖を立てかけて休むので立場とあります。次の宿場が遠かったり峠があったりで駕籠かき人足や旅人が休んだり、また駕籠や馬を乗り継ぐ場所であったりします。

前方の小高い山の下に高札場跡が見えてきます。立場がにぎわうと商店ができ江戸幕府が表立って認めたわけではないのですが宿の機能を果たす「間の宿」が発生します。この山中村もそうであったようで、立場、高札場と賑わったようです。

その先の川は黒血川。おどろおどろしい命名です。壬申の乱で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたとあります。激しい戦いだったのでしょうね。
地蔵堂が三つ。中の一つは黒血川地蔵。供養のお地蔵様です。
                                                       


4,鶯の滝

黒血川を通過して見えてくるのは滝。戦を浄化するような「鶯の滝」です。平地にありながら高さ5メートルの滝は珍しいとのこと。イオン効果が充満しているようで数枚の写真を撮りましたが、気分爽快。年間を通して鶯が啼いているという命名だそうです。

東海道新幹線のガードをくぐり、道を左にとると右側に常盤御前の墓があります。

常盤御前は1138(保延4)年生まれの平安時代末期の女性で、都一番の美女といわれています。源義朝の側室として阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母親となりますが、東国に行った義経の身を案じて追う途中にこの地で土賊に襲われて息を引き取ったとあります。(※伝承によるものですからこの関ケ原よりもさらに東国に埼玉県飯能市、群馬県前橋市などにも常磐御前のお墓があり、さらに飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承もあり)

当地でなくなった常盤御前を哀れみ村の人々が建てた「常盤地蔵」が少し先にあります。1183年、二万あまりの大軍を率いて上洛することになった義経は母の地蔵の前で跪いて冥福を祈ったそうです。
道はなだらかな登り。JR東海道本線の線路を越えると今須峠。そして次の「今須宿」へと続きます。
                          


June 9,2016 瀧山幸伸 source movie

西から東へ

西首塚
      

東首塚
          

家康最後陣地
   

宿場
               

桃配山 家康最初陣地
   

野上松並木
         

六部地蔵
    

野上の長者屋敷
   

  


    


July 2010 瀧山幸伸 source movie

    

石田光成陣地
                                     

決戦場
   

徳川家康最後陣地
    

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