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広島県呉市 御手洗
Mitarai, Kure city,Hiroshima

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May 14, 2016 野崎順次 movie

地名の起こり
「御手洗(みたらい)」という地名の起こりは、神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗われたという事から、呼ばれるようになったという伝説があります。
もう一点は、901年、菅原道真公が大宰府に左遷されたとき、九州に向う途中で、この地に船を着け、天神山の麓で、口をすすぎ、み手を洗われ、お祈りをしたという伝承が残っています。現在、この麓に天満神社が祀られ、「菅公御手洗いの井戸」として、深い信仰を集めています。お正月の書き初めにこの井戸の若水を使うと文字が上手になるといわれています。

御手洗町並み保存地区(国指定重要伝統的建物物群保存地区)
江戸時代より風待ち、潮待ちの天然の良港とされていた御手洗は人と情報が集まる要衝地として十八世紀に入って急速に発展した。四軒の「茶屋」が置かれ花街として歴史に色を添えた遊女達。夕暮れ時、聞こえる三味の音、無数の宿の灯りなど、海面に映える隆盛の輝きは黄金の島にふさわしい景色だったことでしょう。今は江戸時代の家並みと史跡から伺い知ることが出来ます。
(呉市豊町観光協会ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板

      
コフグ?の群

    
豊町観光協会御手洗休憩所、おにぎり頭坊やと遭遇

        
平野山田家住宅 十九世紀前半らしい
切妻造、平入、本瓦葺

    
今崎家住宅 十九世紀中頃 
切妻造、平入、本瓦葺

   
市文 旧柴屋住宅(菊本家住宅)江戸中期 安永六年(1777)頃 
切妻造、妻入、本瓦葺
町並み保存センターとして各種資料を展示、文化三年(1806)伊能忠敬が宿泊

      
屋内と展示

                               
伊能忠敬測量絵図館

                                 
常盤町とおり、潮待ち館

          
高田家住宅 江戸中期 安永六年(1777)
入母屋造、妻入、本瓦葺

     
天満神社、菅公の井戸、可能門

                      
保存修理中の金子邸、慶応三年、長州藩と広島藩が御手洗条約を結んだ家

   
若胡子屋跡 江戸中期 享保九年(1724)頃
入母屋造、妻入、本瓦葺

                    
奥座敷と庭

      
それから

    
北川家住宅「北喜」江戸後期
切妻造、平入、本瓦葺

   
能地家住宅 切妻、妻入、本瓦葺

   
北川家住宅「北仁」江戸中期
入母屋造、妻入、本瓦葺

         
松浦時計店

     
乙女座 昭和12年(1937)
花道や奈落などの舞台装置や二階の桟敷席も備えられている。昭和30年代まで劇場や映画館として使用された。

                    
越智醫院

    
元薩摩藩船宿 脇屋家住宅「脇屋」江戸後期 文政年間(1818 - 1830)
切妻造、平入、本瓦葺

      
県史跡 七卿落遺跡(竹原屋)、おにぎり頭坊やと再会

              
鞆田家住宅「鞆幸」明治初年頃
寄棟造、妻入、桟瓦葺

          
大東寺と大楠

       
元大洲藩・宇和島藩船宿 旧木村・北川家住宅「若長・ふもとや」 江戸末期 文政年間(1818 ? 1830)
切妻造、平入、本瓦葺

               
寺本家住宅 明治初年頃
入母屋造、平入

  
住吉神社、石の高燈籠、天保3年(1832)に庄屋金子忠左衛門が寄進した灯明台。当初は千砂子波止の先端にあった。

       
石の太鼓橋から参道を進む。

     
県文 本殿

              
千砂子波止、文政十二年(1829)、広島藩が一年かけて築いた防波堤。全長120mで「中国無双」と称された。

             
脇坂屋で煮魚膳を食べた。

      
船宿(旧木村・北川家住宅)の裏のピンクの洋館など。

             
満舟寺、石垣
戦国時代の水軍の城跡で、当時はここが海岸線。

    
満舟寺、誰彼塚

  

境内

     
亀趺墓

    
栗田樗堂の墓

     
再び、水軍の石垣

   
海辺に戻る。疑似洋館が目に付く。

                 

恵美須神社、拝殿と本殿(共に県文)

       

若返りの石(海に何度も捨てても、戻っている石)など

        

御手洗最古の大雁木(物揚げ場)の跡

    

御手洗港の浮き桟橋と周囲

                

参考資料
見たらいい町、御手洗マップ
みたらいMAP その五 石碑と石造物



July 12,2015 瀧山幸伸 movie

下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島へと、橋を利用して訪問

                                                 

御手洗
                                                        
   
若胡子屋跡付近
                                                                                                                                                          

                                                                                                                                                                                                                                                                 
遊女の墓へ
                                                        
帰途
         




Dec.2003 瀧山幸伸 Preview video 500Kbps High Vision


御手洗は、江戸時代以降、北前船など大型廻船の潮待ち風待ちの港町として賑わった、いわば海のインターチェンジ、サービスエリア、それに加えて竜宮城でもあった。
ここ大崎下島は、潮の流れと風向きによって、北東の三原瀬戸、東の宮の窪瀬戸、南東の来島瀬戸を選ぶことができる。
北前船などの長期航海では、待つだけではなく、船のメンテナンスも行っていた。この港で陸に揚げられ、船外に付着したフジツボなどを焼き払い、船足を回復させるのだ。
海運の発達につれて港町として賑わい、四軒の茶屋がおかれる。かつての茶屋、若胡子屋では百人以上の遊女を抱えていたと言われ、当時の活況と彼女らの悲喜こもごもの生活が色濃く想像される。熊本の細川越中守は参勤交代の途上、一夜千金を使ったという。また、おちょろ舟と呼ばれ、沖合に停泊している廻船まで舟を漕いで客を取る独特の風習もあった。
昭和になり、船舶機関の発達に伴い御手洗の役割は終わったが、塩飽諸島の笠島と同様、新しい産業への転換から遠かったため、古い街並がそのまま残った。
江戸後期から昭和初期の建物が数多く残り、平成6年(1994)重要伝統的建造物群保存地区に選定された。小さな町に、港、商家、住宅、歓楽、宗教など、多くの施設が残る。かつての竜宮城の歌舞音曲は消えたが、胡子神社に寄せるさざ波の音が心地よい。このような所にはぜひとも宿泊滞在したい。
 

   



三原から高速船で
     
大長港着
  
御手洗

   
   

         

若胡屋(わかえびすや) おちょろ船の悲しい歴史
      
  
       
序もとの人に歴史を伺う
   
大長へ
  
 
大長

  
三原へ出発
 

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