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群馬県安中市 中山道板鼻宿
Itahana,Annaka city,Gunma

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Jan.2016 柚原君子

中山道第14宿

行程
1、少林山達磨寺→2、上野国一社八幡宮(こうづけのくに いっしゃ はちまんぐう)→3、寒念橋供養塔(かねつばし くようとう)→4、長傳寺→5、石仏群と七段階段のある旅籠→6、板鼻館→7、木島家本陣跡と和宮宿泊書院→8、称名寺(しょうみょうじ)→9、聞名寺(もんみょうじ)→10、旧てうちん屋→11、鷹之巣神社・渡し場跡

板鼻宿(いたはなじゅく)概要

板鼻宿の地域は古くは若田郡藺田鼻(わかたぐんいたはな)と称されていたそうです。若田郡藺田鼻の藺(い)は現在では使われていない字ですが、意味は花ムシロの材料になるイグサのことです。歴史民俗用語辞典によると藺田は藺または灯心草(畳表に使う)を植えてある田、とあります。藺は村にとって重要な生産物であったのかもしれません。

現在使われている板鼻の字を地名辞典で調べてみますと、「板」が付く地名は板鼻、井田、伊田、依田、板井などがあり意味的には「崖崩れのこと」とあります。「鼻」が付く地名としては岩鼻、鼻高などがあり、「先端」という意味で双方を合わせると「崖の崩れそうな先端」という意味になります。また、角川日本地名大辞典には『古代の東山道は野後(のじり)駅から群馬(くるま)駅へ通じる途中、碓氷川左岸の段丘上を通過していたとみられる。交通の要衝の地で、段丘上には板鼻城跡がある』、と記述されていますので、古くの板鼻宿はここにあったのでしょうね。

これらを把握して、現在の県道171号線「鷹ノ巣交差点」の真上にそびえる段丘は、なるほど見上げるほどの高さがあり崖のようです。板鼻城やこの城の前城である板鼻古城はこの段丘上にあったそうですが、現在は切り開かれて住宅団地や畑となって双方の古城の面影も史跡の立札もまったくありません。しかし団地造成に伴う最近の考古学調査によると古城遺跡から先土器時代後期の遺物が出土しているそうです。板鼻城は別名鷹之巣城とも呼ばれているようですが、実際は板鼻城のある台地の先端にもう一つの城(出丸)があって、それが鷹之巣城だったようです。

板鼻城の築城年代は定かではありませんが、鎌倉期(1185年〜)に里見氏の一族が築いたのがはじまりとされています。また永禄年間頃(1558年〜1570年)には武田信玄によって築かれ、そして1590(天正18)年に上杉景勝によって攻め落とされて廃城と推定されています。

江戸300藩大名総覧によると、板鼻藩は里見義高(さとみよしたか)系の外様大名で江戸時代前期(1601年〜)の10年間ほど上野の国に存在した藩ですが、その後は前橋藩領に組み入れられてのちには幕府管轄の天領になっています。

江戸幕府は、1601(慶長6)年から7年間、5街道の整備をしていますが、中山道もこれまであった東山道のルート整備がなされて、板鼻宿はかつて板鼻城のあった丘陵地より碓氷川沿いに変更になっています。

碓氷川は戦略的な要の場所ですので橋を架けることはなく、徒歩で渡ることになっていて中山道では一番の難所でした。増水の川止めで旅人があふれる事も多く、また一つ前の高崎宿は城下町でしたのでその堅苦しさを避けて本陣が設置されなかったこともあって、板鼻宿は大いににぎわいました。
1843(天保14)年の道中奉行による調べでは宿内人口1,422人、総軒数312軒、本陣1、脇本陣1、旅籠54軒と記されていて旅籠の数では板橋宿、塩尻宿と同じ数になり、大きな宿であったことがうかがえます。

宿の機構は1845(弘化2)年に上番・下番に二分されて人馬の継ぎ立て(宿駅で人や馬を替えて使者や物資を送ること)や問屋場※1も二ヶ所となり上番を脇本陣福田家、下番を本陣木島家が努めていますが、上番・下番に二分されたことで明治になるまで争いがたえなかったそうです。伝馬役(てんまやく・使者や物資を馬で運ぶ交通制度)の負担は間口の広さに応じて課せられていて六間屋敷(1.8×6=10.8メートル)の家は馬役を、三間屋敷(1.8×6=5.4メートル)の家は人足役の負担であったそうです。宿の出入り口や裏町の家は負担の割合が半減されたとあります。

