JAPAN-GEOGRAPHIC.TV


兵庫県赤穂市 坂越
Sakoshi,Ako city,Hyogo

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water    
 Flower
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 
 

Feb.19,2017 瀧山幸伸 movie

坂越(さこし)は兵庫県赤穂市東部の坂越湾に面する港町。 都市景観大賞(都市景観100選)にも選ばれた伝統的建造物群による古い町並みと、秦河勝聖域の島、生島(国の天然記念物、瀬戸内海国立公園、ひょうごの森百選)を包むように広がる坂越湾の美しい眺望で知られる。 坂越は四季折々の貴重な行事や祭礼、それに伝わる伝統芸能[2]も数多く保存伝承[3] されており、中でも大避神社の祭礼「坂越の船祭り」は、瀬戸内海三大船祭りの一つで、国の重要無形民俗文化財に指定されている。播州赤穂産「坂越のかき」ブランドとしての牡蠣の養殖生産地としても有名。
歴史
播磨灘に位置する天然の良港坂越浦に、渡来人であった秦氏や、数々の南北朝時代の伝説が残る古くから開けた港町である。 地元に残る旅人の伝承記録を見ると、坂越が瀬戸内往来の重要な中継地として長くあった事が窺える。901年(延喜元年)、都から九州の大宰府へ下る途中であった菅原道真や、1565年(永禄7年)、長崎・平戸から京都に向かう途中のイエズス会宣教師ルイス・フロイス、1587年(天正15年)、九州遠征中の豊臣秀吉を見舞った細川幽斎も、その帰途に坂越に足跡を残している。 17世紀に入ると、瀬戸内海有数の廻船業(西廻り航路)の拠点として発展[4]し、その後半には奥藤、大西、岩崎、渋谷家などの豪商が廻船業を営み、坂越浦には西回り航路用の大型廻船31艘、内海航路用の小型廻船15艘余りが犇いていたという。また、西国大名の参勤交代の港としても使われていた。この頃の坂越港には、数回にわたってオランダ船の入港記録もあり、1787年(天明7年)には、蘭学者でもあった司馬江漢が坂越に立ち寄っているのが興味深い(『江漢西遊日記』)。18世紀以降、北前船が停泊する日本海諸港の台頭によって内海の港町の多くが衰退するなかで、坂越は「赤穂の塩」を運ぶ拠点として明治時代まで栄えた。坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで続く「大道(だいどう)」と呼ばれる通りの風格ある町並みは、往時の坂越を今に伝えている。
坂越と景教
坂越にある大避神社には、渡来人であった秦河勝が祀られており、その一族はネストリウス派キリスト教徒の末裔であったという。 日本のキリスト教の研究者によると、日本で最も古くイースターを礼拝したのは、ネストリアンと呼ばれていた景教を崇拝する人々であり、西暦544年(欽明5年)頃には、坂越に教会を築き、すでにイースターを祝っていたという。驚くことに、日本初となる孤児院(秘伝院)も坂越にあったと推測している。事実であれば、ローマカトリックの宣教師であった聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する1,000年前に景教は坂越に伝来していた事になる。
道真伝説
坂越には菅原道真を由来とする地名が多く残る。 901年(延喜元年)、九州の太宰府に左遷される途中に道真は、潮まちのため、坂越に小船をつけて立ち寄る(大泊・御泊(おおとまり))。 歓迎の村人で大騒ぎになる坂越の様子に驚いた道真であったが、思わぬ歓待に心をよくし、暫く坂越に逗留することになる(洞龍(とうりゅう)。) 道真は浜の岩(天神岩)に腰をおろし、集まった人々に、讃岐国の国司をしていた時に見た塩造りの話や、京の都話などをして坂越の人と親しくなっていった。 道真公が去った後、人々は、天神山(北之町)の北野天満宮(現在は大避神社境内に移設)に道真公を祀った。 有名な『こち吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』は、ここでは、道真公が坂越を離れる時に、坂越の山に咲く梅の花を眺めながら、京を思いつつ、詠んだ歌であるとされている。
(wikipedia)

