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京都府京都市北区 大徳寺 大仙院

Daisen in,Kitaku,Kyoto city,Kyoto

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京都市北区紫野大徳寺町54-1 大仙院書院 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長19(1614) 桁行9.9m、梁間7.2m、一重、入母屋造、銅板葺 19620621

京都市北区紫野大徳寺町54-1 大仙院本堂 国宝 近世以前/寺院 室町後期 永正10(1513) 桁行14.8m、梁間10.8m、一重、入母屋造、銅板葺 玄関1棟、棟札4枚 19160524 19570618


Feb.17,2020 瀧山幸伸 

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March 3, 2019 野崎順次 

京都府京都市北区紫野大徳寺町54—1

大仙院は、京都市街地の北、大徳寺の中にある塔頭寺院で、永正6年(1509年)に大徳寺第76世の大聖国師古岳宗亘(こがくそうこう)が開いた寺院です。数ある塔頭の中で、真珠庵、龍泉庵、龍源院とともに、大徳寺4派の一つ北派の本庵として栄えた寺院です。

枯山水の名園として広く知られている大仙院の庭園は、開山古岳和尚の作庭になる庭園であることが大仙院に伝わる文書から判ります。史料には古岳和尚の作庭の手腕が高く評価されていたことも記されており、作庭当時から名園の名が高かったことが想像されます。また、庭園が面する国宝の本堂(方丈)は永正10年(1513年)に建築されたもので、庭園と建築が一体となって作庭当時の姿を今に伝えている点でも大変貴重なものと言えます。

(京都市都市緑化協会 京の庭を訪ねてウェブサイトより)

特別名勝 大仙院書院庭園 室町時代

さて本庭は本院方丈の東部の書院の東北庭として矩形の地割をもつ枯山水である。面積は三十一坪六号で、まことに小庭であるが、その石組の技術は枯山水中第一位といい得る傑出したものである。このような渓谷枯山水は、いうまでもなく北宋画のおける水墨山水図の影響であり、まったく一幅の水墨山水画を見るようである。そうした石組手法は、室町期から盛んになり、桃山初頭で完成しているから、まったくこの時代の典型手法でもあるが、何分庭石が最高のものを選択してあることから、傑出したのであろう。

書院の東北角のところにツバキの大刈込を用い、その下部に三段の枯滝手法を用い、手前の左側には巨石二個を立てて中景を表現し、滝の下部に自然石の石橋を低く架け、その前に鶴石組がある。そして枯流れとなって書院の東部に多数の配石があり、中央に蓬莱石組を見せ、下部に舟石の傑出したものを用いていて、よく室町末期から天正期にかけての様式を示している。さらに北部には亀島を作り、西部には、古式の蹲踞式石組を見せ、その付近の集団石組と共に、全庭石組が傑出している。まったく技術的にも最高峯の庭である。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」

現地地図とパンフレット

  

山門あたり

        

山門を入ると、右手に庫裡、左手は方丈と玄関(共に国宝)。これから先は庭園も含めて写真撮影禁止。

     


April 20,2016 田中康平

大仙院及びその周辺

宮本武蔵が沢庵和尚に出会った等逸話は多いが撮影は入り口までしか叶わない。

                   


June 2013 中山辰夫

大仙院周辺

          

大仙院

大仙院は本山方丈の北にあり、大徳寺北派本庵と呼ばれる。

1509(永正6)年に開山され、24ヶ寺ある大徳寺の塔頭の中で最も古いものの一つであり

1502(文亀2)年に創建された龍源院(りょうげんいん)と共に、北派の大仙院、南派の龍源院として二大法系を築き、大徳寺を隆盛に導いた。

大仙院には、創建当時に建立された本堂(方丈)が残されており、東福寺の塔頭である竜吟庵(りょうぎんあん)の方丈に次いで古い方丈建築として

国宝に指定されている。

また庭は特別名勝史跡に指定されており、蓬莱山から落ちる滝、堰を切って大海に流れ込む水をすべて砂で表し、宝船や長寿の鶴亀を岩組で表した

室町時代の代表的な枯山水庭園である。

■■アプローチ

五葉松が枝をのばす。真珠庵とも共用している。

     

■■概説

  

安土桃山時代、大仙院はわび茶の完成者である千利休とも懇意にしており、利休が豊臣秀吉によって切腹を命じられ、その首が一条戻り橋に

曝された犀には、大仙院三世住職の古径(こけい)和尚が利休の首を持ち帰り、手厚く葬ったと伝わる。

その後も大仙院の歴代和尚は利休の系譜を受け継ぐ茶人と密接に繋がっていた。大仙院は他にも数多くの名僧を輩出しており、沢庵漬を考案

したとされる沢庵和尚もまた、大仙院の七世住職を務めていた。

■■表門と門前の佇まい

     

