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京都府京都市左京区 妙満寺 

Myomanji,Sakyoku,Kyoto city

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 July 17, 2022  野崎順次  source movie

京都府京都市左京区岩倉幡枝町91
顕本法華宗総本山
妙満寺

妙満寺を創建した日什大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまでなった人でした 故郷の会津で日蓮大聖人の教えに触れられると、67才という高齢にもかかわらず宗を改め「日什」と名乗り、日蓮門下に入られました。 そして、日蓮大聖人の遺志である帝都弘通を想い、時の帝・後円融天皇に上奏。二位僧都の位と「洛中弘法の綸旨」を賜り、康応元年(1389)六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙塔山妙満寺を建立しました。
妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し興隆してきましたが、天文5年(1536)、比叡山の僧徒による焼き討ちで二十一坊の大伽藍を類焼。一時は泉州堺に逃れ、天文11年に元の地に復興したという苦難の時代もありました。そして、天正11年(1583)豊臣秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきました。
近代になり都市化が進み日毎に増す喧騒と環境悪化を避けるため、昭和43年に「昭和の大遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移り今日に至ります。
(本寺公式ウェブサイトより)

パンフレットなど
           


山門へ
      


水屋
  


参道が西の本堂に向かって直進し、右手(北側)に本坊と社務所、その前に中川の井(遺構)、左手(南側)には塔頭と仏舎利塔が並び、小さな石組が点在する。
              


本堂
          


本堂内部は撮影禁止だが、安珍・清姫の鐘が安置されている。
「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺(和歌山県日高郡日高川町)の霊話は、能や歌舞伎などの古典芸能に取り入れられている。その物語に縁あるこの鐘は、数奇な運命で当山に伝わった。
正平14年(1359)3月11日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し、鐘供養を盛大に営んだ。その席に一人の白拍子が現われ、呪力で鐘を落下させると、蛇身に変わり日高川へと姿を消した。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めたが、後にその話を聞いた「秀吉紀州攻め」の大将・仙石権兵衛秀久が掘り起こし、京都に運び込み妙満寺に納めた。時の妙満寺貫首・日股大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となった。
(パンフレットより)

本堂の東方真正面に比叡山
       


廊下を戻る。
      


本坊(方丈)
     


雪の庭
俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)が造営した枯山水の庭苑であり、清水寺の「月の庭」、北野天満宮の「花の庭」とともに、名庭「雪月花の三庭苑」と並び称されています。

借景の比叡山、石組、枯流れがつくり出す景の変化
1968年には寺町二条周辺の市街化に伴う環境悪化を避けるため現在の岩倉へ移り、「雪の庭」は石組をそのままに方丈の東へ移築され、比叡山を借景として東山より流れ出た三段の滝が流れ込む枯山水の庭として再現されています。
正面から見ると滝石組の2石が右から鋭く立ち上がり、下段の滝添石は左から押し上げるように支えて三角形の構図をつくり、力強い安土桃山文化の技も感じることができます。
最下段の巨石は浮石にして陰影をきわだたせています。流れ落ちてきた水が豪快に巨石を乗り越え池に落ちるさまを想像させ、背後の滝石組をより遠くに感じさせる遠近法により庭全景を大きく見せているようです。
角度を変えて、床の間のある方丈の左側の部屋から見ると、手前にある枯池の立石達が主役となり、築山の石組は植物と溶け込んだ優しい背景に見えてきます。何かを語りかけているような動きのある立石で日本庭園の技を使い、変化に富んだ空間を創りだしています。

改修で再現される俳諧の祖・貞徳の世界観
2022年1月には近年の気候変動や植物の成長に対応するため、改修工事が行われました。改修を手掛けた造園家・井上敏宏氏は「貞徳がこの敷地に作庭するならば、比叡山から流れだした水は野の景・里の景へと展開し、日本の自然や四季を感じさせる空間としたのではないだろうか」と述べており、松永貞徳の世界観をより再現した庭園へと生まれ変わりました。
(京都市都市緑化協会広報誌「京のみどり」2022年夏03号より)
                                


