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兵庫県朝来市 生野、明延 銀山遺跡

Ikuno Akenobe silver mine heritage, Asago city,Hyogo

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朝来市佐嚢字水田1637-7 神子畑鋳鉄橋 重文 近代/産業・交通・土木 明治 "明治16-18(1883-1885)" 鉄製、単径間アーチ橋、手摺付 19770627


November 13,2016 大野木康夫 source movie

神子畑鋳鉄橋

宍粟市から丹波市の高源寺に向かう途中で立ち寄りました。

                                    


May 3 & 10, 2015 野崎順次 source movie source movie

兵庫県朝来市

生野町口銀谷

(Old Houses etc. in Kuchiganaya, Ikunocho, Asago City, Hyogo Pref.)

JR播但線沿線の文化財を調べていたら、朝来市(あさごし)生野町口銀谷(くちがなや)に8件の国登録有形文化財の建物がある。最寄りの駅は生野で、かつての生野銀山の町だと分かった。5月3日(曇りのち雨)に福知山から和田山経由で行ったが、不覚にも撮り残しがあったので、1週間後の5月10日(晴天)に姫路、寺前乗換で再訪した。

以下、ウィキペディア「生野町」より引用する。

町の発展を支えてきた生野銀山の開坑は、807年(大同2年)とも伝えられ、江戸幕府はこの地に代官を置いた。1863年(文久3年)、大和の天誅組に呼応して尊皇攘夷派の平野国臣らがここに兵をあげたが、失敗に終わった(生野の変)。1889年(明治22年)に皇室財産となった後、1896年(明治29年)に三菱が払い下げを受けた。昭和48年(1973年)に資源の枯渇等により閉山したが、全国各地の文化の流入を受け、生野銀山独特の町並みを形成した。現在でも昔懐かしい風景が数多く残っている。

(ウィキペディア「生野町」より)

5月3日のアプローチ、曇りの日、JR和田山から生野

               

5月10日のアプローチ、晴天の日、JR播但線寺前乗換で生野

                       

パンフレットと生野駅説明板

            

国登録 旧日下旅館 明治42年(1909)、大正10年(1921)木造3階に増築

生野駅東口前にある。

          

東へ鍛冶屋町通りまで

       

国登録 綾部家住宅 明治

平屋の安定した外観に車寄せ(大阪出格子)の縦の線が美しい。

           

鍛冶屋町通りを北へ。廃墟に近い洋館とか町家などが残る。

明治9年に生野から飾磨(しかま)港まで49㎞の馬車道(銀の馬車道)が開通したが、鍛冶屋町通りはその一部だった。

                 

藤田邸 明治後期

生野の町家の特長を現す。

    

国登録 旧梅崎医院 明治20年頃

外部はフランス人屋敷の模倣が見られ、内部は和風で和洋折衷様式。明治時代の生野鉱山ではけが人も多く、フランス人医師の意見も取り入れながら治療に当たったとあるので、フランスの影響が大きかったようだ。

       

国登録 松本家住宅(旧松一醤油店)明治初期 大正期増築

母屋は二階の塗籠めた壁から重厚な印象を受ける。増築部は軒蛇腹が印象的。

               

鍛冶屋町通り北端と宮町通り西端

      

トロッコ道

大正9年(1920)市川沿いに鉱石輸送のため建設。現在は一部のみ残される。岩の間をつなぐ石垣のアーチが近代土木技術を伝える。

               

国登録 旧吉川家住宅(生野まちづくり工房井筒屋)、母屋は天保三年(1832)。

江戸時代、生野銀山町では旅人の宿泊が禁止されており、工事人の宿をして6軒の郷宿があり、井筒屋はその一つ。

                     

浅田邸(口銀谷・鉱山町ミュージアムセンター)

浅田氏は江戸時代から代々続いた地役人で、明治時代には生野の近代化に活躍。昭和初期の和風建築と大正期のタイル張り洋館である。

現在は旧吉川家住宅とともにミュージアムとして再生。

                    

SUMCO生野クラブ 明治19年(1886)

元々大山師の邸宅であったものを三菱が保養施設・迎賓館として使用。

      

旧生野鉱山職員宿舎から北に少し歩くと寺町通りが西に延びている。全国から労働者が集まったこと、また代官の交代などでさまざまな宗派のお寺が必要だった。

臨済宗妙心寺派 禅操寺

   

真宗大谷派 教徳寺、石段横や塀にカラミ石を使用。カラミとは精錬の時の廃棄物。それをブロック状に固めたものをカラミ石と呼ぶ。明治中期に多く製造され建築資材に利用された。

      

浄土真宗本願寺派 金蔵寺

     

県文 銅鐘 文永四年(1267) 

           

浄土宗西山禅林寺派 西福寺

   

浄土宗知恩院派 東西寺

    

徳川家康尊像と歴代将軍位牌

          

浄土宗西山禅林寺派 来迎寺

           

芭蕉翁蓑塚

      

国登録 今井家住宅 明治中期

大山師邸宅の別邸

          

但陽会館

   

市文 旧生野警察署(現一区公民館)明治19年(1886)

