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絹の遺産を学ぶ旅


「山の辺の絹道」 〜養蚕集落の街並 群馬県

瀧山幸伸


さまづけに育てられたる蚕かな(一茶)

 群馬の特産品はこんにゃくとお蚕さまの繭、というのは昔の話。こんにゃくこそ天文学的に高い関税に支えられて生き延びているが、繭は海外勢に押されて見る影もない。JA群馬によると、最盛期の1968年には県内11万7千戸の農家の64%が養蚕を営んでいたが、2001年の養蚕農家数はわずか千戸。桑畑が耕作放棄されて藪に戻り、集落も高齢化と無住化で崩壊の危機にある。






 奥関東を巡る「山の辺の絹道」で追憶の街並を愉しむ徒歩旅は、埼玉県の長瀞駅からスタートし、群馬県内の山沿いの谷を行きつ戻りつ、ぐるりと時計回りに足利まで、時間がある時の細切れの訪問で良い。

多野・甘楽の養蚕集落

 近年、秩父鉄道の駅施設の多くが国の登録文化財となったので、交通手段はぜひとも鉄道を利用してみたい。鉄道ファンならずとも長瀞はなじみ深い。いつもは線路東側の荒川に注目するが、今回は反対側の山裾に注目する。近代的な家屋に混じって、かつての養蚕農家がぽつぽつと見えるではないか。峠を越えて本庄市太駄へ。そして峠をもう一つ越えて群馬県に入るが、峠の手前に人目を忍ぶように佇む養蚕集落を見つけることができる。ここで養蚕農家特有の建築様式を理解しておこう。
 群馬県の最初の谷は神流川で、その上流には林業と養蚕で栄えた上野村がある。旧黒澤家住宅は林業で栄えた大庄屋で、養蚕に使われた広い二階があり、養蚕農家の先駆的な実例としても貴重である。今回は上流には進まず、下流の金讃神社に寄り、御神体の鏡岩を持つ御獄山の山頂に立って奥関東の地形を頭に入れよう。秋も深まればこの付近では各地で冬桜と紅葉を同時に楽しむことができる。
 北へ向かい藤岡市に入ると高山社跡への谷だ。高山社跡では、田島弥平旧宅と梁川を知っておかければならない。養蚕は品種改良もさることながら、年に複数回繭を作らせるための温度管理が難しい。国内で本格的に養蚕技術が改良されるのは鎖国以降、特に江戸末期からである。田島弥平は蚕種業を営み、明治初期に清涼育を開発するとともに蚕種をイタリアに直接輸出販売した。一方、福島の梁川では暖房を行う温暖育を開発し、こちらも最先端の養蚕技術を持っていた。明治16年頃、高山長五郎が清涼育と温暖育とを折衷した清温育を生み出した。翌年この地に設立された養蚕教育機関高山社は、その技術を全国及び海外に広め、清温育は全国標準の養蚕法となった。明治24年に建てられた主屋兼蚕室は清温育に最適な構造で、多くの実習生が学んだ。今は鬱蒼とした森となっている川向かいの山は一面の桑畑だったそうだ。高山社跡に隣接する農家のご主人に話を伺うと、全国から集まる実習生の宿泊所として大いに賑わったそうである。高山社は明治34年高山社産業学校を藤岡に設立し、60以上の分教場、1200人の生徒、4万人の社員を有する日本一の養蚕指導組織だった。

