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京都府京都市中京区 神泉苑
Shinsen en,Nakagyoku,Kyoto city,Kyoto

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July 2012 中山辰夫

京都市中央区御池通神泉苑町東入

宗派:東寺真言宗
本尊:聖観音・不動明王・弘法大師

神泉苑は、地下鉄東西線「二条城前」駅3番口を出て押小路通を西へ、世界文化遺産の二条城の外濠を見ながら徒歩約4分の
ところ南側(左手側)に北門がある。

神泉苑の正面は御池通に面している。この“御池”の名前も通りがこの神泉苑に突き当たることに由来する。

三方山に囲まれた京都盆地は地下水が豊富。京都北東部の山間から流れ出た賀茂川や高野川の清水が伏せ水となり、盆地のどこも
水に恵まれ、太古の南西地域は沼地が多く、その名残が神泉苑といわれている。

祇園祭との関係
還幸祭 7月24日
祇園祭の始まりのきっかけの御霊会は神泉苑が発祥の地とされる。
貞観11年(869)、疫病流行の厄払いのため鉾を66本立てて神泉苑の池で清めた。
後世、これに車をつけて、飾りを施し巡行する祇園御霊会(現在の祇園祭)になったと言われている。
毎年、7月24日、祇園祭の還幸祭の際、御旅所から八坂神社まで渡御する三基の神輿のうち中御座(なかござ)神輿が神泉苑に渡御し拝礼する。
神泉苑では、迎え太鼓が奉納され、神輿を高く差し上げる「差し上げ」が行われる。
神泉苑前で神事が行われ、その後、三基の神輿が立ち寄る三条御供社へ向かう。

史跡神泉苑
境内図

方丈

本堂
本尊は聖観世音菩薩 脇仏は不動明王、弘法大師と本苑中興の僧快我上人を祀る。 
本堂横の石燈籠に「弘法大師」と書かれている。

平安殿

拝殿と善女龍王社
弘法大師が北天竺の無熱池から勧請された龍神を祀る。

恵方社
日本で唯一の回転式の歳徳神を祀る社で、大晦日の23時に翌年の恵方(良い方向)へ祠の正面を向ける。

弁財天堂
なまずの瓦がめずらしい

鎮守稲荷社

法成就池

法成橋(ほうじょうばし)
真面目な願いを一つしてこの橋を渡り、善女龍社にお願いすると叶うという。

ハトと鯉

神泉苑狂言(大念仏)
いわゆる壬生狂言の流れを汲み、毎年5月池の東畔の狂言堂で執行される。
これは今より約650年前、融通念仏の円覚上人が布教の際、大衆に声が届かないため身振り手まねで
説法したことに始まるとされ、念仏狂言の宗家に代々継承され、京洛中行事の一つとして有名。

 

≪参考≫
歴史
二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。
神泉苑は約1200年前の延暦13年(794)、桓武天皇が平安京を造営されたとき、大内裏の南に接して、北は二条から
南は三条まで、東は大宮から西は壬生まで、つまり南北四丁、東西二丁の地域に、中国周の文王の霊囿(れいゆう)
になぞらえて設けられた禁苑とされる。

現存しているのは造営当初のほぼ中心の東寄り、十数分の一に過ぎないが、平安当初より洛中に現存している「東寺」
とともに、文化財として国から指定された最古の史跡である。

大内裏に近接して造営された神泉苑は、太古から存在した大池と、その周囲の林苑を美味く利用して設けられ、水源の
「神泉」から流出した大池の池中には中嶋を築き、池の北方には乾臨閣を建て、また、釣殿や滝殿などの豪華な殿舎が
造られた。池には竜頭?首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべ、朝廷貴紳行楽の重要な場所となった。
桓武天皇が始めて完成された神泉苑に行幸されたのは延暦19年(800)で、平安遷都後6年経ってからである。
桓武天皇はじめ各帝も行幸されたが、その行事や儀式の様子は、性霊集(嵯峨天皇御製や弘法大師)の中にみえる。

その後、行事も変わって行き、空海和尚の天長の祈雨(天長元年824)以降は、庭園としての利用はなくなった。

平安中期以降は、宗教的な修法の場として、また、下流の田圃や京中のための灌漑、汲み水などに利用された。
特に弘法大師空海以降、密教僧の祈雨修法が盛んに行われ、鎌倉時代に至るまで実に20名以上の当時の名僧が名を
留めている。また、その祈雨方法もさまざまで、請雨経法、孔雀経法、太元帥法や、その他の読経など種々の修法が
行われた。
この内、有名であったのが、小野流の始祖といわれる小野曼荼羅寺(現在の随心寺)の仁海僧正で、その没年の96才
に至るまでの生涯に神泉苑で9回修法を行い、“仁海雨僧正”と渾名を奉られたほどであった。
静御前も舞を行って祈雨をしたといわれる。義経との出会いは神泉苑であった。

禁苑として、祈雨の道場として一世を風靡したが、次第に衰運に向い、大風(平安末期)や応仁の乱(1467)より後は
荒れるに任され、田畑荒廃、人家が軒を連ねる部分も生じた。
江戸時代になって慶長7年(1602)、徳川家康が二条城築城の際、この「神泉」に着目し、この水を利用して城の内外濠
を満たした。このため神泉苑は広大な境域の北部(約四分の一)を失い、縮小した。

築城を担当した京都所司代板倉勝重は、名苑の縮小荒廃を憂え復興を図った。
安永9年(1780)刊行の都名所図会に掲載されたのはその頃の状況を表わしている。
 

参考資料≪神泉苑、他≫






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