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兵庫県小野市 浄土寺

Jodoji ,Ono city,Hyogo

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小野市浄谷町2094 浄土寺浄土堂(阿弥陀堂) 国宝 近世以前/寺院 鎌倉前期 建久3(1192) 桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦葺 19010327 19520329

小野市浄谷町2094 浄土寺薬師堂 重文 近世以前/寺院 室町後期 永正14(1517) 桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、本瓦葺 棟札1枚 19010327

小野市浄谷町2094 八幡神社拝殿 重文 近世以前/神社 室町前期 室町前期 桁行七間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺 19010327

小野市浄谷町2094 八幡神社本殿 重文 近世以前/神社 室町中期 室町中期 三間社流造、檜皮葺 19130414


Sep.16,2016 瀧山幸伸 source movie

                                                                                                                                                   


December 26,2015 大野木康夫 source movie

浄土堂(阿弥陀堂)(国宝)

                                                    

薬師堂(重要文化財)

                   

八幡神社

 

拝殿

                     

本殿(重要文化財)

                                       

鐘楼

 


Feb 3.2013 大野木康夫 source movie

所在地 兵庫県小野市浄谷町2094

駐車場からのアプローチ

  

浄土堂(阿弥陀堂)(国宝)

建久3(1192)年の建築

桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦葺

境内に入ったら正面に見えます。

非常に端正な建築です。

                                

薬師堂(重要文化財)

永正14(1517)年の建築

桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、本瓦葺

浄土堂と池を挟んで対になっているようです。

                  

鎮守社八幡神社

浄土堂と薬師堂の真ん中に参道が設けられています。

八幡神社拝殿(重要文化財)

室町前期の建築

桁行七間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺

               

八幡神社本殿(重要文化財)

室町中期の建築

三間社流造、檜皮葺

                      

鐘楼(兵庫県指定文化財)

 


July 2012 中山辰夫

浄土寺のある小野市は兵庫県の内陸部にあって、加古川が中央を流れている。

そろばん(全国シェア70%)と家庭用刃物が特産品で、山田錦を中心とした米作も盛んである。

     

浄土寺は公共交通路にやや難点があること、その他観光施設が近辺に無いことから、比較的馴染みが

薄いとされるが、建築家の間では評価が高いとされる。

今回の訪問も、逆光に映える阿弥陀三尊のお姿を拝見することにあったが、時間の関係でダメだった。

代わりに、浄土寺で購入した写真で我慢することになった。

 

浄土寺

平氏の兵火によって焼失した東大寺を復興するため、大勧進職となった俊乗房重源は、各地に7ケ所の

別所を建てた。その一つの別所が播磨別所で、開いた一寺が浄土寺である。重源はこの大部荘を再開発し

東大寺再建の経済的拠点とした。この時、重源74歳であった。

浄土寺は念仏道場で、浄土堂に阿弥陀三尊像のまわりを念仏を唱えて廻った。

遠景

    

浄土堂 (阿弥陀堂)

国宝

桁裄三間、梁間三間、単層、屋根宝形造、本瓦葺、柱間の隔たり:二十尺

建久3年(1192)の創建から昭和32年(1957)の修復時まで、実に770年間に一度の解体もなく

持ちこたえた歴史をもつ。820年余経つ現在も、創建時の姿がそのまま維持されている。

 

外観

    

東大寺の高僧・重源が宋に渡り、当時の最新式の建築様式を採用して建てたとされる。

重源の建物は、現在浄土寺と東大寺南大門の二件しか残されていない。

    

屋根は反りがなく、直線的な方形造が特徴である。

軒下は垂木もなく、装飾のない直線的な幕板も特徴的である。

    

外観はいたってシンプルで、現在の家の形に似てさえいる。

    

浄土堂内部(撮影は禁止である)

堂中は意外に狭く感じられるが、それは建物に比べ中に納まる阿弥陀如来の立像が大きすぎるから。

屋根の頭部まで、如来の頭が内側から届くほど高い。(須弥壇から頭部まで8m以上ある。)

