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京都市右京区 清凉寺
Shoryoji, Ukyoku, Kyoto city, Kyoto

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Feb.25,.2015 中山辰夫

京都市右京区嵯峨釈迦堂藤の木町46

宗派:浄土宗 本尊:釈迦如来

清凉寺は、京福電鉄嵐山線の終点・嵐山駅で降りて、すぐ前の道路を北に約800m歩く。
この界隈は、洛西随一の観光スポット嵐山に近く、観光客の切れ目がない。
寺が立つのは、光源氏のモデルとなった源融(とおる)が山荘「棲霞観(せいかかん)」を造営した所である。

清涼寺に向かう途中にある嵯峨小学校

歴史を感じさせる雰囲気がある。校門前の石垣に映える桜は春の名物とか。門を入ったすぐ左側にある石標
招慶院は天龍寺塔頭(塔中)で,もと霊松院といい,応永8(1401)年夢窓国師(1275〜1351)の高弟絶海中津(1336〜1405)が住いしたと伝えられる。
明治初年廃寺になった。この石標は招慶院跡を示すものである。

五台山・清凉寺は浄土宗の寺で、京都の人からは「嵯峨釈迦堂」の愛称で親しまれている。
もともと嵯峨天皇の皇子・源融の山荘があったところ。その後、山荘は寺となって、「棲霞寺(せいかじ)」と呼ばれた。
987(永延元)年、南都・東大寺の僧・「然(ちょうねん)上人が宋より帰国・ここに、愛宕山を中国の仏教三大霊場の一つ・五台山に擬して、大清凉寺を建立しようと計画したが、1016(長和5)年、上人が志半ばで没したため、弟子がその志を継いで、棲霞寺内に一宇を建立し、清凉寺とした。

清凉寺は貴賤の信仰を集め、火災の度に信徒の 勧化によって再建され、大寺院として発展してきた。1218(建保6)年にも火災にあったが、釈迦堂再建勧進のため五十日にわって東西の名僧が説法し造営に協力した。
室町時代には、融通念仏の大道場として栄え、無現狂言を行って民衆を教化した。以後、応仁の兵火を受けて荒廃したが、その都度再建に努力されてきた。
1529(享禄2)年には正親町天皇の綸旨を受け、五代堂等の再建に着手された。1612(慶長17)年には徳川家康から寺領が与えられた。

山門 (仁王門)
アプローチ
嵯峨小学校前からは結構長い一直線の参道で、その先に山門が凛々しく建つ。


山門 (仁王門)
石垣で囲まれた階段を上る。眼前に見上げるばかりの大きな門が控える。寺では「仁王門」と呼ばれる山門である。
「清凉寺山門(江戸時代)昭和62年4月15日 京都府指定文化財」 説明板が、歴史的遺産であることを示す。

応仁の乱で五大堂とともに炎上し、江戸時代、1783年(1776年とも)に再建された。
三間一戸、二階二重門、総ケヤキ造、入母屋造、本瓦葺。禅宗様、和洋の折衷様式になっている。高さ10.1m×18.3m
上層に十六羅漢像を安置、初層左右に室町時代作の阿吽の金剛力士像が安置されている。

道路側より見た山門

大屋根、楼上(二階)を挟んでその下に屋根を配する。入母屋造、本瓦葺、の重層華麗な建物で、見る者を圧倒する。
門から透かし見る本堂の景色がよくて、スケッチをする人が絶えないとか。その多くの画用紙の左右には、ガッシリとした柱のデッサンが描かれる。

構造の細部

構造は八脚門、構造を支える丸柱も太い。丸柱の中には竜の装飾があるようだが未確認。建物自体は名のある他の山門と引けを取らない。

境内側より見た山門

構造の細部

涅槃会・嵯峨大念仏狂言(国指定重要無形民俗文化財)・お松明式

3月15日、嵯峨大念仏狂言が境内西の清凉寺狂言堂で演じられる。
嵯峨大念仏狂言は、京都三大念仏狂言(千本閻魔堂・閻魔堂狂言、壬生寺・壬生狂言)の一つに数えられる。1279(弘安2)年の大念仏法会にはじまる狂言(融通念仏縁起)で、円覚上人が始めたと伝わる。
涅槃会のあと行われるお松明式は、釈迦を荼毘に付した時の模様を再現したものといわれる。
そのお松明の準備が進んでいる

紅梅に映える本堂(釈迦堂)

一休み

室町時代後期の作とされる、朱色をした阿吽の金剛力士像が入口左右でにらみを利かせる。
阿の金剛力士像

吽の金剛力士像





November 24,2014 大野木康夫 movie

清涼寺境内の紅葉(本堂前)





September 15 & August 24, 2014 野崎順次 movie

京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
(Seiryoji Temple, Ukyo-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)

