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群馬県高崎市 新町
Shinmachi,Takasaki city,Gunma

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May,2015 柚原君子

中山道第11宿 「新町宿」

行程
JR高崎線「新町」駅→古戦場跡→常夜灯分岐点→八坂神社→諏訪神社→於菊稲荷→本陣跡→豪農川端家→サイクリングロード→スリーデーマーチ記念碑→旧中山道らしい細道→三菱鉛筆群馬工場→中山道道標→柳瀬橋→クラシエフーズ→新町駅

新町宿概要

新町宿(しんまちしゅく)は、中山道で最も遅く成立した宿です。本庄宿と倉賀野宿の間にある宿で、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて11番目の宿場です。本庄宿と倉賀野宿の間は玉村を経由していたのですが、1651(慶安4)年に落合新町、1653(承応2)年に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられたので、加賀前田家が新道を開拓してルートが変更されて新町宿が1724(享保9)年に設けられました 毎月上の15日を落合新町、下の15日を笛木新町で人馬役を負担していました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、新町宿の宿内家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1437人だったそうです。荒れることで名高い神流川の北岸の宿場でしたから、川止めの際には多くの旅人が滞在して賑わい、旅人や船を出す人足等のために神流川の両岸には、見通し灯篭が建立され、川を使った物流拠点としての新町河岸(※1)もありましたので活発な宿場であったそうです。しかし、現在の新町は全体的にみて宿の面影はあまりなく、本陣も跡を示す白い一本の標が立っているのみです。街道にある国登録文化財の川端家が江戸時代からの造りをとどめていますが、あまりにもきれいになっている白壁に当時の面影はありません。旧中山道にありがちな街道より少し下がったところに建つ商家や造り酒屋などの跡もほとんどありません。宿のほとんどが国道17号の中山道より外れて旧中山道の曲がりくねった道を行きますが、川沿いのサイクリングロードになっている部分もあり、江戸時代旅人が行き交った中山道はところどころ消滅している状態です。
近代の新町には1877(明治10)年、国立屑糸紡績工場(『新町紡績所』→旧内務省勧業寮屑糸紡績所))が開設されています。この中の「旧新町紡績所 5棟」、「工場本館・機関室 附」、「煙突基礎、煙突銘板・ 修繕場・倉庫 ・二階建煉瓦庫附」、「工務室」、「旧男工控室」の五ヶ所が国の重要文化財として指定を受けています。現在クラシエフーズの所有している約2万坪の敷地内に、その重要文化財は存在しています。また1951(昭26)年には警察予備隊が駐屯、後に、陸上自衛隊新町駐屯地となっています。現在も道路から駐屯地内にあるジープなどを見ることができます。2006(平成18)年に高崎市と合併。現在は群馬県高崎市新町となっています。
※1……「新町明治百年史」によると新町川岸は当初は神流川(かんながわ)の右岸にあったそうですが、1848(弘化5)年の大洪水により、玉村町角渕にあった新町河岸側へと移動した結果、「新町河岸」、または「藤ノ木河岸」と両方の名で呼ばれたそうです。米、塩、材木、砥石などがここより江戸に運ばれています。

1、新町駅〜古戦場〜八坂神社

JR高崎線の新町駅を降りて、駅前のライオンの噴水の意味が良くわからないけれど、とにかく、あらかじめリサーチしてあったレンタルサイクルに行きました。今日は行政が無料で自転車を貸してくれるというのででかけたのですが……あらら、その辺に棄てておかれたような(笑)錆びてしまった自転車(笑)。でも歩くよりは効率がいいのでそれに無料ですのでありがたく拝借イタシマス。今日は神流川橋を渡っていよいよ群馬県入りします。橋の群馬県側に高崎の表示が見えてきました。ちょっと遠くに来たものだと、感動。橋を渡り終えると右側に神流川古戦場跡碑があります。
上里町の歴史文化財のページには合戦の様子が書かれていますので、ちょっと要約します。
『神流川合戦は、1586(天承10)年6月18・19日の2度にわたって行われています。初戦は、6月18日巳の刻、深谷・忍衆を含む鉢形城主北条氏邦(3.000人)と上野国衆(8.000人)が戦いました。この初戦では北条氏邦の敗北で終わりました。伝承によれば、この敗北によって金窪城が焼失したと伝えられています。2度目の戦いは、6月19日未明、小田原より到着した北条氏直と滝川一益による総力戦が展開されました。30.000人の北条軍に対して、18.000人程の軍勢であった滝川軍はよく戦い、前半は滝川軍優勢でしたが、北条軍の迂回作戦によって滝川軍は軍を乱し、倉賀野方面へ敗走しました。この乱戦の中で、滝川一益の重臣笹岡平右衛門は、敗走する上野衆を後目に旗本衆とともに北条軍の本陣をめざして進み、討ち死にをとげています。こうして、神流川合戦は、北条軍(武蔵側)勝利のうちに終りを告げました。』(要約)
織田信長が6月2日に本能寺の変で倒れてから、16日目の合戦だったということですね。滝川一益は逃げ伸びることに成功したそうですが、織田信長の後継者を決める清州会議に間に合わず、失脚したとあります。新町宿が設けられた138年前の出来事です。とてもとても遠くまで見渡せる川原です。今では高崎線の線路も国道も車がスピードを上げて行く橋となっていますが、鬨の声が響いたころはどんな景色だったのでしょうか。

