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信州 秋葉街道
Akiba kaido



長野県大鹿村

長野県飯田市 遠山郷

伊那市 



Sep.2012 瀧山幸伸


「天空の里と秋葉街道」 長野県伊那市、大鹿村、飯田市


下栗集落



『千と千尋の神隠し』と『大鹿村騒動記』は秘境の落人文化から生まれた映画だ。宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』のモチーフとなった飯田市遠山郷の霜月祭。当の宮崎も度々現地を訪問していた。原田義雄の遺作となった『大鹿村騒動記』は、大鹿村に300年伝わる大鹿歌舞伎を題材にしたもので、共に国の無形民俗文化財に指定されている。その霜月祭や大鹿歌舞伎を生んだ土地の地理と歴史と人々の暮らしを知れば、もっともっと映画が楽しめるし、現地の訪問も数倍楽しい。


巡礼の道

今回のスポットを明確に言えば、北は長野県伊那市の高遠から大鹿村と飯田市遠山郷を経由して、南は静岡県浜松市天竜区の秋葉山へと、伊那谷の東に平行に走る中央構造線の割れ目に沿う秋葉街道だ。秋葉街道は秋葉山詣での街道なので、出発地がどこかによって街道の定義はいろいろあるが、細かいことは気にしない。
秋葉山への巡礼とはどのようなものだろう。秋葉山本宮秋葉神社は全国の秋葉神社の起源と言われる神社で、明治に入るまでは秋葉寺を合わせ秋葉大権現と呼ばれる神仏習合の修験者の地であった。江戸時代には京都の愛宕山とともに「火防(ひぶせ)の神」として絶大な信仰を集めていた。頻繁に大火に見舞われた江戸では多くの秋葉講が結成され、伊勢講大山講と並び大勢の参詣者が秋葉山を目指した。各地の村はずれに優美な曲線の秋葉燈籠、いわゆる常夜燈が残っているが、防火の効力というよりも燈籠自体が信仰の対象であるように思える。明治に入ると神仏分離による寺社の争いがあり、耐火建築も普及したため、今日では消防関係者を除き秋葉山詣ではほとんど廃れてしまった。
一方、秋葉街道は北の善光寺へ向かう巡礼の道でもあった。善光寺は8世紀以前の開山と言われる無宗派の単独寺院で、宗派の別なく御利益を求めた参詣祈願が可能なうえに積極的な女人救済を標榜していたため、庶民から時の権力者に至るまで「遠くとも一度は詣れ善光寺」と呼ばれるほど偉大な巡礼の目的地であり続けた。

秋葉街道とその周囲に隠れ里のようにひっそりと佇む街並を北から南へ、秋葉山への巡礼者の視点で訪ねてみよう。
高遠は今回の起点に相応しい。高遠へは大鹿村の謎を解くためにも諏訪から入ろう。諏訪から高遠までは杖突街道と呼ばれ、急峻ではあるが巡礼者には重要な道路である。
高遠城跡の桜は有名だが、あまりにも人出が多い。高遠城跡は紅葉の季節も素晴らしいのだが、先入観に縛られているのか人出は多くなく、紅葉を愛でる場所としておすすめだ。今回は高遠には寄らないで高遠から中央構造線の深い割れ目に沿って南下しよう。桜の時期には市街から外れて南に進んだ勝間や常福寺、あるいは桑田薬師堂の寂寥感漂う桜が好ましい。そこで目に入るのは美和ダムのエメラルドグリーンの不思議な湖水。巡礼の結界を越えたようで驚く。水に色があるのではなく、水に混在したシルト成分の反射によるもので、カナディアンロッキーの湖水と同じだ。
さらに進むと市野瀬に至る。なまこ壁の土蔵群。鏝文字の漆喰扉を持つ旧橋本屋旅館。時が止まったような街並と背後の赤松の巨木との調和が素晴らしい。