高山社跡


 次の鮎川の谷は深く、各所に養蚕集落が潜む。秋には柿の実が映えるのどかな農村風景が美しい。その次の谷は高崎市吉井町。多比良付近の集落は美しいが、東谷の最奥の集落では住民が減り、朽ちて行く養蚕集落の将来を暗示させる。
 戻って山裾の磨崖仏を訪問し甘楽町に入る。甘楽町の小幡は織田の城下町だが、武家町の景観もさることながら雄川堰沿いの街並が秀逸だ。時を忘れたような旅館や廃業したタバコ屋と養蚕農家が堰を挟んで向かい合う。桜並木が満開になる頃にはレトロな街並と借景の山並が調和し、懐かしさに溢れる。今体験しておかなければ消滅する景観だ。旧甘楽社小幡組煉瓦倉庫は、座繰製糸を改良した組合製糸の遺構で、養蚕農家が組織した甘楽社小幡組の繭と生糸を保管した二階建ての倉庫だ。現在は甘楽町歴史民俗資料館 として利用されている。ここでしっかりと養蚕の知識を得よう。カイコは女性視されており、蚕の神は女性神だった。蚕の女神像を覚えておけばその石像を発見することもできる。小幡の谷の上流には秋畑の那須集落がある。この地区は南傾斜で明るく、段畑に調和した集落景観がこのうえなく美しい。
 富岡製糸場を見学した後は、社殿が美しい貫前神社に参拝し、養蚕製糸の繁栄を祈願して奉納された灯篭を見学する。鏑川をさらに上流に進み、下仁田町の境に上野鉄道の鬼ヶ沢橋梁を訪ねよう。上野鉄道は三井による富岡製糸場取得に伴い繭の運搬を目的に敷設された。当初の筆頭株主は三井だが、下仁田地域の養蚕農家が株主の過半を占めていた。下仁田駅では繭を貯蔵していた下仁田倉庫の煉瓦遺構が見られる。下仁田からさらに上流に位置する南牧村は、六車、大日向、砥沢などの養蚕集落と段畑が多く残る秘境で、渓流の美しさにも心奪われる。戻って下仁田から佐久に越える峠の近くに荒船風穴がある。蚕種の温度管理を行うための巨大な貯蔵庫であり、事前に高山社跡を知っておかなければならない。蚕は27度で孵化するが、夏場は風穴の冷風で冷やして孵化を抑制する。七月の蒸し暑い日に現地を訪問すると、風穴から冷風が吹き出し、周囲の高温多湿な空気と混じって発生した濃い霧が激しく斜面を流れて行く幻想的な光景に遭遇した。ここは夏場に天然の冷蔵庫を体験するのがベストだろう。


碓氷の養蚕集落

 下仁田町から安中市の碓氷の谷へは妙義神社を経由する。貫前神社もそうだが、この神社もこの上なく華やかで、絹の栄華を反映している。灯篭も絹関連産業の奉納品である。横川の碓氷峠鉄道遺産にも立ち寄りたい。長野方面から蚕種・繭・生糸の輸送を担った重要な設備だった。旧中山道に沿った郷原の養蚕集落を経由し、旧碓氷社本社に立ち寄ろう。明治38年の建築で、窓ガラスにはフランス製と思われる板ガラスを用いるなど洋風の材料と技術を採用している。碓氷社は伝統的な座繰り製糸農家が、横浜開港以降の需要急増で発生した生糸の品質低下に対処するために結社したものである。各農家が生産する太さが異なる生糸を太さと品質で分類して販売したため、生糸は高い価格で取引された。碓氷社で働く女性は社員の妻や娘など身内ばかりで、だれもが碓氷社で働くことを誇りにしていた。この地盤は終戦後グンサンに引き継がれ、1960年代前半の最盛期には従業員千人、年間1万俵の生糸を生産していた。
 中山道の杉並木を抜けて次に向かうのは後閑と秋間で、大規模な養蚕集落が散在する。この付近は秋間の梅園が満開となる時期に訪問するのが良いだろう。


吾妻の養蚕集落

 秋間から榛名山西側の倉淵を経由して、鄙びた農村風景を満喫しながら吾妻川の谷に入る。道端に数多見つかる道祖神などの石像もほほえましい。ここから吾妻川上流へ、中之条町の赤岩に入る。重要伝統的建造物群保存地区に指定された養蚕集落で、明治中期の出桁造りの養蚕農家十数棟を中心に集落全体が良好な状態で現存しているので、農家、桑畑、お堂など、養蚕集落の文化的景観の構成要素を理解することができる。
 赤岩からは暮坂峠を越え、嵩山を横目に旧富沢家を目指す。 嵩山は地理的にかなり美しい形状の火山で、古代から霊山として信仰を集めていた。旧富沢家住宅は群馬県内に現存する最古級の養蚕農家で、茅葺き、入母屋造りで二階は出梁造り、屋根の正面はかぶと造りと、養蚕に適した造りになっている。