地元の大工が異人館をまねて建てた擬洋風建築

       

小日向通りを東へ戻る。

   

国登録 桑田家住宅 江戸後期

旧地役人邸宅。

               

国登録 佐藤家住宅別邸 江戸

郷宿と掛屋を兼務した重厚な土蔵造り

      

国道429号を西へ、生野代官所跡と生野義挙碑

文久三年(1863)勤王の志士と但馬の農民が生野代官所を占拠したが、わずか三日で敗陣した。

      

生野書院

材木商の邸宅を改修した郷土史料館

              

一里塚跡

    

駅へ戻る。踏切を渡り、西口に行くと、「日本大学創立者山田顕義終焉の地」との石碑があった。

     

参考資料

口銀谷景観地区駅からまち歩きMAP

但馬の百科事典ウェブサイト


May 3 & 10, 2015 野崎順次 source movie source movie

兵庫県朝来市生野町口銀谷697−1

旧生野鉱山職員宿舎

(Former Ikuno Mine Staff Quarters, Asago City, Hyogo Pref.)

正式名称は、朝来市旧生野鉱山職員宿舎・志村喬記念館

生野口銀谷地域に現存する通称「甲社宅」と呼ばれる鉱山職員の官舎(社宅)。明治9年に建設され、ピーク時には18棟が軒を連ねていましたが、現存しているのは6棟のみ。この度4棟(甲7・8・9・19号)が修復・復元され、生野鉱山の歴史文化を紹介する施設「旧生野鉱山職員宿舎」として生まれ変わりました。

 甲8号が明治時代、甲7号が大正時代、甲9号が昭和初期を想定して復元。風呂場や便所、台所がそれぞれの時代を映し出しています。甲7号は生野出身の俳優、志村喬さんの記念館となっており、さまざまな資料を展示しています。

(朝来市ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板

           

宿舎の遠望

      

管理棟(甲20号棟)

  

市重文 甲7号棟 明治9年築 大正時代に復元 志村喬記念館

          

志村喬関係パンフレットと現地説明板

     

市重文 甲8号棟 明治9年築 明治初期に復元

                   

内部展示

       

市重文 甲9号棟 明治9年築 昭和中期に復元

                         

市重文 甲19号棟 明治29年頃築 明治後期に復元

               

内部展示

         

その他、志村喬生誕地、カラミ石、生野瓦

          


Apr.2015 中山辰夫

史跡・生野銀山

兵庫県朝来市生野町小野33−5

生野銀山は最近過熱気味の「竹田城」が所在する朝来市にある。

  

  

生野町

生野町は、総面積112.01平方kmで、生野銀山とともに発展し、1989(平成元)年には町政100周年を迎えている。

JR生野駅は姫路駅から約1時間20分、最近人気沸騰の『竹田城』玄関口・JR竹田駅は三つ先である。

生野は、要衝の地に有りながら、町の中央を流れる市川の度重なる氾濫や、鉱毒の為に田畑を耕しても育たず民家も少なかったので、あまり人の住めるところでは無かった様で、「死野」とも呼ばれていたようである。「播磨国風土記」には、垂仁天皇が「死野」から「生野」にするよう言ったと言う話も伝わる。

生野に鉱山がなければ人は住まなかっただろうとさえいわれ、鉱山とともに栄えた町である。

生野銀山は戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山、明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために、最初に官営(直轄)とした鉱山である。

生野の銀山及び鉱山町は、近代化産業認定・日本の地質百選・国の重要文化的景観選定を受けている。

生野銀山は平安時代初期の807(大同2)年の開坑と伝えられるが、詳細は不明。

1542(天文11)年、但馬国守護大名・山名祐豊が石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始めた。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は直轄地とし、佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源とした。

明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエが着任し、軌道や捲揚機の新設など数々の先進的施策により、目覚ましい近代化を成し遂げた。1889(明治22)年には宮内省御料局の所管へ移され皇室財産に、次いで1896(明治29)年に三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼行したが、1973(昭和48)年に閉山した。

その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さ880mの深部にまで達した。採掘した鉱石の種類は70種類以上であった。

   

JR最寄駅−生野駅

     

生野駅は珍しい右側通行である。駅の北側が急勾配であるため、明治時代の蒸気機関車がよけて曲がれず、直進のまま停車させたことによる。

駅前には、国登録文化財の「旧日下旅館」がある。銀山は、駅から4㎞程先である。

市川沿いの道を歩く。生野郵便局、朝来市生野庁舎、三菱金属の旧社宅、生野クラブ、生野発電所、本来寺、新町郵便局、奥銀谷小学校、小野口番所跡などを通って、1時間ほどで、銀山施設の入口に着く。

銀山から流れる大谷川沿いの道路脇には小野口代官所跡の案内や生野鉱山三菱100周年碑(牛尾啓三石彫作)が並ぶ。大谷側は市川と合流する。

    

生野銀山に着く。入口前の「一円電車」が目を惹く

    