アプローチ、阪急嵐山駅から渡月橋を渡って北上する。

パンフレットと現地説明板

府文 仁王門 江戸(1783 or 1776)
三間一戸、二階二重門、総ケヤキ造、入母屋造、本瓦葺。禅宗様、和様の折衷様式。
左右に阿吽金剛力士像(室町後期)。

境内から見た仁王門

法然房源空二十四歳、求道青年像

愛宕権現社 江戸(1716)

弥勒多宝石仏 鎌倉前期
石仏と宝塔が表裏に彫られている。

四方仏

その他の石造物

一切経蔵 江戸中期
傅大士、笑仏を祀る。

阿弥陀堂 江戸末期(1863)再建
桁行五間、梁間六間、入母屋造、本瓦葺

府文 多宝塔 江戸前期(1703)
下層 三間、本瓦葺
上層 本瓦型銅瓦葺

聖徳太子殿

伝源融墓の宝篋印塔 鎌倉後期
相輪は後補、花崗岩、高さ1.63m(相輪を除く)

伝嵯峨天皇墓の宝篋印塔 平安末
伝檀林皇后墓の五重層塔 上部は平安中期、基礎は鎌倉

伝「然上人墓の石幡 鎌倉
笠石は後補、花崗岩、高さ1.55m

秀頼公首塚
昭和55年に大阪城より出土した豊臣秀頼の首を納めた。首に介錯の跡がある。

薬師寺 普段は非公開だが、お盆の時だけ公開される(8月24日内部撮影)。

鐘楼 江戸
府文 梵鐘 文明十六年銘(1484)

狂言堂、4月10日前後に嵯峨念仏狂言が演じられる。

府文 本堂 江戸中期(1720)再建
桁行七間、梁間七間、単層入母屋造、本瓦葺、正面と背面に三間の向拝、禅宗様と和様の折衷様式

納骨堂と釈迦如来石仏

江戸時代作庭と云われる池泉回遊式庭園と
弁天堂(摩尼殿) 江戸後期
軒唐破風、宝形造、装飾彫刻が多い。

大方丈前庭園、小堀遠州作庭といわれる枯山水

参考資料
清凉寺パンフレット
京都風光 寺社案内 「清凉寺」

 





Nov.30,2013 瀧山幸伸








嵯峨大念仏狂言(重要無形民俗文化財)

April,2011 撮影:大野木康夫 HD video

嵯峨大念仏狂言は清凉寺【しようりようじ】(嵯峨釈迦堂ともいう。)の法会に行われる狂言で、鎌倉時代末、京都で円覚十万上人が遊戯即念仏の妙理を広めるために始めたという三大念仏狂言(壬生・嵯峨・千本)の一つであり、狂言の演じられる大念仏会は能の「百万」という演目にも扱われている由緒あるもので、所蔵狂言面には天文十八年(一五四九)在銘のものがあるなどこの狂言の歴史の古さが知られる。
能楽ことに狂言の変遷過程を知る上にも重要な芸能史的価値の高いものである(昭和三十九年からは後継者養成が困難なため一時中断されたが、昭和五十年に復活され、従来の演目を今日では充分な状態で上演できるようになった)。
この嵯峨大念仏狂言は、清凉寺狂言堂で無言劇として演じられる。
演目は、「夜討曽我」、「羅生門」などカタモンと称される能風の演目十二番、「愛宕詣」、「餓鬼角力」などヤワラカモンと称される狂言風の演目十二番とがあり、演技、曲種とも壬生狂言に似ているが、「釈迦如来」の演目は、ここ嵯峨のみの独自の演目であり、全体的に壬生狂言より、おおらかな古風さをよく保存しているものとして重要である。
(国指定文化財等データベースより)

4月9日(土)、清涼寺で行われた嵯峨大念仏狂言を見に行きました。
近年、壬生狂言が有料かつ全面撮影禁止になりましたが、嵯峨大念仏狂言は、今のところ無料で、撮影もできます。
公演は清涼寺境内狂言堂で、春の大念仏会(4月)、御松明式(3月15日)、円覚上人忌(10月)に行われます。

JR嵯峨嵐山駅から北西に徒歩15分で清涼寺に着きます。
途中の道(丸太町通など)は、心なしか車も少なかったです。

清涼寺の境内は桜の盛りでした。

狂言堂は、本堂の南西にあります。
公演は24番ある演目のうち、1日に3番を行います。
この日は、「釈迦如来」、「大黒狩」(ヤワラカモン=狂言仕立て)、「土蜘蛛」(カタモン=能楽系)が行われました。
1番あたりの時間は30分ほどで、午後1時、2時、3時開始で3番が行われます。
狂言堂の前は広く、さしたる混雑もなく鑑賞することができます。
嵯峨大念仏独自の演目である「釈迦如来」を見ることにしました。
狂言堂の前には長椅子が置かれ、多くの人が開演を待っていました。
この日のグッズや解説冊子の売り上げの全額は、東日本大震災の義援金として寄付されるということでした。