■■唐門(玄関)

国宝

前庭の露地隅に建つ。方丈につながっている。

格調高い玄関である。室町時代の特色を示す変化にとんだ美しい形式と細部装飾の見事な雅味を兼ね備える秀逸の玄関とされる。

     

■玄関とは玄妙深遠、奥深い関所という意味で、われわれが持つ人格、事故の内部にある仏への関門、心の関所をさす。最古の玄関建築である。

禅の厳しい関門を示すがごとく、玄関が奥深く廊下の形になっている。

■■鐘楼

玄関に向かって左側前方に建つ。

   

■■庫裏

    

庫裏入口に掲げられる「何妨」に二字は「何ぞ妨げん」の意味で、来る者を拒まず去る者を追わずを端的に表し、「無を以って門となす」に発展する

二字である。

■石

庫裏前の敷石の中のあった母児入りに石

 

■鬼瓦

 

■■方丈

国宝

1509(永正6)年、創建当時に建立されたままで残されており、室町時代の代表的な方丈建築である。

禅の考えで建築された日本最古の方丈で、東福寺の塔頭である竜吟庵(りょうぎんあん)の方丈に次いで古い方丈建築として、国宝に指定されている。

 

■見取図

規模は、桁行が14.8m、梁間が10.8mで、一重、入母屋造である。当初は檜皮葺であったが、明治18年(1885年)の修理で瓦葺に、昭和34年から

の解体修理の際には銅板葺へと改められ、2008年の改修で創建当時の檜皮葺へと戻された。

 

■方丈建築とは、平安時代に確立した寝殿造をベースとして、過剰は無用、あくまで簡素にしかも合理化されてより住みやすいよう進化した住居建築である。

寝殿造では、その内部に板敷で、ゴザや小さな畳などを敷いて過ごしていた。また室内を仕切る壁や建具は存在せず、屏風や衝立などで仕切っていた。

これに対し、方丈建築では、内側に広縁を取り、床に畳を敷き、また取り外し可能な襖で各室内を自由に仕切る事で、大部屋とも使えるようにしていた。

さらには、玄関(玄は悟り、関は入口の意、元は方丈への入口を意味する)や、室内には床の間なども設けられるようになり、それが現代の日本住宅に繋がる書院造へと発展していった。大仙院の方丈は、玄関、床の間の両方を有しており、これらが備わる方丈建築として現存最古のものである。

■生?室(すいしょうしつ)

方丈書院の間は、生?室という茶室。千利居士が秀吉公にお茶を差し上げた部屋として有名である。

 

■■本堂の扁額

国宝

 

■■捨雲軒と中海

国重要文化財

本堂北の書院。七代目沢庵和尚は漬物の発明者としても有名。

捨雲軒は沢庵和尚が宮本武蔵に剣道の極意を伝授したところ。

 

■■襖絵

すべてが国重要文化財

方丈の内部は南側・北側各三室の計六室から成る典型的な方丈建築の様式で、そのうち北東の一室は「書院の間」として、住職の居室に使われた。

方丈の各部屋には、狩野派の始祖である狩野正信の子、元信の花鳥図・禅の公案をまとめた六祖の図や元信の弟である之信の四季耕作図などが飾られ、さらに室町時代を代表する優れた水墨画を残した相阿弥の瀟湘(しょうしょう)八景図などの障壁画が飾られており、その全てが重要文化財に指定されている。

■狩野之信筆「四季耕作の図」

方丈東南の礼の間の襖8面を飾る紙本淡彩画 室町期障壁画中の名品である。

 

■■大仙院の庭 枯山水庭園

特別名勝並びに史蹟

開祖国師が自らの手で築かれた庭であり、室町時代の禅の現れとして他に類を見ない構想を備えている。

大仙院以前の庭園は、例えば金閣寺や苔寺のように、自然の広大な咸鏡を楽しむ特定の金持ちだけの庭で、庶民には一切無縁であった。

生活の場に自然の姿を少しでも取り入れて精神的な潤いを求める−禅宗寺院が率先して寺院内に庭園を築いた故で、庶民の生活にも移行して残った。

  

■不立文字を標榜する禅では、その心を表し説明するために木・石・砂をかりて抽象化した。石をもって山とし、砂をもって水とする。枯山水を仮り山水という由縁である。大自然大宇宙の全てが仏の説法。この禅の考えが抽象化され、仮りの姿となって、大仙院庭園に形造られている。

この庭園は、やはり写真ではダメで、来て見て感じるしかないと思えた。

参考資料≪説明文及び写真は引用:大仙院発行“大仙院“≫


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