展望広場と生島の展望
          

海沿い
       

旧坂越浦会所
                                                           

大道
                                                                           

坂利太(サリータ)
イタリアナポリの名物スイーツ「アラゴスタ」の専門店。アラゴスタは伊勢海老の尻尾という意味。
             

                                  
坂上から展望広場へ
              

妙見寺観音堂
                 

     

   

児島高徳の墓と展望台
              


Dec.10,2016 中山辰夫

坂越の家と海の散策

赤穂と坂越を散策するにあたり、赤穂でレンタサイクルを入手し、坂越へ向かった。
赤穂大橋近辺での千種川
    

散策範囲 海の「しおさい市場」から町中へ戻る。
 

冬場の赤穂は定評のある「牡蠣」
坂越港は奥深い入江を持つ天然の良港とされ、中世以降に海運業が栄えた。
坂越湾は背後に迫る山に加えて名水百選の清流千種川の滋養が流れ込むため、牡蠣の生育に適していておいしく大きく育つ。

海の「しおさい市場」
漁港で水揚げされた牡蠣や魚の直販と海鮮料理が人気の港の中にある市場。
    
漁船で沖に出て刺し網漁、魚のつかみ取り、牡蠣剥き、食べ放題など、季節に応じた体験が用意されている。目の前に漁港があり、瀬戸の島々がよく見えて、日本の良き風景がひろがる。地元特産の牡蠣をはじめ、近海の魚介や牡蠣を焼いて食べられる牡蠣小屋も併設している。瀬戸内海鮮直売(魚稚)もある。
      
訪問が土曜日であったので人が多く、期待していた「焼き牡蠣」にあり付けず、カキフライでお茶を濁した。

生島(いきしま) 原生樹林 国指定天然記念物 泰 河勝の墓所がある。古来より天然の良港とされた。近世は赤穂塩の積み出し港でもあった。
     
坂越湾内に浮かぶ周囲僅か1.63qの小島。古来より雄大避神社の神地として人が入ることを禁じてきたことから原始の状態を保っている。
樹種は大部分が常緑樹で、特徴は蔓生植物が繁茂していること。わが国の植物分布の温帯林の限界となる上からも貴重な樹林である。
    
この島には大避神社の御旅所がある。毎年10月に行われるこの神社の船祭りは、この御旅所への神輿の渡御が中心的神事。
それぞれの役目に応じた和船(うち6隻と船倉が県文化財)が用いられる。(画像は引用 観光協会、ほか)
  

海岸通り
高潮や高波対策に、通り面より石段を摘んで1mほど高い位置に宅地を造成しているのが特徴である。
海岸線には綺麗に整備された遊歩道が平成16年に完成、約890mの人工海岸も広い。
        

海岸から県道を渡り「大道 だいどう」へ向かう。いよいよ街中である。
 
坂越は、千種川と坂越浦とをつなぐ「大道を主軸に展開している」ことが特徴。また大道は、千種川の高瀬舟ネットワークと瀬戸内海の大型廻船ネットワークとを結び付け、坂越を一大流通拠点とし、繁栄をもたらした。その成果を訪ねる。

大避神社(おおさけ)
             
祭神は泰氏の祖・秦河勝 天照皇大神 春日大神 坂越湾を見下ろす山腹にある。聖徳太子四天王の一人であった河勝が、太子の死後蘇我氏に追われて644年にこの地に至り、大避神社を建てた。秦氏は坂越を拠点に千種川域の開発を行った。
この神社には「12」という数字が絡んでおり、境内に実る「ひょんの実」とともにミステリアスなスポットが多くある。
祭礼「坂越の船祭り」は、国の選択無形文化財にもなっている。 絵馬堂に40余りの絵馬があり、中に舟絵馬と しては最も古い280年前の貴重なものもある。