乗車料金が1円なので「一円電車」の名前で親しまれた。正式名称は明神電車である。

1945(昭和20)年に、鉱山従業員の通勤用として運行を開始。1987(昭和62)年明延鉱山の閉山によって廃止された。

客車には、「くろがね」「白金」「赤金」などの名前がつけられ、明延鉱山から神子畑選鉱場までの約6kmの区間を運行していた。

2007 (平成19)年11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「明神電車と蓄電池機関車」が選定されている。

生野銀山正門門柱

       

1876(明治9)年正門として設置された。

案内図

    

代官所門と銀山付帯施設

          

生野銀山文化ミュ−ジアム(生野鉱物館)−生野銀山の歴史と文化、鉱山の科学などをテーマ—とした展示や生野で産出した鉱山標本など展示

鉱山資料館−生野銀山の歴史と文化、鉱山の科学などをテーマ—とした展示や生野で産出した鉱山標本など展示

吹屋資料館−11体の電動人形により各工程の作業を再現している。

構内散策

ひかげつつじ(写真 引用—観光協会)

駐車場から坑道にかけての約500メートルの斜面はヒカゲツツジの群生地で、数千本が薄黄色の可憐な花を咲かせる。4月上旬〜下旬

   

山神宮分社と見石、見石台車

   

江戸時代、山神宮の祭礼に山師たちは見事な鉱石の引き出物を沿道に人々に見せながら賑やかに奉納した。

金香瀬坑口付近

   

フランソワ・コアニエによるフランス式の石組で築造されたアーチ型の坑口にも開鉱当時の面影が残る。

■金香瀬旧露頭群跡のコース

坑道入口の階段を上り、生野代官金香瀬番所をくぐり抜けると、江戸時代の露天堀跡が見られる。

露頭は鉱脈が地表に表れた部分で、昔はこれを探し当てた後に地中へ掘り進んだ。

     

露頭群

                 

露天掘り跡の「ひ」は鉱脈、「慶寿」は灰吹法を伝えた渡来人の名に由来する。

■金香瀬坑口の入口

開鉱当時の面影を残すとされる。フランスの技師によってつくられた大型の坑口。現在は石組の観光坑道となっており、鉱山の採掘の歴史がたどれる。

    

坑内の様子を列挙する。坑道内は十分に整備され、全く危険なく巡回できる。

                                             

■■生野の町は今も銀山とかかわりが多い。それが銀山の歴史を後世に伝える役目にプラスしている。

■トロッコ道−旧鉱石輸送路

現在の生野の町の主要通りである鍛冶屋町通りから市川沿いに向かうとすぐに出会う。僅かな距離である。

 

生野町口吟谷地内

金香瀬から採鉱した鉱石を輸送した「鉱石の道」。市川沿いの石積が美しい。岩の間をつなぐ石垣のアーチが特徴である。

大正時代には鉄道軌道が敷かれ、電気機関車がトロッコを引いて走っていた。

        

■生野鉱山寮馬車道(いくの こうざんりょう ばしゃみち) 「銀の馬車道」

生野鉱山寮馬車道は、明治時代前半に兵庫県にあった官設の馬車道。別称は生野鉱山道、近年は銀の馬車道ともいい、経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。

生野銀山と姫路港の間約49kmを結ぶ鉱山関連物資の輸送道路として、旧但馬街道(生野街道)を工部省鉱山寮が整備したもの。

    

1875年(明治6)年に着工、1878年(明治9)年に竣工した。路幅は6m以上が確保され、馬車などの車両がすれ違える幅員で、日本初の高速道路とされる。

明延鉱山、神子畑鉱山、生野鉱山の3鉱山を繋ぎ、鉱石や人、文化が運ばれた「鉱石の道」である。

 

1895年(明治28年)に播但鉄道(現在のJR播但線)が飾磨−生野間で開通したため、物資輸送の主力は鉄道に取って代わられた。

馬車道としては1921(大正9)年に廃止となったが、その後も道路として利用された。現在でも国道312号などの一部に当時の面影を残している。

現在の312号線、416号線

  

坑道に刻む産業遺産、寺町・官舎跡などの繁栄の名残を抱え込む、魅力溢れる生野町の散策の報告は次の機会とし、今回は省略する。

参考資料≪各種パンフレット、鉱石道推進協議会HP、他≫


2011.6.5 撮影:大野木康夫 source movie

生野、明延 銀山遺跡

神子畑鋳鉄橋(重要文化財)

所在地 兵庫県朝来市佐嚢字水田1637-7

建造年代 明治16-18(1883-1885)年

構造等 鉄製、単径間アーチ橋、手摺付

鉱石運搬路に設けられた橋で、鋳鉄製、長さ16.0m、単径間アーチ(上路型)の形式になる全鋳鉄製という珍しい遺例で、形態意匠も優れている。

日本近代橋梁史を飾る貴重なもの。

(国指定文化財等データベースより)

神子畑川の水が少なかったので、歩いて下をくぐることができました。

                    


Apr.2010 瀧山幸伸 source movie

神子畑鋳鉄橋

                

       

神子畑

                                           

                       

羽淵鋳鉄橋

         

        

一円電車

     


事務局用

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