五条大橋橋脚蹲踞と庭園北部
築山の左手から背後にかけては、柔らかな起伏を見せる苔地が続き、草原に風が通り抜けるような風情を感じさせています。庭に降りて、散策してみれば四季の草花に出会えるかもしれません。貞徳の「雪月花」の世界を体感してみてはいかがでしょうか。
(京都市都市緑化協会広報誌「京のみどり」2022年夏03号より)
             


ずっと戻って、庭の南端部、参道沿い木戸からも見る。
      


大書院と前庭
     


仏舎利大塔
妙満寺仏舎利大塔は、「宗祖 日蓮聖人のみ教えそのままに、法華経に明かされた久遠本仏釈迦牟尼仏の実在を信じ、そのご精神に帰る」という妙満寺の信仰を象徴するものとして、昭和48年(1973)インド・ブッダガヤ大塔をかたどって建立されました。
(中略)
この塔の最上階には当山に古くから伝わる仏舎利をおさめ、一階に日蓮聖人の顕されたご本尊と久遠本仏釈迦牟尼仏のご尊像をおまつりしています。またこの塔は全国檀信徒の納骨堂にもなっており、豊田佐吉翁以来の豊田家一門を始めとする多くの篤信者の遺骨が安置されています。
建立33周年にあたる平成18年(2006)から3年をかけ、全国の末寺並びに檀信徒の寄進により外壁にお釈迦さまの仏像486体を奉安し、併せて内外の荘厳を整えました。
(本寺公式ウェブサイトより)
                 


門前で自撮りスマホで観光案内を撮影中の外人
 


Sep.2012 中山辰夫

京都市左京区岩倉幡枝町91

宗派:顕本法華宗 

本尊:釈迦如来(十界曼荼羅)

深泥池、円通寺などのバス停を通過して妙満寺前バス停で下車。左側に大きく鎮座している。

雪が降り、比叡山が一望できる場所として、幡枝の地が移転先に選ばれた。

植樹されている約4000本のツツジが山門前を取り囲んでいる。

          

南北朝時代、天台宗の学頭、日什(にちじゅう)上人が六条坊門に建立。室町時代の後期の「天文法華の乱」で焼失したため堺に避難。

後、堺から再び洛中(六条坊門)に戻る。豊臣秀吉の都市改造に伴い寺町二条に移転。昭和43年(1968)げんぁ愛知に移転してきた。

都名所図会に描かれた妙満寺。寺町二条にあった頃のもの。

 

山門

      

境内の案内

 

全景

         

本堂とその周辺

          

本坊

     

本坊内部

      

雪の庭

俳諧の祖と仰がれる松永貞徳の造営で、「雪・月・花」三名園の一つとされる。

妙満寺が寺町二条の旧地であった時に塔頭・成就院の庭として造られたものを移転に際して移したもの。

       

現在は木々の成長で見えないが、東にそびえる比叡山を借景としている。

      

石組、植栽がほぼ中央の一点に集中。

     

手水鉢

  

妙満寺俳句の会

貞徳が始めた「雪の会」にならい句会を催している。初の句会を「花の会」、秋を「月の会」、冬を「雪の会」と称して、年3回開催している。

色のついた花はあまり庭にない。これは歌や句を、一年を通じて詠めるようにするためか。

      

釘隠し

    

宝物殿

安珍・清姫伝説の鐘

和歌山県道成寺にあったとされる梵鐘で、安珍・清姫伝説ゆかりの梵鐘とされ、豊臣秀吉の紀州征伐の際に家臣の仙石秀久が京都に

持ち帰ろうとしたが、金が重たかったために途中で破却し近くの住民の手によって妙満寺に奉納されたもの。

      

加藤清正公肖像画(土佐光則作)と松永貞徳肖像画

雪の庭の作者である貞徳は連歌から俳諧を文芸として独立させ、後の松尾芭蕉にも大きな影響を与えた。寛永6年(1629)11月末当山を

会場に俳諧大興行「雪の会」が行われ、初めて俳諧が公式の場に登場することになった。いわば、当山は、俳諧(俳句)発祥の地である。また

この時の式法が会席の始めとされる。

   

仏舎利塔

昭和48年(1973)檀家信徒の寄進により建立。

            

塔頭

    

三景

雪の庭、しだれさくら、つつじ(妙満寺HP)

    

参考資料≪パンフレット、ウイクペテイ゙ア、小嶋氏資料、ほか


事務局用

 

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