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群馬県甘楽町 小幡 
Obata,Kanra town,Gunma

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Nov.1, 2014 瀧山幸伸 

     



Apr.2013 瀧山幸伸

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楽山園 
国指定名勝
群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡648−2

楽山園の歴史と概要
楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩邸の庭園です。池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があります。
景石(けいせき)の置かれた池を中心として、「中島」や「築山」を築いて起伏のある地形を造り出し、「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。
借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川(おがわ)をはさんで紅葉山(もみじやま)、南方の連石山(れんせきざん)、熊倉山(くまくらやま)などの山並を借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、庭園美の極みといえます。
さらに、複数の茶屋を配していることから、「織田氏と茶事」との関連も深くうかがうことができ、歴史的・文化的にも高い価値がある庭園です。
楽山園という名前の由来は、「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」という論語の故事から名付けられたと言われています。
”平和の始まり”を意味する「元和(げんな)」元年(1615)に小幡の地を拝領した織田信雄。戦乱の世を駆け抜け、ようやく訪れた天下泰平の世に築いた楽山園には、世の平和と領民の安心を願う気持ちが込められています。
指定年月日   平成12年(2000)3月30日
指定面積     23,437.33平方メートル
開園年月日   平成24年(2012)3月24日  
主な復元建築物
梅の茶屋(平成17年度)、腰掛茶屋(平成17年度)、土橋・土塀・井戸(平成18年度)、拾九間長屋(平成19年度)庭門(平成20年度)、北裏門・管理門(平成21年度)、中門(平成22年度)
(甘楽町)

小幡藩
小田原征伐後、小幡には徳川家康の娘婿・奥平信昌が3万石で入った。慶長6年(1601年)3月、前年の関ヶ原の戦いの戦功により、信昌は美濃加納藩10万石に加増移封され、翌年に1万石で水野忠清が入った。その後の元和元年(1615年)7月23日、織田信長の次男・信雄は大和宇陀藩3万石と上野甘楽郡2万石を与えられた。元和2年(1616年)から翌元和3年(1617年)まで藩主を務めた永井直勝を経て、信雄の四男・信良が小幡藩を立藩する。大和には信雄自身が入り、上野に対しては信良に預けた。信長の孫であるという経緯から、特別に国主格の待遇を与えられた。第2代藩主・信昌のときに検地が行なわれて藩政の基礎が固められた。しかし信昌の治世末期から財政難が始まり、宝暦5年(1755年)の第5代藩主・織田信右の代には収入が6,269両であるのに対して、支出が2倍近くの1万2,844両というとんでもないものであった。第7代藩主・信邦の代である明和4年(1767年)、山県大弐の明和事件に連座して信邦は蟄居処分となり、信邦の後を継いだ養嗣子・信浮は出羽高畠藩へ移された。このとき、国主格の待遇も廃止された。
代わって上野上里見藩より、若年寄の松平忠恒が2万石で入る。奥平松平家の歴代藩主4人は若年寄、寺社奉行、奏者番などを歴任した。しかし藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、寛政11年(1799年)に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果はなかった。藩の借金であるが、天保15年(1844年)には収入に対して借金が10倍近くの7万4,032両にまでなっていたと言われている。幕末期には激動の波に飲み込まれて見るべきところもほとんどなく、明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して藩を維持するのが精一杯であった。翌年の版籍奉還で最後の藩主・忠恕は知藩事となり、明治4年の廃藩置県で小幡藩は廃されて小幡県となり、同年10月には群馬県に編入された。