1783年7月の浅間山の大噴火で天明の大飢饉が起こり、多くの地域で多くの人々が餓死しています。江戸時代初期に明国から伝わった黄檗宗の影響で達磨大師が民間信仰の対象となっていたこともあって、高崎の黄檗宗・少林山達磨寺の東嶽和尚は農民の困窮を見かねて、寺に伝わっていただるまの絵より木型を起し、農民の副業として張り子達磨の作り方を教えます。現在も高崎の達磨として全国にその名が知られ板鼻の町にも達磨工房が多く見られます。
また、江戸時代に造られた板鼻堰(せき)と称される川は全長約15キロの用水路として板鼻の町中を縫うように現在も流れています。農業用ですが、皿や野菜を洗う水でもあり家々に引き込まれたりすることも多く、この用水を利用して当時から盛んだった鯉の養殖なども現在の板鼻にはみられます。

中山道宿の衰退は鉄道の発達によるところが大きいのですが、板鼻もご多聞に漏れず鉄道の発達によって静かな佇まいになっています。度重なる市町村再編で1955(昭和30)年3月、安中市に組み込まれて、現在は群馬県安中市板鼻町となっています。

※1、問屋場(といやば)
問屋場は宿場では重要な施設で、幕府の公用旅行者や大名などが宿場を利用する時に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ業務である。または書類などを次の宿場に届ける飛脚業務などを行うところ。問屋場には宿場の最高責任者である問屋(といや)、問屋の補佐役である年寄(としより)、事務担当の帳付(ちょうづけ)が詰めていた。他には人足や馬を指図する役職や、参勤交代の大名を迎える迎え役などを置いていた宿もある。


1、いきなり寄り道:少林山達磨寺
所在地:群馬県高崎市鼻高町296

先回の高崎宿は、群馬県に唯一存在するという日本橋より7番目の一里塚(112km)で終了していました。今回板鼻宿はここから出発です。今回もお借りした自転車で走ります。碓氷川を左手にしばらく行くと前方の橋の欄干にちょこんと乗っている達磨があります。この橋を渡って右手の山の上に上がって行くと達磨寺。板鼻宿のあったころから達磨作りはこの地域の農民たちの貴重な収入源でしたので寄り道します。


2、上野国一社八幡宮(こうづけのくに いっしゃ はちまんぐう)
所在地:群馬県高崎市八幡町655

達磨寺の山を下りて街道に戻ります。欄干に達磨を乗せた橋の向こう側に見える赤い鳥居が上野国一社八幡宮です。京都の岩清水八幡様からの勧請で、通称は「やわたの八幡様」。

上野国一社八幡宮は『永承年間(1046〜1052年)源頼義、義家が奥州征伐に赴く際に戦勝祈願をしたといわれ、その際に社殿を改修、後に源頼朝も社殿を改修、神田100町を寄進したのをはじめ、徳川幕府が朱印地100石を寄進するなど、新田氏、足利氏、武田氏、豊臣氏など、武家からの篤い崇敬を集めてきました。』と神社の歴史にあります。

赤い鳥居に掲げられた扁額「八幡宮」は弁慶の書と言われているそうです。鳥居から八幡宮の神門まで道は一直線に伸びています。山全体が八幡様という感じです。
提灯が飾ってある隋神門の前で道は二股に分かれています。隋神門の奥、急階段を登るともう一つの隋神門。こちらには神社をお守りしている神様の左右大臣がお座りです。
同方向に二つの随神門があるとは、もしかしたら明治の神仏分離以前は表の方の提灯が飾られている随神門には、仁王様がいらしたのかもしれません。……想像ですが。

門をくぐります。全体的に少し荒れた感じがしますが拝殿の手前右側には神楽殿、左側に鐘楼です。本殿は1757(宝暦7)年の建造。かなり古いので驚きです。本殿は囲いの中にありますが、カメラレンズをなんとか向けて撮影。極彩色の権現造りで像、龍、獅子などを表した彫刻が美しいです。

文化財指定も多く保持されて、室町時代初期の歩兵用の簡易な鎧である「胴丸」と「唐銅燈籠一対」が高崎市指定重要文化財。「大々お神楽」が高崎市重要無形民族文化財。「算額」が群馬県指定重要文化財となっています。

