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岐阜県垂井町 垂井宿
Tarui Shuku post town ,Tarui town,Gifu

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June 10 ,2016 瀧山幸伸 movie

西から東へ

             

                     

垂井の水

                                  

    

美濃街道松並木
    


June 2013 中山辰夫

岐阜県不破郡垂井町

所在
 

垂井宿は江戸から中山道57番目、約440q離れている。宿場の長さは相川橋南詰の東の目付から西の目付まで約766mである。
垂井宿は江戸時代以前から宿駅として機能していたし集落も成立していた。垂井駅は中山道の宿駅であり、脇往還の美濃路の起点でもあったため西美濃の交通の要衝であった。中世には鎌倉街道の宿駅として栄えていた歴史があり、江戸時代も交通量も多かった。

宿場は美濃路の追分を控え、南宮大社の門前町として賑わった。石鳥居付近では六斎市が開かれ近郷の大勢の人々が集まった。

垂井宿には問屋が3ケ所あって人足・馬の手配をした。宿泊施設は、本陣、脇本陣、一般用の旅籠屋もあった。
宿場は、西町・中町・東町の三町に分かれ南宮大社の大鳥居を中心に街道に沿って東西に延びていた。
当時中山道を旅する人は浪速講・関東講等の定宿を利用した。
江戸時代、五街道での車の利用は禁止であったが、1849(嘉永2)年、垂井宿において初めて車の利用が許され小型の大八車が走った。

「中山道宿村大概帳」にみる美濃十六宿「引用:街道解説四百年 中山道」 
 
中町の鳥居付近(木曽路名所図鑑)・垂井宿(東海木曽両道道中懐宝図鑑)・木曽街道垂井宿(国芳画)
    

宿場の面影は殆ど姿を消したが、垂井の名前の由来ともなった垂井の泉、専精寺、北は山車倉辺りまでが今でも宿場らしくまとまっており街道沿いは枡状をした宿内に連続した町家が残り往時が偲べる。

今回は飛び飛びであるが、駆け足の街中散策である。 【お断り:行けなかった場所は配付パンフレットの写真を掲載した】

■■垂井宿散策

■町地図
  

■中山道ミニ博物館
 
県から「まちかど博物館」に第一号に指定され、旅用具や史料などが展示。保存されている。見学は事前予約が必要。
中山道研究家の太田三郎氏が自宅の一部を提供されて平成3年に開館。40年かけて集められた資料が並ぶ。

■タルイピアセンター
 
図書館、歴史民俗資料館、歴史文献センタ―で構成された文化施設。

■■いよいよ散策の開始である。スタートはJR垂井駅北口

■追分道標
美濃路の60本ほどの松並木が残っている美濃路。追分は中山道と美濃路の分岐点である。
    

■相川と東見付跡
相川橋上下、伊吹山が小さく見える。
   
川幅約100mの相川は昔から暴れ川で架橋が困難,瀬と淵がいつも変わり危険なため、江戸初期から特別な姫君や朝鮮通信使の通行以外は人足渡しであった。1723(享保8)年の渡し賃は「胸まで45文、腰まで24分」で、増水になれば川留となった。

資料:朝鮮通信使行列「引用:中山道」
  

見付
     
見付は宿場の出入口で、大名等の行列を名主らが迎えたり、非常事態発生の際は閉鎖して通行できなくした。

姫様の旅
中山道は、江戸へ輿入れする姫君の通行が多く、最も有名なのが14代将軍・徳川家茂へ嫁いだ和宮で、他にも多かった。
東海道と中山道を結ぶ美濃路(東海道宮宿〜中山道垂井宿)は、大名や姫君以外にも大規模な通行に利用された。
資料:和宮親子内親王降嫁治の資料「引用:中山道」
    

相川のサクラと鯉のぼり「現在」
  
相川堤沿いには約200本のソメイヨシノが並ぶ。3月下旬から5雄月上旬までの間、400mの川長さにこいのぼりが並ぶ、雪を頂いた伊吹山をバックに泳ぐ姿は壮観で、風物詩となっている。