旧富沢家住宅


 
利根、三国街道の養蚕集落

 富沢家から大道峠を越えるとみなかみ町。赤谷川の谷に入り、養蚕集落と旧三国街道の宿場とをセットで見学する。三国街道は中山道の高崎と北陸街道の寺泊を結ぶ街道である。参勤交代では長岡藩など諸大名や佐渡奉行などが利用したが、明治42年に信越本線が開通してからは宿場町が衰微していった。
 まずは最奥の宿場、法師温泉のレトロな雰囲気も味わえる永井宿へ向かう。街道の宿場は、ここから順に、みなかみ町の吹路、猿ヶ京、須川、今宿、布施、下新田、塚原と続く。そして沼田の峡谷を避けて高山村の中山へ抜け、渋川市の横堀、北牧、金井、渋川、高崎市の金古、高崎へと続く。街道に面する宿場の街並は明らかに養蚕集落とは異なる。宿場には水路が流れ、地割は間口が狭く奥行が深い。宿は切妻の妻入りが主流で、出桁作りと手すりが特徴だ。須川宿は「たくみの里」として素晴らしいまちおこしを行っているのでぜひゆっくりと体験してほしい。
 街道から分かれる小さな谷を入ると、ほらほら、あちこちに養蚕集落が恥ずかしそうに顔を出す。須川宿から西に入り、入須川の大影集落を経由して布施の箕輪に向かおう。両方とも養蚕集落の面影を色濃く残すが、特に箕輪は別格で、特異な街並景観を呈している。柱と梁を現した豪壮な建築に往時の繁栄の面影が色濃く残る。各農家の養蚕棟が折り重なるように佇み、土蔵や石仏などが景観にアクセントを与える。戸外でのんびりと時間を過ごす猫にも癒される。猫は蛇とともに蚕の大敵ネズミを退治する招福動物であった。

箕輪集落


渋川市の横堀宿近くの祖母島には茅葺民家と養蚕棟が並立しており、絵になる景観だ。

祖母島の民家


三国街道を渋川で分かれ、赤城山麓の赤城型養蚕農家を見学し、大間々へと山麓を歩けば「山の辺の絹道」の旅もほぼ終える。大間々から先の桐生足利は絹織物の文化を学ぶ街並として別の機会に取り上げたい。