東西一対となっている燈籠は高崎田町出身で、横浜弁天通において糸繭商を営み、日本有数の大商人となった野澤屋惣兵衛(茂木惣兵衛)が大願主となって、幕末の1865(慶応元)年より開始されたやわた八幡宮の大修復事業の記念物として、金三百両をもって作成されたものだそうです。野澤屋惣兵衛は第二国立銀行等の創設(現在の横浜銀行)にも尽力しています(参考:高崎市HP)。……余談ですが群馬県には横浜銀行が三カ所もあるそうです。
                                   


3、寒念橋供養塔(かねつばし くようとう)
所在地:群馬県安中市板鼻2丁目39

先に進みます。右手に見えてくるのが寒念橋供養塔
「板鼻宿の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金によって石橋を改修したものを、その後破損したため享和二(1802)年、板鼻宿本陣を務める木嶋七郎左衛門がさらに改修し、その近くに供養記念塔を建てたもの」と説明板にあります。
近辺に昔日の面影はありませんが、江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師、渓斎英泉(けいさい えいせん)の木曽街道六拾九次之の内の第14番に板鼻宿があり、その中に板鼻堰用水路の流れに架かる寒熱橋が描かれています(パンフレットにて参照)。
      

4、長傳寺
所在地:群馬県安中市板鼻2-5-1

1532(天文年間)年に開基されたお寺。彫り物師が欄間、書院の玄関などに10年かけて掘った彫刻が見ものとのこと。裏側に刻まれた銘では日光東照宮の彫り物師の流れを汲んでいるそうです。写真をお願いしましたが駄目でした。本堂に上がって見せていただきましたが、七つある欄間の彫り物は見事で、今にも飛び立ちそうな鳥たちでした。
ご住職が本堂の奥にある厨子を特別に見せてくださるとのことで、招き入れられました。江戸中期のもので観音開きのサイドにいらっしゃる五百羅漢様たちは見事です。修復されて上がってきたばかりとのことで、正面には色鮮やかなお釈迦様、文殊様、普賢菩薩様などが見られます。皆様のざわめきが聞こえそう(彫刻はパンフレットに参照)。
長傳寺は本陣や脇本陣で宿泊客が泊まれなくなったときの代用本陣でもあったそうです。
             

5、石仏群と七段階段のある旅籠
所在地:群馬県安中市板鼻1丁目6-20の附近

しばらく進むと板鼻下町の交差点で道はYの字に分かれます。右を取ります。またしばらく行くと道がYの字になっているので今度は左です。国道137号です。右側に丸太の道標。板鼻宿まで0.5キロとあります。その先に夫婦道祖神があり説明板が立っています。それによると、双体道祖神は1792(寛政)年のもので夫婦和合の祝言形。台座には京へ107里3丁、江戸へ21里半、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半と旅程が刻まれているとのこと。

なるほど、日光と善光寺は同じ距離だったのですね。3代将軍家光が参勤交代制をとって、江戸への道すじも武家諸法度で厳しく指定しました。金沢の加賀百万石はこの中山道に指定されています。それでかなり離れた地ですが、加州金沢への旅程も記されているのでしょうね(加州とは加賀の国のこと)。

道祖神を過ぎて町中のところどころにある達磨工房や達磨の旗を見て中山道を行きます。JR信越線の踏切を越えると宿らしい街並みが現れてきます。
ところ天と書かれた左隣の家が昔の風情らしいので、写真を一枚頂いていましたら、向かいのご老人が出てきて「めずらしいですよ」と声をかけてくださいました。「飯盛り女のいた旅籠だったそうで、二階に上がる階段は7段しかなかったんだよ」、と。
「エッ、何故ですか」と私。「それはね、階段が少ないと足を大きく上げなければいけないじゃない、するとふくらはぎのあたりが見えて、お客が喜んだんだって、今でもその階段はあるよ」、と言われました。ご老人はその時代に生きたわけではないのですが、嬉しそうに話してくれました。
居住中ですので窓越しにもう一枚写真をもらいました。
                                  
      

