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宮城県村田町 村田

Murata,Murata town,Miyagi

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柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 店 重文 近代/住居 明治 明治7(1874) 土蔵造、建築面積49.39㎡、二階建、桟瓦葺 "店巻直帳1冊、店普請帳1冊 湯殿1棟:木造、建築面積9.72㎡、鉄板葺 裏門1棟:一間腕木門、切妻造、南北袖塀附属、桟瓦葺 嘉例録2冊 宅地:1,228.16㎡(地域内の板塀、屋敷神、玉垣、屋敷神台座、ロウジを含む。)" 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 本宅 重文 近代/住居 大正 大正5(1916) 木造、建築面積148.79㎡、二階建、桟瓦葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 前座敷 重文 近代/住居 不詳 不詳 木造、建築面積84.56㎡、二階建、桟瓦葺 前座敷修繕普請帳1冊 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 内蔵 重文 近代/住居 江戸末期 安政3(1857) 土蔵造、建築面積48.26㎡、二階建、桟瓦葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 新蔵 重文 近代/住居 江戸後期 文政11(1828) 土蔵造、建築面積26.50㎡、二階建、鉄板葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 西蔵 重文 近代/住居 明治 明治11(1878) 土蔵造、建築面積30.88㎡、二階建、鉄板葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 穀蔵 重文 近代/住居 不詳 不詳 土蔵造、建築面積30.88㎡、二階建、鉄板葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 塩蔵 重文 近代/住居 不詳 不詳 土蔵造、建築面積16.56㎡、二階建、鉄板葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 作業場 重文 近代/住居 不詳 不詳 土蔵造、建築面積66.25㎡、鉄板葺 20180817

柴田郡村田町大字村田字町191 旧大沼家住宅 表門 重文 近代/住居 明治 明治32(1899) 一間薬医門、切妻造、桟瓦葺、北方袖塀、南方潜戸及び土塀附属、鉄板葺 20180817


Oct.31,2018 瀧山幸伸

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旧大沼家住宅(ヤマショウ)(重要文化財)と周辺

                                         

                                                                                                                                                                   


Nov.8,2016 瀧山幸伸 source movie

村田町村田伝統的建造物群保存地区

重要伝統的建造物群保存地区の選定

平成26年3月10日 伝統的建造物群保存地区を決定(村田町)

平成26年3月13日 重伝建地区の選定申出(村田町から文部科学省)

平成26年5月16日 重伝建地区に選定することを文部科学大臣に答申(文部科学省文化審議会)

平成26年9月18日 宮城県で初の重伝建地区に選定(官報告示)

保存地区の概況

■保存地区の名称 村田町村田伝統的建造物群保存地区

■保存地区の所在地 村田町大字村田字町の一部

■保存地区の面積 約7.4ヘクタール

■保存計画   保存計画(PDFファイル)

■重伝建選定基準 (一)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの

(選定基準)

重要伝統的建造物群保存地区選定基準(昭和50年11月20日 文部省告示第157号)伝統的建造物群保存地区を形成している区域のうち次の各号の一に該当するもの

(一)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの

(二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの

(三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの

■伝統的建造物及び環境物件の特定数

伝統的建造物(建築物) 81件

伝統的建造物(工作物) 42件

環境物件   1件

合 計 124件(平成28年4月現在)

重伝建地区の概要

保存地区の歴史

村田の町場は、村田館より東に見下ろす位置に展開し、町中央を南北に通っている街道は、南は大河原、北西へは川崎を経由して笹谷峠、山形、北東へは菅生を経由して仙台城下へと通じており、主に川崎や山形方面への主要な交通路でした。

村田における紅花の取引は、遅くとも18世紀初期に始まっており、柴田郡や刈田郡の周辺において生産された紅花を集荷する仙南地方の拠点となっています。村田に集積された紅花は、上方や江戸へと出荷されました。上方への輸送は、笹谷峠を経て山形の大石田で船に積み替え、最上川を下り酒田から日本海を北前船で運んでいます。

村田商人は、京都で売った紅花の代金で、帰り荷として上方の物資を大量に購入し、鋸商(のこぎりあきない)を行いました。当時、上方の物資は日本海の航路で運ばれることが多く、酒田や山形と交通の便がよかった村田は、上方と仙南地方を結ぶ中継商業地として繁栄しました。

明治22年(1889)に村田郷は近隣の3つの村と合併して「村田村」となり、更に明治28年(1895)には「村田町」となりました。明治15年(1882)頃に化学染料アニリンの普及により、紅花の取り扱いはなくなりますが、その後も江戸時代以来の商品は引き続き扱われ、さらに味噌、醤油、生糸、薪、炭、紡績糸、洋反物、繭などの集散地となります。有力商人の中には、株主や大地主として新たな活路を見出す者もあり、昭和期に至るまで商業地として繁栄を続けました。

戦後以降は経済基盤の変化や生活の近代化、自動車交通網の発展などにより、商業地としての役割は薄れ衰退の一途をたどりましたが、近世から近代にかけて築かれた町並みは姿を留め、当時の繁栄ぶりを今に伝えています。

保存地区の特性

慶應2年(1866)居屋敷並家中屋敷絵図面(写)

慶應2年(1866)居屋敷並家中屋敷絵図面(写)

慶応2年(1866)の状況が描かれているとされる絵図『居屋敷並家中屋敷絵図面(写)』には、村田館の東側に河川に沿って町が描かれています。町は、村田館に東面して「表小路」を南北に、そして、番所から「大手小路」、その北側に「北小路」を東西に配し、それらによって区画された宅地は「侍屋敷」となりました。さらに、その東側に道幅の広い街路が南北に通っており、その両側には、北から「足軽屋敷」、「町家」と記された街区が形成されています。また、各街路に沿って水路が整然と配置されている様子がうかがえます。

商業地の中心となった「町家」の短冊形の地割の状況は、水路の位置にやや違いが見られるものの、ほぼ現在に受け継がれています。

保存地区内の伝統的建造物は、江戸後期から昭和20年代までに建てられた、土蔵造や塗屋造、真壁造の商家、そして洋風建築等で、中でも、耐火性能を備えると同時に富の象徴として、明治前期から大正期にかけて次々と建てられた土蔵造の店は、本町地区を中心に多数残っており、ひときわ存在感を醸し出しています。戦後以降、改築や建て替えが行われたものもありますが、今なお多くの伝統的建造物が残された町並みは、近世から戦後にかけて商業地として繁栄した町の歴史を、今日に色濃く伝えています。

(村田町)

   

                                                                           

ヤマショウ(旧大沼家) 

紅花で栄えた商家

                                                                           

                                             

                                                                           


May.2005 瀧山幸伸 HD(1280x720)

        

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