「山の辺の絹道」が繋ぐ未来

 群馬の山村は養蚕が発達する以前から田がほとんど無く、急傾斜の段畑と山仕事で細々と暮らす寒村であった。彼らは養蚕の普及に伴い山林を桑畑に変えた。従来の家では養蚕に適さないため、棟に風抜きを備えた二階三階建ての大型家屋を建築するが、繁忙期には居住部分も蚕に提供するほどであった。それが今では養蚕では生計が成り立たず、少子高齢化にも拍車がかかり、多くの住民が集落を捨てて荒れ果てた建物が目立つ。
 養蚕農家特有の大型で多層の美しい民家群を朽ちるに任せるのはもったいない。立派な家屋と豊かな自然を活かす手立ては無いのだろうか。桐生の織物工場群を壊さずに残し地場産業や文化の育成に活用できたのと同様に、かつての蚕に代わり都会の若者が移住するなどしてコミュニティと経済を活性化することは可能だ。広大な養蚕農家がアトリエや工房になった事例もある。スローライフ、スローフードなどのサステイナブルな理念に基いた新しい産業や文化を起こす基盤にしてはどうか。そのためにもしっかりとその良さを認識する必要があり、まずは学びの旅に出ようではないか。その次には日帰り体験、宿泊体験へと進もうではないか。
 「山の辺の絹道」の旅に出る前に絹の遺産の全体像を学んでおきたい。絹に関連する知識と日本各地の現場を知っておけば、旅が数倍面白くなるだろう。海外では、養蚕発祥の中国、シルクロード、絹が珍重された古代ローマ、ビザンチン経由で技術がもたらされ養蚕や絹織物が栄えたイタリアやフランス、特に富岡製糸場関連では、お雇い外国人ブリューナの出身地リヨン地方を知らなければ、なぜ彼が高額で雇われたのか理解する術もない。当時の欧州で発生した蚕の微粒子病により日本の生糸が脚光を浴びる訳だが、この病原を特定したのはパスツールであり、蚕の品種改良はメンデルの法則の再発見だから、生命科学の知識も必要だ。国内では、日本の絹の歴史を学ぶ必要がある。古くは絹織物が出土した吉野ヶ里遺跡から順に。古事記の蚕の起源神話は、食物の神オオゲツヒメがスサノオノミコトに殺され、死体の頭から蚕が生じたというもので、蚕は五穀の稲、粟、麦、大豆、小豆とともに重要なものだった。魏志倭人伝には、卑弥呼が魏の皇帝に絹織物を献上したとの記述がある。その後、秦氏など渡来人により絹に関連する産業と文化が発展する。万葉集に登場する歌には養蚕や絹に関連するものが少なからずある。だが、日本の生糸は品質が劣り、平清盛が活躍した日宋貿易以降、生糸の主流は中国からの輸入に頼っていた。絹の産業と文化は中世の能と茶の湯、近世の江戸文化で大いに発展する。その後の絹関連産業の発展は眼を見張るものがある。産業技術の先端を走っていた絹関連の技術は、現代ではバイオなど最先端技術として再度注目を集めている。

 富岡製糸場が世界遺産への道を超特急で進んだ。日本の絹関連産業が世界に及ぼした影響は強大で、登録が遅すぎた嫌いもあるが、最近まで片倉工業が所有していたので文化財指定が遅れ、一般人の関心も極めて低かった。本来であれば富岡製糸場とセットで養蚕から絹織物、染め物など絹文化に相互関連するハードとソフトを世界遺産に登録すべきだろうが、そうすると登録要件を満たさないため、当初県内各所で候補に挙がった地はことごとく対象リストから脱落し、わずかに富岡製糸場と田島弥平旧宅、高山社跡荒船風穴のみがリストに残るという、街並も体系も学べないちぐはぐな結果となった。ましてや県外の施設は最初から対象外だった。群馬県では世界遺産に漏れた対象を「ぐんま絹遺産」として観光プロモーションを行っているが、学びの旅として見れば県内だけでは大きな限界を感じる。養蚕部門で見ても、重要な技術を必要とする蚕種は上田蚕種など群馬県外に依存しており群馬県内で完結していないし、製糸、絹織物だけでなく、友禅などの絹染物、越後屋のような流通小売、生糸や蚕種の輸出に関係した横浜、生糸の輸送を目的に開発された横浜線や山手線などもあわせて学ぶ必要があろう。
 「山の辺の絹道」では比較的狭い範囲の地理をじっくりと学ぶ方策をおすすめする。それぞれの集落ごとに特有の地理と歴史と生活がある。今も残る養蚕集落のほとんどは交通不便な山間に立地する。斜面はどの方位を向いているのか、養蚕以前はどのような暮らしをしていたのか、各建物の配置形状と各種の道具類、道路、水場、桑畑、石仏や寺社、そして祭りや行事などに養蚕ゆかりのものがある。朝昼晩、四季折々、じっくりと体験しなければ素晴らしさが理解できないし、人々との交流も生まれない。それらを知るためには徒歩での探訪が必須だ。

道中は長い。絹の遺産ばかりではなく周囲の文化財も探訪でき、道が繋がった時には関東の歴史も深く理解できているはずだ。


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