道を進むと右側に陸上自衛隊新町駐屯地が見えてきます。かつての合戦場が今では訓練地の一部となっています。この少し先で道は国道17号より外れて旧中山道に入りますがその分岐点に珍しいものが建っています。機能しているかどうかは解りませんが、新町検問所とあります。見張り台も備えていますが、交通違反などではなく積載量の検問なのでしょうかしらね。分岐点には常夜灯があります。荒れる神流川を行き来する旅人を照らした常夜灯です。その前の道標には是より右、碓氷峠11里とあります。群馬県に入ってきた実感がします。ちなみに1815(文化12)年に地元の人々が、神流川の見通し灯籠として宿場入口に建立した本物の常夜灯は諏訪神社に移転されています。ここにあるものは1978(昭和53)年に造られたレプリカです。分岐点を過ぎた先の町は旧中山道なのになんだか新しい町という感じで道路もきれいです。信号の角に赤い鳥居が見えます。八坂神社です。武蔵野国(埼玉県)から上野国(群馬県)に入る玄関口で、疫病の進入と蔓延を防ぎ、諸悪から身を守るために設けられ、このあたりに柳茶屋もあったと絵入りで記してあります。

2、諏訪神社〜於菊稲荷

八坂神社より少し進んで右側にある諏訪神社は、今の新町の旧呼称である笛木村の鎮守として現在のJR新町駅周辺に祀られていましたが、1708(宝永5)年に現在地に移されました。鳥居の前にある左右の常夜灯の銘は文化12年。分岐点にあったレプリカの本物です。
参道にある鳥居は新しいもので、以前のものは神社の後方に地面に半分埋められた形で保存してあります。なんだか目線より下に鳥居があることにギョッとしてしまいます。鳥居は2基あり、1基は1702(元禄2)年の銘があり、もう1基には1731(享保16)年の銘。江戸時代前期の石製鳥居の形態できれいな曲線で、高崎市指定史跡ですが、なんだか乱暴な置き方と思ってしまうのは私だけでしょうか。拝殿の奥にある本殿の彫刻が合戦の模様でしょうか、とてもきれいに彫られているのが塀越しに見えました。
諏訪神社を出て専福寺、浄泉寺を過ぎて個人宅に高札場の碑があるとのことでしたが探せませんでした。白壁の土蔵を持つ家と明治天皇行在所(あんざいしょ)の間を入って於菊稲荷に向かいます。於菊稲荷のいわれは、落合新宿の大黒屋で美人と評判だった飯盛り女(娼婦)尾菊が病にかかりますが、信仰していたお稲荷さんのおかげで病が治り、新町の飯盛り女の信仰者が増加したということです。奉納された赤い鳥居が続きその奥にひっそりと小さめの於菊稲荷の社がありました。新町の絵師によって描かれて遊女が奉納した絵馬二面「武者絵」「遊女参詣」が掲げられています。社殿手前には高崎市指定重要文化財の1823(文政6)年に造られた水屋付き手水鉢があり、寛政の大詩人・大窪詩仏の書による「冰香」が刻まれています。社殿の両脇には狛犬と狐が対に阿吽の形をとっています。神社の狐も意味があります。五穀豊穣を願う神社の神は、宇迦之御魂神(うかのみたま)などで穀物の神の総称ですが、別名を「御饌津神」(みけつのかみ)と言い、狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」(みけつのかみ)とし、狐が稲荷神の使いとされています。油揚げも特に狐の好物ではなく「金色」というキーワードが隠されています。黄金色に輝く稲穂、お稲荷さんというぎっしりとつまったお米、米俵、金色のお金(小判)になる、という意味がこめられています。油揚げは元はお豆腐でその元は豆ですから、マメに働く……と言うところまでの意味があったかどうかは解りませんが、とに角しっかり働いて黄金色に結びつくというものを神様の化身である狐が持っているということですね。
於菊稲荷の狐様は子狐を背中に乗せたり手元に置いたりして愛らしいものでした。

