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岐阜県高山市 東寺町

Higashiteramachi Takayama city,Gufu

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May 2015 柚原君子

高山市東山遊歩道(東寺町近辺)

岐阜県高山駅を降りて、重要文化財である飛騨国分寺を左手に見て東に進むくと、観光地とは思えない静かな寺町(東山遊歩道)に突き当たります。戦災で焼けることの無かったお寺が続いています。高山城主の金森長近が城下町の整備に伴い京都の東山寺町に倣って町の東側の高台に寺院を建立、周辺にあった寺院を移築させたのが東山寺町です(駅よりタクシー5分、徒歩20分)。眼下には高山の街並みが見られ、四季折々にこの山は色を変えます。一番西側にある宋猷寺(そうゆうじ)から訪ねることにします。

1、宗猷寺(そうゆうじ)

所在地;高山市宗猷寺町218 

本堂(高山市指定重要文化財)

鐘堂(高山市指定文化財)

城のような石垣の上に見えるのは宗猷寺(そうゆうじ)です。宗派は臨済宗。境内は、薬医門、鐘堂、本堂、三十三観音堂、地蔵堂、庭園などからなっています。

1824(文政7)年落成の本堂は禅宗様式と唐様式が混交した重厚で美しい建築物です。重層の仏殿風ですが、内部は土間ではなく床があり畳が敷かれています。庭園は池泉鑑賞式庭園。ゴールデンウィークの始まりでしたが、訪れる人もなく静かな池にツツジがひっそりと絵になっていました。幕末から明治時代の幕臣、政治家である山岡鉄舟は江戸の生まれでしたが、1845(弘化2)年、飛騨郡代(幕府から派遣された天領を治める役人)となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごしています。境内には鉄舟の両親の墓と碑があります。鐘堂は享保年間のもので高山市指定文化財。鐘堂の先に高山市内が見渡せます。

寺の歴史を、飛騨三十三観音霊場会事務局HPより引用要約します。

『寛永9年(1632)飛騨国守、金森三代出雲守重頼、佐京重勝の兄弟が、父出雲守可重の菩提のため、妙心寺前住「南叟宗安禅師」を開山に迎え建立。初め新安国寺と称しましたが、のちに重頼の法号真龍院殿と重勝の徽雲宗猷居士より「真龍山・宗猷寺」と改めました。境内には山岡鉄舟の碑と飛騨郡代であった鉄舟父母の墓が祀られています。鉄舟は両親没後、10歳より江戸に立つ17歳までを飛騨で過ごし、当山十五世俊山禅師に禅を学びました。禅師に大梵鐘をねだった上にやりこめた話は知る人の多いところです。鉄舟の後の豪邁な素地は、高山時代に培われたものといわれています。観音堂は鉄舟寄進によるものです。神社仏閣の建ち並ぶ静かな東山にあって、偉容を誇る石垣、寺地、裳層付の本堂(市文化財指定)はその姿と共に今も禅の心を伝えています(鐘堂は市文化財指定)』

2、善応寺

所在地;高山市宗猷寺町177

松の木の続く参道を緩やかに登って行くと善応寺があります。

寺の歴史を、飛騨三十三観音霊場会事務局HPより引用要約します。

『「観音の行は善く諸々の方所に応じて、弘誓の深き事海の如し」と観音経にあるように、観世音菩薩(如意輪観音)がご本尊です。インド、マカダ国のビシュカツマの作と伝われ、中国より日本へ渡来し、始めに京都建仁寺に祀られました。その後故あって、三木自綱公が帰依するところとなり、文禄元年(1558)飛騨を平定して松倉築城のおりに城下にこの観音様を本尊として真言宗善応寺が誕生しました。その後わずか27年で三木氏は金森長近公との戦いに敗れ、当寺も焼失してしまいした。その際本尊は長近公の手中へと移ることに。やがて長近公の菩提を弔う素玄寺二代目、格翁門越大和尚を歓請開山とし、曹洞宗の善応寺として再興されました。天保6年(1835)飛騨の大地主永田吉右衛門尚友の計らいにより現在地に移転。大正8年に不慮の火災に遭いふたたび全焼しました。現在の本堂、地蔵堂は大正14年に飛騨匠の手によって再建されたものです』

3、法華寺

本堂(岐阜県指定重要文化財)

番神堂(高山市指定文化財)

所在地;高山市天性寺町62番地

もともとは新潟県三条市にある法華宗総本山本成寺の末寺でしたが、当地に本成寺第十一世日扇聖人日嚢師が派遣されて1558(永禄元年)年開山されました。1632(寛永9)年、九州の地から配流され、翌年この地でさびしく亡くなった加藤肥後守清正の嫡孫光正の霊を哀れんだ金森重頼(3代)が、高山城内の建物を移してこの本堂にしたそうです。往時の高山城の姿を残している書院造の風格を持つ貴重な建造物です。本堂は桁行20.22メートル、梁間1.5メートル 単層入母屋造、銅平板葺です。移築した本堂横に建つのは番神堂(ばんじんどう)。入母屋造に唐破風を設けた堂宇で鬼子母神など法華守護の五番神が祀られています。彫刻もきれいです。参道の下から見上げる紅葉、落ちてゆらぐ葉影、5月の風のそよぎ、歴史の流れが体感できたようでした。

4、素玄寺(そげんじ)

本堂(高山市指定文化財)

所在地;高山市天性寺町39番地

初代高山城主金森長近の菩提寺。2代目の城主金森可重が創建した寺院で、宗派は曹洞宗。素玄寺という字名は長近の法号「金竜院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士」に由来しているそうです。寺宝には長近ゆかりの陣羽織、軍扇、釆配、長近公肖像等が伝わっているそうです。本堂は書院造が特徴で、1635(寛永12)年に高山城の三の丸にあった評定場を移築したものです。本堂左側側面にある破風は高山城の遺構でしょうか。それとも1819(文政2)年に炎上してその後に高山城の評定場を移築されたとあるので、炎上した当時の破風でしょうか……。