高いうえ 、逆光だから、中に入ったとたん、大きな存在に上からのしかかられたような威圧感を感じる。

阿弥陀三尊(パンフレット2、工事報告書1、販売写真3)

      

阿弥陀三尊像は重源が持ち帰った仏画をもとに快慶が彫った。本尊は高さで、手が逆手、つめが長い

などの外観的な特徴が見られる。足元のハスの下は雲である。すべて意味があるのだろう。

屋外より堂内を覗く。

その内部の柱には何本もの肘木が差し込まれている。

日本建築では通常、柱間は梁でつなぐが、天井も張らず、円柱が屋根まで伸びるダイナミックな空間手法。

建築史上でこのスタイルを戦前は天竺様、戦後は大仏様とか重源様とかで表現され、未だ定まっていない。

   

建築の特徴は、構造体「柱・梁など」の造りと、構造の接合部の造り(組物など)の二つから決まる。

柱を下から上までスッキリ通したのが重源の特徴。

日本の普通のお寺の柱と梁の関係は、柱が途中で切れ、その上に大きな梁が乗るが、浄土堂では丸柱は

天井まで延び、そこに梁の頭部が差し込まれている。

柱・梁・三手先、などの組物(工事報告書より)

   

雄大なエンタシス式の円柱から何本も突き出ている挿肘木、木鼻とこの挿肘木を結ぶ紅梁。

梁だけでなく、堂を受ける組物の肘木(水平材)も差し込まれている。

    

天井を張らずに化粧屋根裏を高い所まで見せている。

  

阿弥陀三尊像は、大きな寄木4本をタテに積んで彫られており、その先端は地上まで届き

結果として、耐震構造となっており、過去の地震にビクともしなかった。

その他、天竺様の建築手法が随所に用いられ、その技術的な詳細解明は今後の課題とされる。

来迎のお姿(パンフレットより)

 

今頃は16時半ごろになると、太陽が堂の後ろに廻り、蔀戸(しとみど)から高い西日が差し込む。

西日は一旦床に落ちて反射し、屋根裏が赤く輝き表の戸に当ってお顔に戻る。

丹(に)塗りのお顔はオレンジの色が増して、まさに阿弥陀三尊像を西方極楽浄土よりの来迎の姿

のように浮かび上がると説明あり。

鎌倉時代初期は、宗教界に浄土宗、浄土真宗、禅宗などが起こり、新風が巻き起こった時期。

寺院建築も多彩となる。

浄土堂は、まさに浄土思想の建築的表現の究極ともいえる建造物である。

参考

 

薬師堂(本堂)

国重要文化財 永世14年(1517)再建

桁裄五間、梁間五間、単層、屋根宝形造、本瓦葺 浄土堂とほぼ同形同大の建物

       

開山堂

兵庫県指定文化財

焼失22年後、永正17年(1520)の再建 重源上人を安置する。

方三間、宝形造瓦葺、前面一間通りを吹き抜けの庇としている。

組物は隅柱上にだけ舟肘木をのせたもので、簡素な仏堂に良く用いられた手法。

      

鐘楼堂

兵庫県指定文化財

       

八幡社

     

拝殿

国重要文化財

正面七間側面三間 寄棟造本瓦葺

内が柱だけで、身舎がない。

     

半ば象鼻化した木鼻(隅上の上端から出た頭貫の端)鳥嘴様の木鼻(二重紅梁の端

     

本殿

国重要文化財

三間社流造、身舎側面二間、浜床、浜縁付、室町後期に造替

蟇股の目

脚内彫刻は地から芽生えて成長し、左右に枝を広げた一本の木といった趣向。

茎を脚の両肩から下方中心に向かって延ばし、花を中心飾り。花木に鳥を配した向拝。

    

重源上人像

国重要文化財

 