大鹿村の謎

大鹿との境の分杭峠は磁石が狂うとか霊気が立つとか噂の謎のパワースポットだそうで、中央構造線の断層が影響しているという説もあるが、科学的な根拠は疑問だ。富士山麓の青木が原と同様、単に磁成分を含んだ地質のいたずらだろうが、テレビ番組のネタとしては、断層に近付くと頭痛がするとかいうカナリヤ人間を連れ出すのも一興だろう。
冗談はさておいて、その中央構造線の断層は峠から少し南に下った北川露頭で自由に見学することができる。関東から九州まで続く大きな断層の千五百万年昔の姿が地上に露出していて、国の天然記念物に指定されている。
「大鹿」という地名は神様の使いの鹿と関係あるのかないのか、なにげに神秘的だ。話は神話の時代に遡る。大鹿村は元々は諏訪大社の支配下にあったようだ。諏訪大社は建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀るが、そもそもこの神様のルーツが良くわからない。他所からやって来た神様で、出雲の大国主命の子とはなっているが、読みからして、朝鮮半島と縁が深い福岡の宗像(むなかた)に通じ、関係があるのか無いのか。それ以前の先住民によるミシャグジ神はもっとわからない。ミシャグジは狩猟に関係があるので鹿とは親密な仲だったのだろう。
彼らは日本海側の糸魚川から内陸に進んで行ったと考えられている。貴重な貿易品である糸魚川のヒスイを手に入れ、環日本海沿岸国各地との交易で潤ったのだろうか。あるいは諏訪の和田峠に産出する黒曜石も関係するのだろうか。縄文時代の勢力図は良くわからないが、建御名方神は農耕の神様でもあるから、農耕伝来後は稲作の重要資源である水源、すなわち川の源流を支配するという発想も戦略的に重要だ。そう考えると諏訪に社を設けたのは必然だし、大鹿村の水分(みくまり)としての価値も特別だ。建御名方神が天竜川を遡上して諏訪に落ち着いたという説にも頷ける。
塩も重要な交易物資だった。糸魚川から塩尻へ塩が牛で運ばれ、松本街道の塩の道が形成された。太平洋側からの塩の道は多くのルートがあるが、その一つは御前崎近くの相良から天竜川の船経由で伊那谷を経て塩尻諏訪へと運ぶものだ。大鹿村の鹿塩温泉は古代の海水が閉じ込められた強食塩泉で、温泉水を煮詰めて塩を精製していたので、戦略的に重要な拠点だったのだろう。
村は四方を固めた要塞である。北には分杭峠、南には地蔵峠、東には南アルプス、西には伊那谷との間に険しい渓谷が続く。南北朝時代には後醍醐天皇の皇子宗良親王が大鹿村の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年にわたって信濃宮方(南朝)の本拠地となった。その南朝の落人文化が大鹿歌舞伎に影響を与えていると言われている。香坂高宗以前の鎌倉時代に既に福徳寺のような優美な重要文化財寺院がこの地に建立されていたことは驚きだ。よほど高い文化を持った人々が住んでいたのだろう。福徳寺の裏手に香坂高宗の墓と伝わる見晴しの良い丘がある。そこから上流を眺めると、南アルプス赤石岳方面にわずかな平地があり、その一帯が大河原と呼ばれる信濃宮跡だ。さらに谷の奥へ分け入って行くと入沢井集落に至る。急斜面にへばりつくような数軒の農家とわずかな畑があるのみで、独特の立体感が深く印象に残る集落だ。集落からさらに山を登り切ると段丘のような広大な丘陵地となっており、クリンソウ咲き乱れる神秘的な大池、蒼いケシを栽培する開拓農場や牧場など、原流域の癒しの景観が拡がっている。
大鹿村の人々はどうやって暮らしていたのだろう。隠れ場としては最高だが、農業だけでは経済が成り立たないことは一目でわかる。
農産物に代わる重要物資は木材だった。当地では年貢を榑木(くれき)と呼ばれる上質なサワラ、ヒノキ、シオジのブロック型製材で納めていた。榑木は屋根材や桶材の用途に大きな需要があり、経済は大いに潤っていたのだ。その後昭和30年代の木材輸入自由化までは、狭隘な山里ではあるが豊かな森林資源を持つ土地であった。その豊かさが歌舞伎などの文化の伝承に貢献したのだろう。
大鹿村と歌舞伎の詳しい話を松下家のご当主に伺った。松下家は代々名主組頭の村役を務めており、松下家のルーツも戦国時代にこの地に辿り着いた松浦水軍系の落人だという。現在の家は国の重要文化財に指定されている見事な本棟造りの建物で、台所と厩の間に大きく飛ばした梁は全国稀に見る長さを誇り、一見の価値がある。『大鹿村騒動記』は村人のほとんどがエキストラ出演しているが、当主ももちろん登場し、その話になると特に顔がほころぶ。

福徳寺


松下家住宅


地震と津波の知識が必須な日本人であれば、大鹿村中央構造線博物館に立ち寄ろう。そして地蔵峠に向かう途中に中央構造線安康路頭にも立ち寄ろう。峠にはその名のとおり地蔵様が祀られている。峠付近から南にはしっとりと美しいブナ林が拡がり、長野県独特の興ざめなカラマツ林とは違う森林景観だ。
ここから南は飯田市の旧上村。遠州と信州の国境で、旧南信濃村と合わせ遠山郷と呼ばれる秘境中の秘境だ。民俗学の宮本常一の著作では、遠山郷とその周囲は「無住の地」がほとんどで、逃げ込んだ無法者が跳梁跋扈する土地であるかのような印象を強く抱かせる。確かに、山ばかりで権力者の支配境界線が不明確なこの地は、無法者や落ち武者が隠れるには都合の良い地理だったのだろう。