開演の午後1時になると、囃子方が舞台に上がり、保存会会長のあいさつが行われました。
嵯峨大念仏狂言は、鉦、太鼓、笛の囃子に乗せて行われる無言仮面劇です。
(ちなみに、京都三大狂言では、壬生狂言も無言劇ですが、閻魔堂狂言(上京区引接寺)はセリフがあります。)

「釈迦如来」

坊主(向かって左)と寺侍が、釈迦如来を本堂に据えてお守をします。

母親と娘がお参りに来ます。母親は美人、娘はお多福という設定です。
しばらく、舞台左手の母娘と、右手の堂内の描写が続きます。

まず母親が釈迦如来にお参りをします。
母親が拝むと、釈迦如来は嬉しそうに拝み返します。
坊主と寺侍はびっくりしています。

次に娘がお参りしますが、釈迦如来は、反対を向いてしまいます。
娘は怒って、ひしゃくで釈迦如来を小突き、泣きながら母親のもとに帰ります。

坊主と寺侍は、釈迦如来を元に戻そうとしますが、釈迦如来はびくともしません。

途方に暮れた二人は、母親にもう一度釈迦如来を拝んで向きを戻してもらうよう頼みますが、母親が拝むと、釈迦如来は母親を連れてどこかへ行ってしまいます。
娘はまた泣いてしまいます。

釈迦如来がいなくなった堂内では、坊主がとっさに釈迦如来になりすまします。
寺侍が拝むと、坊主の釈迦如来は反対を向いてしまいます。
寺侍が元に戻そうとしますが、動きません。

寺侍は、娘に坊主の釈迦如来を拝んでもらい、向きを戻してもらうよう頼みます。
ところが、坊主の釈迦如来は、娘が拝むと嬉しそうに拝み返します。
その挙句、娘を連れてどこかへ行ってしまいます。

一人残された寺侍は、釈迦如来のふりをしますが、拝む者もなく、しかたなく帰っていきます。

 


Mar.2011 野崎順次

京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
浄土宗知恩院派 五台山 清涼寺(通称: 嵯峨釈迦堂)

撮影日: 2011年3月26日

本尊釈迦如来像(国宝)を始め、多くの国宝、重文の仏像・絵画を有する。一方、建築は、本堂、仁王門、多宝塔が京都府指定文化財になっているだけである。それでも、伽藍のたたずまいが広く清々しい。
この地は嵯峨天皇・皇子の源融(みなもととおる)の山荘「棲霞観」(せいかかん)であった。源融は光源氏のモデルといわれる。融の死後、棲霞寺と改めらたが、天慶8年(945)醍醐天皇・皇子の重明(しげあきら)親王が亡き妃のために新堂を建て釈迦如来を安置した。

アプローチ。
阪急嵐山駅から渡月橋を渡る。3月下旬とはいえ寒い日で、愛宕山頂が白くなっている。

パンフレットと説明板

府文 仁王門(江戸時代)
建築年代は不明でたびたび焼失したが、安永6年(1776)再建。嵐山方面から近づくとスゴイ貫録である。

愛宕権現社
日除けの神・愛宕権現を鷹ヶ峰から愛宕山頂に移す時、ここで祀った跡地。

府文 多宝塔(江戸時代)
元禄13年(1700)江戸護国寺での出開帳の際、江戸の老若貴賎の寄進によりなったもので、のち元禄16年、廻漕建立された。

聖徳太子殿

源融公墓所

嵯峨天皇・檀林皇后宝塔(平安時代)

開山 ちょう然上人の墓(鎌倉時代)

狂言堂、鐘楼、梵鐘(府文)、薬師寺

豊臣秀頼公の首塚
昭和55年、大阪城三の丸跡地の発掘現場から出土した秀頼公の首を、昭和58年、秀頼公再興の由緒を持つ当寺に納められたもので、首に介錯の跡があった。

一切経蔵(徳川中期)
傅大士と笑仏をまつり、輪蔵に明版一切経を納めて、これを回すことで一切経を読んだのと同じ功徳があるとされる。

阿弥陀堂、庫裡

府文 本堂(徳川初期末)
度重なる焼失の後、元禄14年(1701)に再建された。単層入母屋造本瓦葺、間口14間、奥行13間。釈迦堂とも呼ばれる。

本堂の裏庭には納骨堂、放生池の中小島に戦争犠牲者の霊を弔う忠霊塔・供養塔、また、摩尼殿(弁天堂がある。

大方丈の庭園、小堀遠州の作と伝える。

境内の花、遅い春が近づく。

参考資料
当寺パンフレット

 


Nov.2010 瀧山幸伸

A camera



B camera



事務局用



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