寺の歴史を、飛騨三十三観音霊場会事務局HPより引用要約します。

『素玄寺の本尊は8センチあまりの小さな木彫仏馬頭観世音菩薩です。「松倉山縁起」によると、比叡山の慈覚大師が中国からの帰朝の途中で嵐に遭遇され、大師が一心に観世音菩薩を祈念されると、不思議にも馬のいななく声と共に雨風がやみ、無事帰国することができました。そのお礼に自ら彫られた尊像がこの馬頭観世音菩薩だと記されています。またこれを後に佐々木高綱が乞請け、さらに伝わって松倉城主三木自綱が兜に納めていた守り仏であったと言い伝えられています。当初は高山市郊外松倉山の岩屋にある観音堂に祀られていましたが、江戸時代の後期に素玄寺観音堂に安置されました。毎年8月9・10日に松倉観音堂へ遷され縁日法要が夜通しで営まれ、絵馬市も開かれます』

5、大雄寺(だいおうじ)

鐘楼堂(岐阜県指定重要文化財)

楼門造りの山門(高山市指定重要文化財)

所在地;高山市愛宕町67番地

大雄寺は、飛騨地方における念仏門最初の浄土宗の寺。もともとは岐阜県吉城郡上広瀬村(現高山市国府町上広瀬村)にあったのですが、1586(天承14)年、初代高山城主金森長近によって、今の地に移築されました。地名に「東山」を名乗る所は往々にして京都を模したものが多いそうですが、この大雄寺のある高山市東寺町一帯も京都を模して作られています。大雄寺の山門は小規模ながら総本山知恩院の伽藍を模したものです。岐阜県指定の重要文化財です。1792年に大風で倒壊していますが、17年後の1807(文化4)年に再建されていると説明板にありました。枝垂桜が見事でした。六角堂を撮れなかったのは残念でした。

ところで高山市は飛騨地方ですが、飛騨の語源を少し。山がうねっている様をあらわす「ひだひだ」から来ていると言われてますが、歴史の書物の飛騨の文字の種類は多いです。「飛騨」(日本書紀)、「斐陀」(国造本紀)、「比太」(和名類聚鈔註)、「飛駄」(国名風土記)、「飛弾」( 廣益俗説弁)、「卑田」(先代奮事神社本紀)、「飛駄」(大八州記の杣工記・日高見説南留別志)、「襞蹟」(倭訓栞)、「斐太」(万葉集)、などなどありますが、いづれも決定付けるものはないそうです。「飛騨」となったのは奈良時代のことです。奈良時代は政府が歴史書の編纂などを行って国家の勢威を誇示する方針がありました。「制、畿内七道諸国郡郷名着好字」「凡諸国部内郡里等名、並用二字、必取嘉名」などの命令があり、一つの地名に幾通りもの文字使いがあった行政地名を、中国風の二字・好字に改訂して固定化させようとしたものです。飛騨は馬を現す字でもあります。昔から飛騨は名馬の産地でしたので、馬に関する地名や伝説や神社も多く残されています。

6、雲龍寺(うんりゅうじ)

鐘楼門(高山市指定重要文化財)

所在地;高山市若達町1丁目86番地

市道側から眺める鐘楼門は優雅さを漂わせています。寺にありがちな威厳とか恐れとかがなく、質素でいながら、なんとも円やかな優しさであふれています。鐘楼門は桁行4.15メートル、梁行3.7メートル、重層四注造、銅平板葺 安土桃山時代(16世紀)ののものです。この鐘楼門は高山城二之丸にあった黄雲閣を移築したものです。当時の城の雅さが彷彿と沸きあがってくるような遺構です。

高山市教育委員会の文化財の説明は以下の様になっていました。一部重複しますがそのまま掲載します。

『当時の草創は古く、古代に白山社(現在の東山白山神社)の別堂妙観寺という寺があった。後、天台宗に属していたが、応永2年(1395年)頃堂宇を再建して槽洞宗に改めた。能登の総持寺(そうぢじ)前住「了堂真覚」をもって開山して海蔵山雲龍寺と改称し、応永30年(1423年)6月7日に遷化したとある。真覚は高僧で、宮村の大幢寺も開いている。『高山市史』境内山上の白山権現(現東山白山神社)は、雲龍寺の鎮守として祀られてきた。塔頭(たっちゅう)(境内にある小寺)に栄鏡院、久昌寺がある。

金森入国後、天正10年(1582年)本能寺の変に際し、二条城において19歳で戦死した金森長近の長子忠郎長則の菩提寺として長近が修営した。

建物の外観は、ゆるやかな曲線をもつ屋根の頂部に、露盤と宝珠をのせる。初層中央通路の両側にふところを設け、南東側に階段がある。上層外廻りに戸溝があり、中央通路の両側が入り込みとなっていることなどから、寺院の鐘楼門として建てられたものではない。慶長6年(1601年)、金森長近より「黄雲閣」という建物を賜り、のち鐘楼門となったと『高山市寺院由緒記』には記される』

飛騨が天領(幕府の直轄地)になってから、1692年、金森氏による107年の藩政時代は終了して金森氏は出羽の国上ノ山に転封されます。高山城は加賀藩前田氏の預かりとなりましたが、1695年(元禄8)年、幕府から高山城破却の命令が出て加賀藩によって徹底的に取り壊されてしまいましたので、現在の高山城址には、建物は全く残っていません。1729(享保14)年の大火にも、羽目板の一部に焼痕をとどめただけで焼け残ったという鐘楼門。雅な貴重な遺構です。

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