6、板鼻館
所在地:群馬県安中市板鼻1丁目6-20の附近

本陣の手前にあるのが旧旅籠角菱屋跡。今は4代続くカツ丼屋さん。タルタルソースをかけて食べるのだそうです。
  

7、木島家本陣跡と和宮宿泊書院
所在地:群馬県安中市板鼻1丁目6-20

海音寺潮五郎の「中山道板鼻宿」碑が真新しく街道に面してあるのは本陣跡です。木島家本陣は昭和初期までは残っていたそうで、建坪は167坪。雪隠(トイレ)だけでも10ヶ所もあった大きな屋敷だったそうです。現在は板鼻公民館となっています。

江戸末期、公武合体の政策により朝廷の孝明天皇の異母妹である皇女和宮が16歳で、14代将軍徳川家重のもとへ中山道を降嫁しています。宿泊をした中山道の宿場には和宮の歴史が多く残されています。

板鼻宿では木島家本陣に付属していた書院にて宿泊。書院は現在も保存されて公開されています。展示の中に本物の草履が残されていますが、それはとてもとても小さく、愛らしかった皇女が想像されます。またこの部屋に宿泊の際に初潮を見たとされていて、その月の物を処理したものが石の塚として残り、月の宮と称されています。宿場の飯盛り女たちは仕事柄月のさわりが無くなることを恐れていたので、その女たちに月の宮は崇拝されたそうです。

和宮の行列は京都からの付き人1万人、江戸方1万5千人、京都からの通し人足4千人という大集団。嫁入りの荷物は東海道を下ったのですが、降嫁道中のための日常の鍋.釜.茶碗、布団などは伝馬継立で花嫁と一緒に中山道荷送りをしていったので、どの宿でも宿人だけでは足りずに近在の郷も協力をさせられたそうです。

幕府も朝廷も関係する移動でしたので関係書類はどの宿場にも回覧板としてきっちりと残されていてその物々しさが書き記されています。公民館では展示文章を一枚10円でコピーしてくださるとのことでお願いしました。

安中文化会誌に掲載された勅使川原氏の文章によると公儀からの通達として
1、中山道各宿駅は、行程三日間は上下旅人の通行を差し止めること。
1、下向の用以外の者は街道に外出しないこと。
1、道路には小砂利を敷き詰め通行直前に敷き終わること。
1、表二階の雨戸を閉めきり、目張りすること。
1、当日は焚き火無用のこと。
1、表へ天水桶を出しておくこと。
1、火事になっても宿泊当日から夕方まで半鐘は撞かないこと。
1、火事になっても宿泊当日と前後三日間は町火消で対応すること。
1、表屋根へ石留をそえること。
1、表障子を開け払い奥まで見通しにすること。
1、掛け看板の類を外しておくこと。
1、当日水車そのほか鳴り物差し止めのこと。
1、身元不確かな雇い人を置かないこと。
などと宿から宿への廻し状が明記されています。
いやはや大変な通達の内容ですが、まだまだあったそうで、例えば街道に面した見苦しい家の建て替え、殺風景な空き地には新しい家を建て、和宮さまがお休みどころの窓を開けられるから畑作業への人出は禁止、街道に覆いかぶさるような松は切られ、などなど。

また負の結果もあったそうで板橋宿の縁切り榎を菰で巻いて見えないようにしたけれども更に心配で、違う通り道を作ったとか、木曽路では冷たい雨が降り続いたので、多くの人足が亡くなったとか。

1861(文久元)年10月20日に京都を出発した行列は、板鼻宿へ11月10日に宿泊したのち江戸には11月15日に到着したとあります。宿場を三つくらいに渡るほどの長い行列であったそうで、継立で駆り出された宿や近在の人々も大変なことだと思いますが、駕籠の乗り心地がとても良い物とは思えず、想い人もあったとされる和宮の江戸への降嫁、どんなお気持ちだったのでしょうかしらと、当時をしのぶ資料を撮影しながら想像をしました。
ちなみに脇本陣福田家の跡は街道を行きつ戻りつしてみましたが、どこにも明記はありませんでした。
                               

8、称名寺(しょうみょうじ)
所在地:群馬県安中市板鼻2,212

中山道の北側にもう1本中山道と同じような道があり、お寺が多くあります。その中の一つ称名寺。裏門が板鼻城の陣屋門を移築したものとのこと。特に立て札はありませんでしたが、こじんまりとした黒い門でした。鐘は1708(宝永5)年に製造の銘があり安中市の重要文化財指定がされています。板鼻宿は水流豊かな川(堰)が思わぬ大きな幅で流れています。またひっそりと細い川であったりします。称名寺の近くにも流れています。400年ほど前に開鑿された用水路で、鷹之巣山麓の碓氷川の水を取り入れ鳥川までの延長15kmに達する一級河川です。
             