妙見寺観音堂周辺
大避神社の裏山(宝珠山・茶臼山)の中腹に建つ。元は大避神社の神宮寺であった。
小学校跡展望広場 景色良好
    

観音堂
          
お堂の屋根は4枚の三角形が組み合わされていて、ピラミッドと同方向を向いているとか原始キリスト教の造形の諸説がある。蟇股に飾られた12支の彫刻ごしに見る生島が美しい。帰路の途中に、南北朝内乱期に新田義貞と共に足利尊氏と戦った南朝の中心・児島高徳の墓地があり、船岡園に至る。
鮒岡園は1914(大正3)年に高徳の550忌を記念して開設された。

旧坂越浦会所
                
坂越のまち並みを貫通する大道と坂越湾とがぶつかるところにある。この建物は1832(天保3)年に建てられた。解体復元工事が行われ一般公開された。
赤穂藩の茶屋として、藩主が祭礼見物や遊興にたびたび立ち寄ったようで、2階に観海楼と云う御成之間がある。部屋からの海側の眺望は最高!

奥藤家・奥藤郷土館
     
慶長年間(1596〜1615)から400余年続く造り酒屋。大名の本陣に使われた格式の高い家屋で、約300年前の建築。黒い羽目板に白塗込窓が目を惹く。
当家の酒蔵が並ぶ当りが坂越で一番まち並みが美しいところ。
       
酒蔵の一角にある郷土館では奥藤家に残る昔の酒造道具や廻船業の資料、当時の生活用具類が展示されている。
 
展示物の一つ。昔日の坂越の繁盛ぶりが分かる。

光明山妙道寺
        
1532年に善祐門徒学西の開基とされる浄土真宗本願寺派のお寺。本堂(1734年)、山門は後に再建され、鼓楼や鐘楼も同時期に建立された。
本尊の阿弥陀仏は、1632年に高砂沖で、奥藤又次郎と云う人の網にかかった木造の像といわれる。

坂越まちなみ館
        
旧奥藤銀行を修景整備したもので、坂越のまち並み景観創造のための拠点。観光案内所も兼ねている。
大正末期に奥藤銀行から始まり、兵和銀行、神戸銀行、赤佐信用金庫、はりま信用金庫の支店として、使用されたとのこと。当時の大金庫が残る。

画像は重複するが、旧坂越裏会所から大道を散策しながら木戸門跡へ進む。

大道のまち並み
                          
木戸門跡から海までの旧街道沿いに連なるこの地区は、往時の面影を最もよく残している。
入母屋の大屋根の造り酒屋や、酒造の白壁、厨子二階建ての町屋、寺院の門などが並び、連続した中に変化に富む通りを形成している。

木戸門跡
      
廻船業で栄えていた頃、町を守るために朝開き、夕べは閉じる門番がいた。
木戸門跡付近は坂越三叉路になっている



May 2012 野崎順次 HD video


坂越の町と海
(Sakoshi, Ako City, Hyogo Pref.)

撮影日: 2012年5月12日

坂越のまちは、波静かな瀬戸内の坂越浦に浮かぶ原生林「生島」や、緑豊かな周囲の山々、清流を誇る千種川など優れた自然に恵まれ、また、港町の面影をしのばせる風情ある古いまち並みが今なお残っている。近世に形成された瀬戸内海沿岸の多くのまちが海岸沿いに展開しているのに対して、坂越は、千種川と坂越浦とをつなぐ「大道(だいどう)」を主軸に展開していることに著しい特徴がある。「大道」は千種川の高瀬舟ネットワークと瀬戸内海の大型廻船ネットワークとを結びつけ、坂越を一大流通拠点としていたのである。

また、大和王権で活躍した渡来人秦河勝が没したのはここ坂越といわれる。一説には流罪に遭ったためという。坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。

パンフレットとJR坂越駅前の説明板

     

千種川に向かい、旧坂越橋を渡る。

                    

坂越の町に入る。

             

木戸門跡
現在の高谷駐在所前にあたり、その礎石2個が今も駐在所の敷地に残っている。いつ頃設置され、いつ撤去されたかは不明だが、坂越浦の治安維持のため設置され、番人を配して罪人が出たときは門を閉じて検問を強化し、夜間には閉じて通行を遮断したという。

