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兵庫県丹波市 黒井城跡

Kuroi castle, Tanba city, Hyogo

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Nov. 2011 大野木康夫 source movie

所在地 兵庫県丹波市春日町黒井

2011.11.13撮影 

黒井城跡は中世末期、西丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には2度にわたって明智光秀の攻撃を受けた城である。

山頂のくるわ群は堅固な石垣で護られ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配し全山を要塞化したこの城の構えは、光秀の攻撃を長期にわたってしのいだその歴史にふさわしいものであり、戦国期の城郭の代表的なものといえる。

黒井城の歴史は赤松貞範(則村次男)が丹波国氷上郡春日部荘を与えられたことから始まるといわれている。

赤松氏の後は早くから赤松氏と対立していた荻野氏が城主となり荻野和泉守、荻野伊与守秋清らが在城したが、天文23年(1554)一族の赤井(荻野)直正が秋清(赤井家譜では直正の叔父にあたるという)を倒して黒井城に入城し、悪右衛門を称した。

直正は赤井・荻野一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか天田郡、何鹿郡(以上、丹波奥三郡)と船井郡の一部を制し、丹後、但馬にも進出した。

この時期に今日の遺構にみるような黒井城が完成したものであろう。

永禄11年(1568)頃には前関白近衛前久の黒井城逗留もあり、『赤井家譜』等は前久息女が直正に嫁したと伝えている。

元亀元年(1570)には織田信長より奥三郡の安堵を受けたにもかかわらず、天正初年以降、逆に赤井直正は黒井城を本拠として反織田信長勢力の一翼を担い、武田勝頼、石山本願寺、毛利(吉川元春)らと意を通じた。

天正3年(1575)に至り、織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じる。

この時、丹波の諸将は信長方に降り、10月直正は但馬竹田城(城跡は国指定史跡)を棄てて黒井城に退き、光秀は黒井城を包囲した。

直正は、3ヶ月に及ぶ籠城に耐えて、天正4年の1月半ばに至った。

ところが光秀に従っていた波多野秀治が光秀本陣を急襲し、光秀が敗走する結果となった。

天正6年(1578)直正は病死し長子直義の後見として直正弟赤井幸家が黒井城を指揮した。

天正7年3月、再度氷上郡は明智光秀、羽柴秀長の攻撃を受け、郡内諸城は次々に落城し、黒井城もまた孤立無援となり、8月ついに落城して光秀の丹波経略は終了した。

この時の様子は『信長公記』(赤井悪右衛門退参の事)に詳しい。

この後黒井城には光秀の重臣斎藤利三が入ったが、利三は麓の下館(現興禅寺)に入ったといわれ、利三女春日局はこの地で生まれたと伝えられている。

天正12年(1584)小牧長久手合戦に赤井時直は再度黒井城に拠って、遠く徳川家康に呼応した。

これが黒井城における最後の戦闘である。

城跡は標高356メートルの猪ノ口山を中心に広がる。

山頂は南北およそ150メートルを3つに区画し北から本丸、二の丸、三の丸と呼ぶ。

その一段下に、これらを取り巻くように平坦地があり、東くるわ、西くるわ及び帯くるわと呼んでいる。

本丸は西方と二の丸方向に石垣をもち、二の丸は北東及び本丸、三の丸に面した部分に石垣をもち、三の丸、東くるわも南方に石垣をもつ。

いずれも野面積で永禄、天正期の石垣と考えられる。

本丸、二の丸間には長さ30メートル、高さ5メートルほどの石垣が築かれ、隅部には算木積石垣が残っている。

山頂から山麓にかけては北の丸、西の丸(小城)、水の手ぐるわ、出丸、太鼓の段、石踏の段と呼ばれる多数のくるわ群が配され、山麓の興禅寺が下館跡である。

また山頂より伸びる尾根の先端には北方に千丈寺砦、東方に竜ヶ鼻砦と百間馬場、南方には的場砦を配しており、全山を要塞化したことがよくわかる。

黒井城跡はこのように永禄、天正期の城郭遺構がその後の改変が加わることなく良好に残されており、極めて貴重であるとともに、織豊期の天下統一の過程を示す城としても重要な意味をもつ遺跡である。

すなわち黒井城跡は織豊期の正しい歴史の理解に欠くことのできない遺跡であり、ここに史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

(国指定文化財等データベースより)

黒井城は、丹波市春日町の中心、黒井の町の北に聳える猪ノ口山の山頂に築かれていました。

現在は国指定史跡となっています。

中学生の頃、この城を舞台にした司馬遼太郎の短編「貂の皮」を読み、登場する赤井悪右衛門直正が魅力的で、黒井城にも一度は行ってみたいと思っていました。

麓から山を遠望すると、中腹に模擬城門、山頂に石垣が見えます。

山の麓に駐車場があり、碑や案内板が立っています。

神社の左手から城跡に登る道が続きます。

しばらく登ると、猪垣として金網の柵が設けられています。

そこを過ぎて急な山道をしばらく登ると、視界が開け、丹波特有の朝霧に霞む春日の盆地が見渡せます。

もうしばらく登ると「石踏の段」と呼ばれる郭跡に出ます。

土塁の段が続き、段の上には麓から見えていた模擬城門が建っています。

城門の背後のモミジが少し色づいていました。

ここから本丸までは200m、傾斜も少しなだらかになります。

本丸まで100mの標識で左手に道が曲がると、すぐ上に東曲輪と三の丸の間の石垣が見えます。

かなりしっかり残った石垣で、周囲の斜面にも石垣が残っています。

さらに上ると、三の丸と二の丸の間の石垣がみえます。

先ほどの石垣よりも低いですが、これもよく残っています。

そこから左手に、高い石垣が覗いていたので、そちらに向かいました。

石垣は二の丸と本丸の間のもので、高さ5m、幅30mにわたって築かれています。

角は算木積みになっています。

さらに回り込むと、西曲輪に出ます。

そこから本丸の北側に進みますが、石垣は残っておらず、土塁のようになっています。

中ほどから本丸によじ登りました。

大変眺めがよかったです。

本丸から二の丸に下りました。

山を下りて少し舗装道を下ると、興禅寺があります。

明智光秀の家臣斎藤内蔵助利三が在城していた時、三女の春日の局が生まれた下屋敷の場所と言われています。

山城で、登城の道は険しい所もありますがよく整備されており、下草もきれいに刈られているなど、全体に手入れが行き届いていました。

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