■東町用心井戸
 
垂井宿は、度々大火に襲われ渇水期に防火用水を確保する必要があった。西・中・東街にそれぞれ一か所、要人井戸をつくった。
ここは東町の井戸で石組、深さとも立派な井戸日照りが続いても枯れない井戸である。

■紙屋塚
   
ここは古代の国府近くに位置し、美嚢紙の発祥地ともいわれ、紙屋の守護神「紙屋明神」が祀られている。奈良の正倉院にはこの当時の美濃紙が残っている。

■愛宕神社と東町山倉
  
垂井町は1755(宝暦5)年の大火を初めとして、度々大火があった。寛政年間(1789〜1800年)には西・中・東町内にそれぞれ防火の神≪京都の愛宕神社の愛宕権現)を懇請して祀った。これは東町の愛宕神社である。

   
愛宕神社の奥に建つ。毎年5月2日〜4日に行われる「垂井曳山祭の山車収納庫

■旅館亀丸屋
    
鶯張りの廊下もある。2階からは宿場の様子がよく見えるが、外からは部屋の内部が見えにくくなっている。大屋根の鬼が龜を加えた鬼瓦には「1780(安永9)年8月吉日」「瓦屋 川村惣吉、瓦師 今村庄助 造之」と記されている。

■枡形の道路
 
宿の前にある。

■問屋場 金岩家
  
この金岩家は垂井宿の問屋・庄屋を勤めた。問屋場には年寄・帳付・馬指・人足指等がいて、荷物の運搬や相川の人足渡しの手配もした。
大通行の時には常備の50人50疋の人馬では足らず、付近の助郷村の人馬を集めて運送した。

■丹波屋 松井家
    
1836(天保7)年浪速講道中記に「たんばや幸助」と記されている。現在の建物は1912(大正元)年に建てられたもの。
玄関の上にはWATERと英語で刻まれている。平成19年に外観は宿場の風情を残し、家屋内部は現代的に再生された。

■本陣跡
安田歯科付近にあった垂井宿の栗田本陣は、建坪178坪で門構、玄関、上段の間を備える広大な建物だった。
粟田家は酒造業も営んでいた。本陣跡は明治維新になって学習義校(小学校)の校舎になり、その後役場としても使われた。
  

垂井宿本陣徳利「引用:中山道」
 

■途中見かけた邸宅
思わずカメラが追いかけた。
         

■石鳥居
国重要文化財 1642(寛永19)年造営 石造明神鳥居
石鳥居は南宮参道の入口にある。徳川家光の寄進による。花崗岩を使った明神鳥居型と呼ばれる様式である。
地上から最上部までの高さは7.15m、柱の周りは2.27mある。柱の半分は地下に埋まっているようで地震にも耐える賢固な造りとされる。
鳥居の中央部に社格を表す「正一位中山金山彦大神」の額が掲げてある。両側には一対の石灯籠と道標がある。
     

■古い民家と町並み、礒野邸
旧家は石鳥居から北方向に残る。 土蔵の鎧張りに風情がのこっている。礒野家と記されたものがあった。もともと浅井長政の家臣の中に礒野という人がおられ、その後転身し、財をなしたとも聞くが確認取れず。
     

■脇本陣跡
 
脇本陣跡にはふれあいプラザ夢の屋がオープンしている。裏の庭に脇本陣にあった石灯籠が残っている。
金岩家脇本陣は建坪135坪、玄関、門構があった。玄関・門は明治になって本龍寺に移された。

■旅籠 長浜屋
         
長浜屋は築後200年以上たっている。旅人の減少で明治22年に旅籠屋を止めて酒屋を始め、平成10年頃まで続けた。
その後は町並み保存と活用に取り組む「垂井宿の歴史と文化を守る会」の手で再生が行われ一般に公開されている。

■油屋宇吉家跡・旅館亀屋(現在:小林家)
      
1817(文化末)年頃建てられた。
宇吉は多くの人を雇い手広く油商を営んでいた。信仰心が厚く、南宮大社前の道標などを寄進し、社会奉仕に努めた。
明治初期に小林家が譲り受け,亀屋という旅籠屋として昭和・戦後まで営業していた。土蔵造りに格子を入れ、防火用の濡れむしろ掛けの釘もあるなど商家の面影を残している。