    

喫茶店「暖木(のんき)」、おいしいコーヒーを飲んで、大きな荷物を預かってもらった。サラダ付きカレーもおいしそう。店内ではお洒落な小物を販売している。

          

坂越の町並みの主要部「大道(だいどう)」が始まる。

          

坂越まち並み館(旧奧藤銀行)
大正時代に奥藤銀行坂越支店として建設された木造の建屋で、坂越の町並みの保全・創造のシンボルの一つとなっている。館の外観は昔の風情を残す方向で壁や屋根などに補修整備がなされており、館内1階では坂越の名所・旧跡、特産品に関する資料が展示されているほか、かつて銀行であったことを示す古いアメリカ製の大金庫が置かれている。

                      

妙道寺
1532年に開基された浄土真宗のお寺。坂越の廻船の港として栄えた時代の建立。坂越で始めての寺子屋は此処で開かれた。

         

大道が続く。

        

奧藤家・奧藤酒造郷土館
酒倉は寛文年間(1661−1673年)の建築で、高さ2mにおよぶ石垣による半地下式の構造が今も保存されている。西国大名の本陣にあてられた家屋は、築後300年といわれ、複雑な平面形をもつ大規模な入母屋造りの建物である。郷土館は酒造・廻船・漁業関係の資料が展示されている。

                                                         

さらに大道を歩く。

                          

市文 旧坂越浦会所
天保2〜3年(1831-1832)にかけて建築され、明治までは坂越浦の会所として使用された。赤穂藩主も来浦の際は休憩所として使用した。平成5〜66年(1993-1994)に解体復元され、一般公開されている。この建物は藩の茶屋的機能を合わせもった大規模で希少な会所建築であるばかりでなく、その建築年代が明らかな上、豊富に残された会所日記から当時の村落運営なども知ることができる点において貴重な意義を持つ。

                               

国天然記念物 生島
坂越浦に浮かぶ周囲1.63kmの小島だが、古来大避神社の神地として樹林の伐採を禁じられて来たため、原始の状態をよく保っている。樹種は大部分が常緑樹で、そのなかに落葉樹や草木が混生し、特に蔓生植物が繁茂している点が特徴である。当地方の原始景観やわが国の植物分布における温帯林の限界をみるうえからも貴重な樹林である。また、島の奥にはこの地で没した秦河勝の墓がある。

                     

祭礼のための御旅所と船倉
享保4年(1719年)に再建されたもので、御旅所は内陣一間半四方、外陣3間四方、立3間の規模を持つ瓦葺きの仏教様式の建物である。

     

ふるさと海岸と坂越浦
安全で潤いのある海岸の創出とまち並みとの調和をテーマに整備された海岸で、東側にふれあいゾーン、西側にやすらぎゾーンがある。この日は忠臣蔵KAZI杯ヨットレースが開催されていた。

                                   

北の山麓の大避神社に向かう。

    

大避神社(おおさけじんじゃ)
祭神は秦河勝・天照皇大神・春日大神。神社の創立時期は明らかではないが、播磨国総社縁起によると養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列せられ、当時すでに有力な神社であった。秋に行われる祭礼、坂越の船祭りは平成4年(1992年)2月25日に国の選択無形文化財となっている。現在の本殿は明和6年(1769年)、拝殿と神門は延享3年(1746年)に再建されたものである。

                         

拝殿両脇の絵馬堂には40余りの絵馬が揚げられており、中でも享保7年(1722年)の船絵馬は最も古い船絵馬として貴重なものである。秦河勝の子孫と云われる東儀家や岡家が奉納した絵馬がみられる。

        

県民文 祭礼用和船 樂船

     

本殿から再び神門へ

        

帰途、新しい方の坂越橋で千種川を越え、JR坂越駅へ

                   

参考資料
坂越のまち並みを創る会HP
現地説明板




All rights reserved 無断転用禁止 通信員募集中