9、聞名寺(もんみょうじ)
所在地:群馬県安中市板鼻甲2,101

川の流れに添って上って行くと聞名寺があります。鎌倉時代の一遍上人が開いたお寺。笈(おい)が群馬県指定の重要文化財になっています。笈は行脚僧や修験者などが仏像、仏具、経巻、衣類などを入れて背負う道具のことで、箱笈と板笈の2種があります。
箱笈は内部が 上下2段に仕切られ、上段に五仏を安置し、下段に念珠、香合、法具を納めているものですが、聞名寺にあるのは三段に分かれているとのこと。このお寺を開基した一遍上人が持っていたもので、日本に残存する三個のうちの一つ、と説明板に書かれています。

土地の人と立ち話をしましたら、聞名寺の裏山一帯は公園になっていますが板鼻城の東側を守る小丸田出丸と呼ばれた砦であったそうです(同じく出丸である鷹之巣城の反対側ということでしょうか)。江戸時代初期に里見讃岐守義高一万石の陣屋となったというお話でした。概要でも触れましたが、江戸300藩大名総覧の中にある板鼻藩は里見義高(さとみよしたか)系の外様大名で江戸時代前期(1601年〜)の10年間ほど上野の国に存在した藩、と記述されています。ここが板鼻藩の陣屋であったのですね。
        

10、旧てうちん屋
所在地:群馬県安中市板鼻1丁目6

聞名寺から下の道の中山道に下ります。土蔵造りの家があります。てうちんとは提灯のこと。幕末建築の土蔵造りの商売家。火災の際は土蔵の戸を占めて隙間に味噌を塗って密閉したそうです。土壁もはがれて荒れています。花屋さんだったのでしょうか、花の看板も隅のほうに押しやられています。
      

11、鷹之巣神社・渡し場跡
所在地:群馬県安中市板鼻

先を急ぎます。右手に八坂神社の石塔などがあり、双体道祖神もあります。お酒と徳利を持っていますね。仲良さそう!向かい側の駐車場は牛宿跡で岡船と呼ばれる荷役の牛と牛方が宿泊した場所とのこと。
中山道らしい街並みをさらに歩いて行くとまたまた板鼻堰の大きな川に出合いました。澄んだ水です。鯉など探してみましたが見当たりませんでした。前方の右側には崖のような大きな台地が見えています。板鼻城のあった鷹之巣台地です。信号の脇に常夜燈を備えた鷹之巣神社入り口があります。

板鼻城は別名鷹之巣城とも言われていますが、詳細は板鼻城を本城として台地の先に張り出したように築かれた小回りの城が鷹之巣城であったようです。大阪城の南側に築かれた真田丸(城)と同じ意味でしょうか。鷹之巣城の主が鷹之巣神社入り口の碑にある
依田六郎は城主だったとのこと。

見上げるほどの鷹之巣山に続いて行く上に神社があり、現在は道路で寸断状態ですが、ここはその神社の入り口だったのでしょうね。板鼻城を体感すべく登りたかったのですが、今日はもう疲れましたので登って行く気力がありません。この先、渡し場の跡を撮影して、橋を渡ると次の宿である安中宿になりますので、橋を渡る手前右の渡し場跡に行きます。
鷹之巣橋の右手側、砦の下に下っていきます。煉瓦の旧橋脚が残っています。実際の渡し場はこの説明板のある上流100メートルほどのところですが、古煉瓦の旧橋脚脇には説明板があり、増水した川を板の上に乗せられて、裸の人足に渡らせてもらっている婦人の絵があります。ここは九十九川と碓氷川の合流地点に当たり、流れは急で水かさも多く、少しでも増水すると川止めになった場所(冬は仮の橋が架けてはあったそうですが)。川止めで旅人があふれて板鼻宿がにぎわったことになりますが、昔の旅人は命がけでの道中だったのでしょうね。
鷹巣橋を渡ると安中宿です。今回はここで終了します。
                               

12、パンフレット類
長傳寺
寒念橋が描かれている浮世絵
            




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