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兵庫県加古川市 多木化学と多木浜洋館「同比閣」
Takikagaku and Takihamayoukan,Kakogawa city,Hyogo

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Feb.9,2016 中山辰夫

多木化学竃{社事務所

加古川市別府緑町2番地

山陽電車別府駅から播磨灘方面を目指して真直ぐの道路を約10分歩くと多木化学の本社事務所に出会う。
創業以来の本拠地で、黒塗りの木造洋館が目を惹く。

昔懐かしいホーロー製の看板と商標の「神代鍬」− 多木化学のものである。
 

構造:寄棟造 木造2階建 前面黒塗りの焼杉を使った下見板貼 竣工:1915(大正4)年 多木浜洋館の着工と同時期である。
                

玄関
    
洋風建築である。

前庭
    
石臼の碑は、1883(明治16)年多木米次郎が獣骨を粉砕するのに用いた石臼。布袋像は1934(昭和9)年米次郎が高砂の宝殿石で建立した。

多木米次郎の生家
    
敷地続きのすぐ隣に残っており、創業当初、本店としても使われていた。

多木米次郎
肥料売買を家業とする多木家に生まれた。
明治−昭和時代前期の実業家・政治家。安政6年に生まれ、明治18年生地の別府村で獣骨を原料にして、我が国初の人造肥料を生産。
大正7年多木製肥所(現在の多木化学)を設立。多種の肥料を作り海外にも輸出。肥料王と呼ばれた。また、別府軽便鉄道も作った。


多木浜洋館 「同比閣」
加古川市別府町東町174

多木浜洋館は、多木化学株式会社の創立者である多木久米次郎が、賓客を迎える迎賓館として大正から昭和に亘り15年の歳月をかけて建てた洋館。
外観を銅板で覆い尽くした木造四階建の異形の洋館は、地元では「多木浜洋館」または「あかがね御殿」の名で知られている。
個人住宅の為未公開であったが、2002(平成14)年に、洋館、門、レンガ塀、銅像台座が国有形登録文化財に指定された時点から、内部見学が許されるようになった。ただし見学は月一回の指定日申込制である。

多木化学はわが国における化学肥料の先駆けのメーカーで、同社のホーローの看板は全国至る所で見られた。
商標「神代鍬」や家紋(丸に木瓜)が洋館の至る所に現れる。
    

山陽電鉄別府駅から真直ぐ播州灘に向かう道路を約15分歩く。途中に多木化学の本社事務所がある。別府川橋から異様な建物が遠望できる。
    

建設当時の洋館からは別府港が眼下に見下ろせたが、現在は埋立で海岸は遠くになり、様相がすっかり変わった。
  

洋館外観
東大の藤森照信教授が「…あかがね御殿と呼ばれる邸宅は全国各地にあるが、いずれも屋根を銅板で葺っただけで、このように全身をスッポリと銅板で包む例があろうとは考えもしなかった。これこそ、正真正銘の全身あかがね御殿。今後、屋根だけのものは、半身あかがね御殿とでも呼ぶようにしよう・・・」と述べておられる。
            

建物の概要 構造:木造4階建 基礎腰レンガ造、屋根銅板葺、外壁銅板貼 設計:不詳 施工:藤原岩太郎(地元) 内装:西村貿易(京都)
建築面積:延902u 建築:1924(大正13)年〜1933(昭和8)年 様式にとらわれず、和風・洋風・中国風が入り混じり、どんな分類にも入らない孤立した姿をしている(藤森教授)

        
基礎部分が立ちあがっているために高い建物となっている。1階は玄関から4階,大広間、ほか 2階は鏡の間(貴賓室)、客室、図書館、ほか 3階はホール、客室、他 4階は展望室。
建設時は、展望室からはるか播磨灘の家島諸島や淡路島が見られ、その眺望は絶佳であったとされる。

          
外壁の軒の裏、庇などの表裏、隅々まで完璧なまでに、銅板が全体を覆っている。洋館の命名「同比閣」は銅で覆われた館の意味をも含んでいる気がする。

外回りを見る
敷地内のレンガ塀 敷地内には洋館と並んで日本館があった。自邸であった日本館は和風造。

レンガ塀
    
非常に堅牢なレンガ積で、阪神大震災の時も建物と共に被害は出なかった。

石門
        
和洋折衷の門である。

新築時のレンガ倉庫の門扉を修復
    

前庭
    

玄関口周辺
        
明治時代から使い始め、現在も多木化学の商標である「神代鍬」や家紋が随所に施されている。
      
大理石を敷き詰め、繰り型や彫刻、ステンドグラスで壁面を装飾している。

これより先、館内は撮影禁止である。

内装は「和洋折衷」が積極的に取り組まれ、様式にとらわれない造りで、見事な意匠・豪華さに圧倒される。
館内で販売されていたハガキを引用させて頂く。

玄関ホール
 
3階まで真直ぐな吹き抜け。階段を中心に左右に部屋がつくられている。階段の親柱は国会議事堂に似た豪華なもので、私邸では見られない立派なもの。
ステンドグラスはテイファニ―製)、床は寄木造り、その並べ方は各室ですべて異なる。

一階大広間
 
洋風のホールからいきなり和風に様変わりする。150uの広さ 桃山風の格天井 極彩色の彫刻 柱はマホガニーヤチーク材 壁面クロスは西陣織
天井のマス中にはごくありふれた植物−スイカ・マメ科・ザクロ・等−の彫刻が全面に施されている。(肥料が家業であることから身近な植物・野菜を主とした)

二階貴賓室
 
大理石のマントルピース、大きな鏡、天井は折上げ格格子、マスの中は洗練された繊細な植物の彫り物、絨毯はシルク製(カネボウ)

銅像台座
   
多木久米次郎氏の実業家・政治家としての多大な業績を称えようと、隣接する住吉神社の境内に、1936(昭和11)年巨大な銅像が建てられたが、建立から間もなく戦時中の金属供出で没収となった。
現在は、「肥料王」の文字が刻まれた巨大な御影石の台座だけが残る。その上に置かれた石碑には「多木久米次郎翁銅像應召之址」とある。
「王」については、悶着があって「王」を「主」に変えたといわれる。 (コメントは館内の説明とビデオで聞いた内容を主にまとめてある)

多木久米次郎氏
江戸時代、姫路藩は綿業を藩財政のベースとし綿花栽培を奨励した。が、これには多くの肥料を必要とした。その頃は、いわしの干鰯(ほしか)が肥料として使われていたが値段が高かった。維新後、海外から安い綿が輸入されると、対抗上安い肥料の開発に迫られていた。
多木久米次郎(1859〜1942)は、家業の魚肥製造業を21歳の時に引継いだ。その頃、明治政府の殖産興業政策の政策立案とその啓蒙活動を行っていた前田正巳氏に触発され、安価な肥料の開発が日本の近代化に自分が貢献する道と決め、化学肥料開発に努め、製造販売に成功し、財を成して「肥料王」と呼称されるまでになった

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