JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

京都府京都市東山区 安養寺
Anyoji,Higashiyamaku,Kyoto city

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 

京都市東山区八坂鳥居前東入円山町 安養寺宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 鎌倉後期 石造宝塔 19600209

Aug.21,2015 中山辰夫


通称名:吉水草庵、平安時代初期の延暦年間(782〜806)に最澄(伝教大師)が創建。
吉水坊と称し、法然が30数年間ここを本拠に称名念仏を宣揚・親鸞も入信したが、専修念仏弾圧に遭い荒廃。
1385年(至徳2)国阿が入寺、時宗に改めて興隆した。

境内には、もと六阿彌坊(六坊の一つ、重阿彌で赤穂浪士が円山会議を開いた)があって、いずれも林泉の美と眺望に富む楼閣を構え、遊客に席を供して風流行楽の域となった。
しかし、明治維新の際に六坊は廃寺され、また火災にあうなど次第に衰微し、今は門内境内に阿弥陀堂・書院を、飛地の境内(ここから約50メートル南へ下る)には弁天堂、慈鎮和尚多宝塔を残すだけである。
  

本堂
        
参道は石段。本堂、庫裏、書院が集まっている。見晴上々。

円山聖天堂
       
本堂から少し上る。

弁天堂
弁天堂は、慈鎮が叡山から勧請(かんじょう)したものといい、技芸上達の祈願の信仰が厚い。
       

境内
      

慈鎮和尚多宝塔
   
弁天堂の東北隅にある。塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏が並座する鎌倉時代初期の逸品である。

弁財天の左側にある石段をのぼった所に築100年の旅宿がある。
  


現在の円山公園内になる1886(明治19)年以前、円山に安養寺の塔頭として多蔵庵春阿彌、延寿庵連阿彌、花洛庵重阿彌、多福庵也阿彌、長寿院左阿彌、勝興庵正阿彌、があり「円山の六坊」と呼ばれていた。
塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていった。
重阿彌では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれている。
世阿彌は、連阿彌、重阿彌を合併し、京都で始めてのホテル、也阿彌ホテルになった。春阿彌は、1877年に温泉場となり、1906(明治36)年に焼失した。
左阿彌も明治維新以降の御前会議(明治期から太平洋戦争終結時まで国家の緊急な重大事件に際し,天皇の出席のもとに行われた元老,主要閣僚,軍部首脳の合同会議をいい、重要な国策を決めた会議)に使われた。
六阿彌のうち左阿彌のみが今に至るまで料亭として残った。


都名所図会
「円山安養寺(まるやまあんやうじ) は長楽寺の北にあり。これも山門の別院にして、伝教大師の開基なり。本尊の阿弥陀如来は安阿弥の作。
建久年中に慈鎖和尚すみ給ふ。その後時宗と改め、国阿上人住職せり。
こゝに盲人源照といふ者、琵琶の妙曲を奏せしかは天聴に達し、後小松院の恩寵を蒙り、紫衣を賂ふ。これ盲人紫衣の始りといふ。
源照はじめより当山に祈暫し、世に名誉あらん事をねがふ。しかうして顧望成就せしかは当寺の本堂を建立す。
吉水の井は鎮守弁才天の傍にあり。慈鎮和尚この地に住み拾ひしゆゑに宮水和尚といふ。
青蓮院宮御代々の法親王灌頂の時、この水を閼伽とし、夜深更に例式の列を糺し来臨し給ひ、御手づから汲ませらるゝといふ。
当山坊中の書院は昇らずして高楼に至り、清奇典麗いはん方なし。
庭中には石を畳んで飛泉を催し、池を鑿りては舟をうかべ、緑樹芳草、四季に花絶えず、蹴鞠の履の音涼しく、中にも多蔵魔(眼阿弥)の庭は相阿弥の作なり。
多福庵(也阿弥)の書院の画は雪渓の筆なりとぞ。
凡そ洛陽游筵の地多かめれど、この地に勝るゝほなし。 」




Feb.2011瀧山幸伸 HD video

  

A camera
           

B camera
                 


Mar.2010 HD video

吉水神社と宝塔
           

大谷廟
    




Mar. 2006 Preview video 500Kbps HD video Video FAQ

    

宝塔
  

         


All rights reserved 無断転用禁止 通信員募集中