■付近の中山道沿いの商家や元商家の案内 江戸時代の商家が並ぶ。
         
街並み保存活動が続いている。

■高札場跡
 
本龍寺山門前に横幅約4m、横幅約1.5mの高札場があり、「親兄弟を大切に、キリシタン禁止、人馬賃」など6枚の制札を掲げていた。

■八重垣神社
   
1353(文和2)年、後光厳天皇が祇園社の祭神を迎えて祈願された勅願の宮で、明治の初め八重垣神社と改称した。
垂井の氏神として崇拝されてきた。

曳山倉
   
垂井へ避難されていた後光厳天皇を慰めることから始まったとされる。舞台付の山を作った時期は寛永時代ごろとされる。
5月の例大祭では子供歌舞伎の神前奉芸が行われ、祭礼には京都八坂神社の宮司が参られる。

■本龍寺
不破郡垂井町1234
     
1634(寛永11)年、3代将軍家光が上洛途中朝食をとられた。芭蕉は1691(元禄4)年、この寺の住職規外を訪ね冬籠りした。1809(文化6)年住職規外と白寿坊がここに「作り木塚」をつくり、1855(安政2)化月坊が住職規外とで時雨庵を建てた。1878(明治11)年、明治天皇の北陸東海両道御巡幸の折り、この寺で御小休された。

山門
     
1816(文化13)年頃より西町にあった建坪135坪の金岩脇本陣門及び玄関を明治初期移築した。

本堂・他
       

時雨庵
化月坊が芭蕉ゆかりのこの寺に1855(安政2)年、時雨庵を建立した。
 

作り木塚と芭蕉翁木像
俳人松尾芭蕉は、本龍寺の住職玄潭(俳号、規外)と交友が深く、1691(元禄4)年、冬当寺にて冬籠りした。
この間に次の句を詠んでいる。
句に詠まれた作り木塚と、当寺に伝わる芭蕉の木像が収められている。
  

■長屋氏屋敷跡
    
鎌倉中期頃から戦国期にかけて、長嶋氏と称する豪族がいた。ここはその屋敷跡で、大きなツバキ(町指定天然記念物)が残っている。
長屋氏宅は、南北朝の争乱で京を追われた後光厳天皇の垂井行在と足利尊氏の垂井止宿に使われたと記録がある。

■西の見付跡
安藤広重の垂井の版画は、ここから西方を見た風景を描いている。
   

■付近の中山道 関ヶ原方面
   

■松島稲荷
    

■一里塚と茶所
1604(慶長9)年徳川家康は旅人のために主要街道に江戸日本橋から一里毎に、五間(約9m)四方の塚を街道の両側につくり頂上に榎を植えさせた。この一里塚は江戸から1112番目で、現在は松が生え、南側だけが完全に残っており、史跡に指定された。
  

茶所は、明治の初め関ヶ原山中にあった秋風庵を現在の場所に移したもので、昭和の初めまでは休憩所として賑わっていた。
 

ここで一旦中山道を、石の鳥居まで戻る。
 

■玉泉寺
 
清水のよこに建つ。1628(寛永5)年、垂井の豪士・吉田作右衛門が両親及び一族の祖先の霊の菩提を弔うために一念発起して建立した。
たまたまこの地より霊水がコンコンと湧き出て止むことがないので寺の名を「臥龍山玉泉寺」と名づけた。

垂井の泉

   
岐阜県の名水50選に選ばれた由緒ある泉。幹周り8mの大ケヤキが見もの。
湧き出る泉は古来から和歌にも詠まれ、「垂井」の地名はここから生まれた。
「東路に名たかき泉三あり 其三つといふは近江国坂田郡醒井泉 美濃国多芸郡養老泉 同国不破郡垂井泉 是なり 其水を試し人のいひけるは養老は醒井にまさり 垂井はまた養老にまさりぬといえり」

■専精寺
   
関ヶ原合戦で活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡といわれる垂井城があったと推定されている。

さらに直進すると南宮大社に至る。

南宮大社

参考資料≪中山道垂井宿、宿場案内書、配布パンフレット、岐阜県の歴史散歩、垂井町史、岐阜県史、他≫


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