3、本陣跡〜川端家

於菊稲荷を出て旧中山道に戻ります。宝勝寺のとなりに小林甚左衛門本陣があります。建坪135坪の大きな敷地はそのままで、当時の日記や宿帳が残っているそうですが、家屋の趣は現代風に変わっています。行政の白い一本の標柱が本陣であったことを示すのみです。 一方、標柱のある向かい側には、久保五左衛門本陣があったそうです。これも相当な規模であったそうですが1839(天保10)年の火災で焼失したため、規模を縮小して建て直し、幕末の皇女和宮御降嫁の際には御小休所となったと記録にはありますが、現在は何も残っていません。案内板もありません。
街道は温井川を渡った先で二股に分かれる道を右に取って進んで行くのですが、川の上に来たのでサイクリングロードをちょっと行ってみます。眺めの良いこのあたりは北方面に赤城山、榛名山、西方面に妙義山、浅間山が見えると案内板がありました。お天気は良かったのですが連なる山の形がはっきりとはわかりませんでした。ここは「歩け歩け運動」と言われた「日本スリーデーマーチ」発祥の地でもあるそうです。
サイクリングロードを降りて再び街道に戻ります。養蚕農家を象徴する上州櫓の家が畑の奥にありました。代が変わると消えてしまうのかなあ、と思いつつ一枚写真をいただきました。その先右側に登録有形文化財の豪農川端家住宅が見えてきます。まぶしい白い壁が続いています。蔵や住宅・別荘・大門など19棟が並んでいる江戸後期の代表的な建物ですが、居住されていますので中には入れません。ぐるりと一周してきれいな外観を撮りました。のぞけるところから見ると竹やぶに堀のような箇所もありました。庭は現代風にアレンジしてあるようです。

4、中山道道標〜柳瀬〜新町駅に戻る

川端家を通過して廃屋あり、昭和初期のころの建物ありなどを横目で見ながら、関越道の下を潜り抜けて国道178号にある三菱鉛筆群馬工場に出るまでの道が、旧中山道らしく細い路地のような曲がりくねった道、黄金色になった麦畑の道を抜けるなど昔の旅人の気分に浸れるところです。後方にお伊勢の森などもあり寂しくって何も無かった道だったのだろうなぁ、ということも想像できます。三菱鉛筆群馬工場を通過して中山道道標を確認して、右側酒屋さんの道を右折すると、旧中山道と書いた矢印が見えます。印どおり進んで行くと烏川にかかる柳瀬橋に出ます。ここで新町宿は終了。自転車を返すこともあり今来た道を出発点の新町駅に戻ります。帰途、近代の新町を代表する『新町紡績所』(旧内務省勧業寮屑糸紡績所)跡(現在クラシエフーズ……旧カネボウ食品)に五ヶ所の国の重要文化財があるとのことで、寄ってみましたが、なぜか見学はできない(食品会社なのでといわれたような気がしたが)と受付で断られました。正式ルートがいるのかしら?
帰宅後、会社の社史には下記の様に出ていました。
『新町紡績所(旧内務省勧業寮屑糸紡績所)は、1877(明治10)年、群馬県内に富岡製糸工場に次ぐ大規模な官営模範工場として開業します。開所式には、大久保利通・伊藤博文・大隈重信等政府の重鎮が出席したという記録が残っており、工場の稼動に対する期待の大きさがうかがわれます。当時の日本では、生糸の生産時に出る屑糸は安い価格で海外に輸出するだけでしたが、すでにヨーロッパでは屑糸を有効に再利用していました。渡欧視察をした佐々木長淳が技術を習得し、帰国後、富岡製糸場等から出る屑糸等から絹糸(紡績絹糸)を作る旧内務省勧業寮屑糸紡績所(新町紡績所)を建設したことで、上州の地場産業である太織絹織物(銘仙)の材料として供給ができるようになりました。このことは絹産業においての歴史的意義も大きなものでした』
クラシエフーズ新町工場の塀の周囲から赤い煉瓦建物がチラリと見えましたが、塀越しに数枚の写真をいただいて出直すことにしました。新町駅前に古い旅館があり、二階から遊女が手を振るような雰囲気がありましたので、ここでも数枚の写真を撮って、中山道第11番目の「新町宿」を終了しました。





旧内務省勧業寮屑糸紡績所

高崎市新町2330 旧新町紡績所 工場本館 重文 近代/産業・交通・土木 明治 "明治10(1877)明治中期及び後期増築" 木造、建築面積6,572.93u、桟瓦葺 "工務室1棟 煉瓦造、建築面積68.65u、鉄板葺旧男工控室1棟 木造、建築面積190.46u、桟瓦葺、東面廊下附属" 20150708
高崎市新町2330 旧新町紡績所 機関室 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治31(1898) 煉瓦造、建築面積414.21u、一部地下一階、鉄板葺、北面倉庫附属、木造、建築面積70.59u、桟瓦葺 "煙突基礎1基 煉瓦造、直径4.5m、高さ2.5m
煙突銘板1枚 明治31年7月" 20150708
高崎市新町2330 旧新町紡績所 修繕場 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治10(1877)頃 木造、建築面積327.23u、鉄板葺 20150708
高崎市新町2330 旧新町紡績所 倉庫 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治30(1897)頃 煉瓦造、建築面積293.66u、桟瓦葺 20150708
高崎市新町2330 旧新町紡績所 二階家煉瓦庫 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治27(1894) 煉瓦造、建築面積49.17u、二階建、桟瓦葺 20150708

Mar.2008 瀧山幸伸 AVCHD video video FAQ

明治10年の官営絹糸紡績工場がほぼそのままの形で残存する。










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