遠山郷の街並と霜月祭

現在の遠山郷の中心は旧信濃町の和田だが、街並としては旧上村の上町がおすすめだ。秋葉街道沿いの小さな宿場町だが、旧来の街並が比較的良好に残っている。昭和29年の写真には、大量の荷を背負った馬と馬子の姿があり、宿場内の道脇には水路が流れている。今では水路も馬も見られず、宿場としての機能自体も枯れているが、扇屋のファサードにある格子戸や大戸に往時の宿屋の繁栄を偲ぶことができる。白木屋の看板や持ち送りも興味深い意匠だ。秋葉大神と琴平大神の石塔が建つその隣は琴平屋で、二階手摺の意匠が興味深い。ぶらぶらと歩いても数分の小さな街並だが、清流の水音を楽しみながらのんびりと過ごしたい。
街外れの「まつり伝承館天伯」は、霜月祭が開催される上町正八幡宮に隣接している。遠山郷の文化と産業の歴史民俗博物館で、館の人が丁寧に説明してくださる。木と共に歩んできた村の歴史と林業のなんたるかを詳細な資料で学ぶことができる。当地は林業に加えて養蚕とコンニャク作りも盛んだったそうだ。
霜月祭も落人文化の影響を色濃く反映している。全国の神々が集まり、徹夜の湯立て神事と神楽で新年度の豊作を祈願する。館内には祭りに関する展示、特に大量の仮面がある。この祭りが映画『千と千尋の神隠し』の湯屋に集まる神々のモチーフになり、仮面をヒントに「カオナシ」の無表情を得たのだろう。それぞれの面の表情と宮崎作品との関連を探ったりと、時間と興味は尽きない。

上町の街並


霜月祭の仮面



天空の里

まつり伝承館で予習した後は、万難を排して日本のチロルとも呼ばれる下栗集落を訪問したい。日本のチロルという表現は本家チロルとの乖離が大きすぎてあまり好きになれないし、チロルに負けるのも悔しいので、天空の里下栗と呼びたい。谷底の上町からは500mも高低差があり、標高1000mを越える尾根付近に拡がる集落だ。これが道なのかと思うほどの細く曲がりくねった道を登る。その先にようやく現れるのは転げ落ちそうな急傾斜に点在する畑と農家。なぜこのような土地に集落ができたのか。一つは林業の手入れのため。もう一つは農業のため。急傾斜ながらも谷底よりも畑を拓く余地はあり、こちらのほうが日照豊富だ。作物はいろいろだが、二度イモとソバについてふれておきたい。二度イモは小粒のジャガイモで、米が作れない当地の危急食だ。赤と白があり、一年に二度収穫できることから名付けられた。急傾斜の畑は水はけが良く、アンデス山脈の高地原産で冷涼な気候が好きなイモにとっては文字どおりの天国だ。一方、ソバの原産地は中国南部の高地だそうだ。当地のソバ作りは手作業が売りだ。刈入れ後は天日干し。手間がかかる割に収量は多くないが、作り手の愛情がこもっている。収穫されたソバは集落内の「蕎麦どころはんば亭」や民宿などでいただくことができる。
はんば亭から20分ほど遊歩道を歩いて、下栗集落を俯瞰する展望台に行こう。宅配便のテレビコマーシャルで見覚えがあるかもしれないが、この集落に配達トラックは似合わない。尾根を削ったような小さな斜面の農地に農家が点在し、背後にはアルプスの山々が屏風のように聳える、全くもって感動的な景観だ。集落の中を散策するのも楽しい。霜月祭は遠山郷の数か所で行われるが、下栗拾五社大明神もその一つだ。ヤシロを中心に、イエとハタケと背後のモリとの関係があるのみで、工場や鉄塔などの見苦しい構築物が少なく、ここまで見事に調和している三次元の集落景観も珍しいのではなかろうか。

下栗へは南アルプスエコーライン経由でも到達できる。地蔵峠から尾根伝いに縦走する全長14kmの林道で、最高点の標高1900mのしらびそ高原から見渡す周囲360度の山並は見事だ。日没には南アルプスが濃紺の海に浮かび上がり黄金の輝きを見せる。幻想的なマジックアワーを経て、夜は全面の星空。そして早朝には蒼から紅への変化に身震いする。これらの絶景に感動するには登山の装備は必要なく、お手軽なロッジに宿泊するかキャンプ場を利用すれば良い。しらびそ高原から下栗の里への途中には直径900mの日本初の隕石孔である御池山隕石クレーターがあり、道路からクレーターの崖が見られる。この点では国内に二つと無い貴重なルートで、分杭峠よりよほど神秘的だ。ひょっとすると隕石で生成されたダイヤモンドが見つかるかもしれない。

遠山郷からさらに南へ、青崩峠は長野と静岡の県境だ。かつて飯田方面から秋葉山を目指した参詣者のうち、体力が無い人々は峠の遥拝所から秋葉山を拝んで引き返した。その遥拝所が最近地元有志の手で復活したそうだ。青崩峠は未だ自動車道が開通していない。迂回路の兵越峠を越えて谷を下り、天竜川沿いに長い道のりを経て秋葉山に到着すると、旅の終わりも近い。
車でもそれなりに感動の巡礼を行うことができるが、秋葉街道の全行程を徒歩か自転車で往けばなお素晴らしいだろう。鳥や虫や水の音に癒され、馬頭観音などの石像や石標を探し、人々とのなにげない会話を愉しみながら、昔の人の徒歩旅と同じ時間をかけてゆっくりゆっくりと進んでみたい。


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