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久里浜、浦賀
Kurihama Uraga

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Nov.2009 撮影/文:高橋久美子


旧浦賀ドック 
Old Uraga dock

巨大な建物が海側の道沿いに続いています。一世紀以上にわたって約1000隻にのぼる艦船をつくり続けてきた浦賀ドックの跡地です。
平成15年(2003)に閉鎖されるまで、30mを越す高さのクレーンが空を覆い、日本丸、海王丸をはじめ、青函連絡船・大型タンカー・自動車運搬船・護衛艦などの船がこの浦賀ドックで建造され、街はドックで働く人たちでにぎわいました。
浦賀での造船の歴史は古く、安政元年(1854)現在は暗渠となっている浦賀駅前を流れる「長川」の河口で、中島三郎助らにより日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造されました。太平洋横断直前の咸臨丸も、この河口で修理が行われました。
 明治24年(1891)中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争の同志であった荒井郁之助が浦賀に造船所を造ることを提唱しました。
榎本武揚が賛成して地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が創設され、2年後にはドライドックが建造されました。
石川島との競争やフィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。
1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦の好況もあり経営は立ち直った。
艦艇建造は日露戦争時の横須賀工廠からの艦載水雷艇の受注に始まる。
明治40年(1907)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦建造で有名だった。
大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)
 浦賀船渠株式会社は、「浦賀重工業」を経て「住友重機械工業」となり、平成15年(2003)3月に閉鎖されました。
現在、一般の見学はできませんが、「咸臨丸フェスティバル」や「中島三郎助まつり」などの際に、ドライドックを含め一部が公開されます。
 昭和18年(1943)に作られ、1機のみ解体されずに残されているクレーン、明治32年(1957)に建造されたドライドックなどに、当時の面影を偲ぶことができます。





陸軍桟橋(西浦賀みなと緑地)

 西浦賀の渡船場から川間方面に少し歩くと、通称「陸軍桟橋」と呼ばれるL字型の桟橋があります。
太平洋戦争終了後、南方や中国大陸からの引き揚げ者約56万人が、懐かしい日本の地に第一歩を印したところです。
 浦賀港の引き揚げの歴史を後世に伝えようと平成18年10月に記念碑が設置されました。
ペリー来航や咸臨丸出帆など歴史の舞台となった浦賀港を一望できる公園となっていて、周辺はボードウォークが整備され、
浦賀港を隔てて東叶神社を望む東屋もあり、一休みすることができます。お年寄りの憩いの場になっているようでした。



Feb.2006 撮影:瀧山幸伸

久里浜 ペリー上陸の地





ペリー記念館
Perry museum





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