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京都府伏見区 伏見区の石仏 

Sekibutsu,Fushimiku, Kyoto city,Kyoto

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May 12 and 14, 2020 野崎順次  source movie

 

京都府京都市伏見区
伏見区の石仏めぐり


安楽寿院(竹田中内畑町74)の古石仏
本坊の西側、新御塔・本堂の西側に接して三宝荒神がまつられ、参道ぞいに仮堂が設けられて三尊石仏二基が安置されている。これらの石仏は、江戸時代に旧成菩提院跡から発掘されたと伝え、三基出土して、うちの一基は現在京都国立博物館に寄託されている。石仏は、凝灰岩の軟質石で、上代から平安後期の石造遣品によく見られる石材。高さ1mあまり、幅1.1m~1.2m、厚さ40cmほどの切り石で、写真を見てもわかるように、磨滅や欠損が多く無惨な状態である。しかし、わずかに残った表現には、やさしい顔の表情・姿勢、洗練された技法が影をとどめていて、藤原石造文化の史料を伝えている。向かって右の三尊石仏は釈迦三尊と考えられ、中尊は定印を結んで結跡践座し、向かって右の脇侍は左手に蓮華をささげ、面相の保存もよい。左の脇侍は右手を胸前にあげており、左手は破損。別の一基は薬師三尊と思われ、中尊は右手施無畏、左手胸前にて薬壺をささげて結珈鉄座し、両脇侍菩薩像は脇立している。すべて厚肉彫りで、蓮華座を設け、光背をつくっている。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)

安楽寿院
   


三尊石仏2基
          


大栄寺(東大黒町1032)四面仏
丹波橋通り、東大黒町に浄土宗知恩院派の松顔山大栄寺がある。門をくぐった右側に覆堂を設け、大きな四面仏が安置されている。もと伏見城のあたりにあったものを移したという。
この四面仏は、十三重石塔の塔身(初軸)の部分で、高さ84cm、幅76cm四方の花崗岩四面に、高さ67cmの舟形光背を彫りくぼめ、うちに座高59cmの如来形四仏を半肉彫りしたもので、現在南面して阿弥陀定印像があり、北に薬師如来、東に釈迦如来、西に弥勒仏が配置されている。顕教四方仏をあらわしたものである。その像容はよくととのい、すぐれたところは、鎌倉後期の作風を伝えるものである。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)
             


その他の石造物

    



悟真寺(榎町713)四尊仏
悟真寺は・天正三年(1575)に、月公上人が開創したと伝える浄土宗寺院。門をくくると南面した本堂の前方に方形石が置かれていて、表面に四尊石仏が浮彫りされている.
花崗岩製。高さ48cm、幅40cm、厚さ20cmの表面に、周囲枠取りをして、上下二段をつくり、上の段に舟形光背を彫りくぼめ、地蔵座像を二体ならべて浮彫りする。一体は合掌、別の一体は錫杖・宝珠の地蔵で、像高20cm。下に蓮華座を設けている。下段の二体は、ともに合掌する座像で、像高10cmである。上の二体は蓮華座があり、下の二体は蓮華座が設けられていないところから、供養者をあらわすのであろう。二親の菩提供養のために造立した石仏と考えてよく、磨滅が加わって像容も判然としないが、南北朝時代の造立であろう。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)
       


本寺は1868年鳥羽伏見の戦いで東軍戦死者納骨所であった。
石碑「戊辰之役東軍戦死者之碑、子爵榎本武揚書、明治四十年建」
     


踊りながら歩く子供
    


大光寺(伯耆町1-1)四面仏
伏見区大手筋通りの、繁華街のとおりに、浄土宗大光寺がたっている。鎌倉時代の文応元年(1260)に寛海上人の建立した寺という。その本堂裏手の庫裏の庭内に四面石が置かれている。花崗岩製、高さ60cm、幅55cmの方形石で、上面に穴をつくり、もと線香立の炉に転用していたものであろう。これも大栄寺四面仏と同じように、層塔塔身の残欠である。
四面に舟形光背を彫りくぼめ、蓮華座に座す座高39cmの如来形四仏を厚肉彫りしたもので、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒仏の顕教四方仏をあらわしたものである。像容・蓮華座もすぐれていて、鎌倉後期の造立であろう。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)

山門から本堂、庫裏
        


四面仏

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油掛け地蔵(西岸寺、下油掛町898)
油掛町の地名があるように、ここには有名な油掛け地蔵尊がまつられている。京都には、油掛け地蔵尊なるものが二ヵ所にある。この伏見油掛け地蔵と、嵯峨油掛町の油掛け地蔵である。しかし、嵯峨の油掛け地蔵石仏は、地蔵尊ではなく、阿弥陀如来像である。その点から言えば、こちら伏見の地蔵石仏は、油掛け地蔵尊の御本家とも言えよう。
伏見油掛け地蔵石仏は、高さ1.7m、幅80cmの花崗岩の表面に、像高1.27mの地蔵立像を厚肉彫りしたもので、右手に錫杖、左手に宝珠をささげる通常の姿の地蔵。頭光をきざんでいるようだが、厚み2cm近くもつもり重なった油の層で、平面に銘文があるのか否かも調べようがない。また、足下の部分に蓮華座が設けられていると思われるが、厨子内は油だらけで、これも調査のしようがない。しかし、面貌もすぐれ、なで肩で胸開きの大きな彫法、錫の部分の大きく立派なところから見て、鎌倉後期の造立と思えるところがある。近年、嵯峨油掛け地蔵は調査のため、つもった油を削り落とし、貴重な鎌倉後期の年号銘を発見したが、この伏見地蔵像も、油を削り落とせば、あるいは鎌倉後期の年号も出てくるかも知れない。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)

現地説明板、本堂
       


油掛け地蔵
         


芭蕉翁来訪の折に詠じし句碑
地蔵堂の裏に句碑があり、「我衣にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉」ときざまれていて、承応二年(1653)に芭蕉が、当寺の住職任口(にんく)上人を訪ね、伏見の桃山にちなんで詠んだ句という。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)
    


電気鉄道事業発祥の地の碑
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28(1895)年に開業し,京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点として,この地伏見町油掛通までの約6kmを走った。
(京都市ウェブサイトより)
   

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