雄川堰
甘楽町を南北に流れる雄川堰は、古くから住民の生活・農業用水、精米などの多目的に利用されてきた用水路で、日本名水100選に選ばれている。
小幡地区の北に構築された雄川堰(別名「大堰」)は、一級河川雄川より取水し、小幡地区の南3km北の「翁橋」下手に高さ約7mの堰堤であり、雄川の表流水を取水している。
開削の時代は不詳であるが、藩政時代以前に「古雄川堰」が存在していたと推考されている。現存する用水は1865年(慶応元年)、7か月と250人の労力で造られ、長さ6m、幅1mの1枚岩を3枚組み合わせた「吹上の石樋」により水を漏れなく下流へ送れるようになった。
  1615年(元和元年)、織田信長の二男織田信雄に大和国宇陀郡3万石と上野国小幡2万石が与えられ、翌年に信雄の子織田信良が福島に入り、織田氏による小幡藩政が開始された。
  1642年(寛永19年)に小幡陣屋が完成し、3か所に取水口を設け陣屋内の生活用水や庭園に引き込まれ利用されてきた。この移転工事に際し、雄川堰も改修され、現在見られる姿になったと考えられている。
  『甘楽町史』(1979年(昭和54年)
小幡地区の南方より取水し、武家屋敷の東側を北流しながら途中で「外馬場堰」で二手に分水され、横町を迂回して再び大手門前で合流し、町屋地区を貫流して下流の水田地帯の灌漑を担っている。また、楽山園(国の名勝)の池の水源となっている。
特に疏水沿いの桜並木は江戸時代初期より現在まで受け継がれ、石積みの疏水は名水百選や疏水百選に選定されている。
2014年(平成26年)、その歴史的背景が評価され国際かんがい排水委員会によるかんがい施設遺産に登録された。
周囲には屋根に換気口を持つ旧養蚕農家が多数現存する。それらを訪ね歩くのも楽しい。


A camera


B camera





Nov.2012 瀧山幸伸 HD video


養蚕集落の名残

秋畑 那須
Akihata Nasu

轟の養蚕農家




金井


天引


July 2011 瀧山幸伸 HD video




雄川堰




中小路


陣屋、楽山園
JInya,Rakusan en






松浦家





織田宗家墓所



歴史民俗資料館 ( 旧甘楽社小幡組煉瓦倉庫)





Apr..2007 Preview video 500Kbps HD Video Video FAQ



甘楽町小幡
小幡は鎌倉時代から戦国時代にかけて、豪族小幡氏の根拠地として栄えた。
元和2年(1615)織田信長の次男、織田信雄に小幡2万石と大和の宇陀3万石が与えられ、八代152年にわたり織田家が支配した。その後織田氏は明和4年(1767)に出羽に移封となり、松平氏が入封し明治維新を迎えた。

街並 
Townscape

織田家統治の伝統を今に伝える小さな城下町の、農業用水沿いに桜並木。
レトロな街並と借景の山並が桜を引き立てる。



楽山園
Rakusan en







Mar.2004 Preview video 500Kbps HD Video Video FAQ



陣屋跡周辺 武家町の街並

小幡陣屋(城)付近には、高橋家などの武家屋敷と石垣、道路がわずかながら残っている。
中小路と呼ばれる延長700mの道路は、当時から復員が14mあった。
各武家屋敷は広大な敷地を有していた。庭園は百坪以内と決められていた。
近年塀を整備し、城下町の面影を再現している。
楽山園と呼ばれる庭園(史跡)は、江戸初期に織田氏が作ったもの。
京都の桂離宮と同様のものであったといわれている。
現在発掘中で、完了すれば建物の復元も予定されている。



3月末、のどかな草花風景が各所に
ムスカリ ホトケノザ ハナダイコン コブシ




武家屋敷のかぎ曲り (喰い違い郭)
屋敷の内部を隠し、外敵を防ぐための仕組み。




歴史民俗資料館 (旧甘楽社小幡組煉瓦倉庫)
製糸工場甘楽社小幡組の繭倉庫として、大正15年(1926)に建築された。
昭和18年、戦時下に工場が閉鎖されるまで利用していた。
この地区の養蚕産業を代表する建築。



町人の街並

雄川堰は日本の名水百選に選ばれた生活用水。
桜の季節には古い家並みと桜が調和し、大変美しい。




雄川堰の清流に沿って続く町屋の街並は養蚕の名残を持つ大型建物が散見され、美しい。



古風な宿や商店が現存するが、絶滅寸前。



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