参考資料≪国宝浄土寺浄土堂修理孝治報告書 家庭画報、パンフレット、他≫


June 2011 酒井英樹

撮影:2010年1月

<浄土堂(阿弥陀堂)>

 正面3間、側面3間、組物大仏様三手先、宝形造、本瓦葺

 重源建立播磨別所の遺構、大仏様の代表的建築

 鎌倉時代[建久3年(1192)]

        

<薬師堂>

 正面5間、側面5間、組物大仏様三手先、宝形造、本瓦葺

 永正再建に当たり大仏様を踏襲、平面は密教本堂の通例に従う

 室町時代[永正14年(1517)]

     

 


July 2010 野崎順次

兵庫県小野市浄谷町2094

高野山 真言宗

極楽山 浄土寺

撮影日: 2010年7月19日

浄土寺の起源は今は廃寺で西方数キロ先にある広渡寺。その後荒廃していく広渡寺を奈良東大寺復興の「重源上人」が自身が開発したこの地大部荘に浄土寺として再興し広渡寺本尊を浄土寺薬師堂(本堂)に安置した。時を同じくして浄土堂(阿弥陀堂)も建立。(1192年)自身が宋より持ち帰った豪放で合理的な建築技術を駆使し、後にこの建築様式は大仏様(天竺様)と呼ばれるようになった。

浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの光が入るようになっており、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えている。

浄土寺の主な文化財(*印は写真あり)

 

建造物

国宝 浄土堂(阿弥陀堂)*

重文 本堂(薬師堂)*

 八幡神社 本殿*

 八幡神社 拝殿 * 

県文 開山堂* 

 鐘楼*

工芸

重文 銅製五輪塔

 銅製鉦鼓

 黒漆蝶型三足卓×2

 

彫刻

国宝 阿弥陀如来立像

 観音菩薩立像

 勢至菩薩立像

重文 来迎の阿弥陀立像

 重源上人坐像

 二十五菩薩面×25

県文 鬼面×2

絵画

重文 真言八祖図×8

 仏涅槃図

パンフレットとアプローチ

          

南側から境内に入る。

               

国宝 浄土堂(阿弥陀堂)

浄土堂は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで、平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。堂内は総丈8.3mの大仏ともいえる阿弥陀三尊が黄金の輝きの御姿で御立ちになられている。

朱に彩られた浄土堂は昭和32年(1957年)の解体修理により復元されたものだが、建物自体は1192年の昔から一度も解体修理されること無く現在までの770年余りを風雪に耐えながら今に至っている。

                         

県文化財 鐘楼

江戸初期1632年建立の鐘楼の歴史については詳しいことは分かっていないが桧皮葺の立派な袴腰付鐘楼である。

        

重要文化財 八幡神社拝殿および本殿

鐘楼のすぐ東隣には八幡信仰を重視していた重源によって室町期1235年に建てられた八幡神社がある。本殿前にある拝殿は寄棟である。南側の二つの池の間から近づく。

                                    

重要文化財 本堂(薬師堂)

境内の東側、中央にある池をはさんで浄土堂とは対にあるのが本堂で、建立は浄土堂建立後5年目、鎌倉初期の1197年。当時の本堂は浄土堂と対を成す造りであったと伝えられるが1498年に焼失、その後1517年に再建された。

                    

県文化財 開山堂

境内の東南端にあり、重源上人を祀る。本堂と同じく焼失し本堂と同時期に再建された。中にはほぼ等身大の重文重源上人坐像が安置されている。1206年6月4日東大寺浄土堂において86歳の生涯を終えた重源上人は1234年上人の彫刻が奈良の地よりこの地に移され1256年開山堂に安置された。近くにカブトムシがいた。

            

収蔵庫(鉄筋コンクリート造)、不動堂(木造宝形造)、経蔵(鉄筋コンクリート造、金網越しに諸木像)、文殊堂(木造)など。

                      

帰りのJR市場駅近くでシオカラトンボと子トカゲを見た。加古川線は単線、単車両である。

       

参考書類

浄土寺パンフレット

播磨古寺巡礼HP

事務局用

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