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長野県佐久市 塩名田

Shionada,Saku city,Nagano

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Oct.30,2016 柚原君子

中山道第23 「塩名田宿」

概要

中世には岩村田宿と同様に皇女八条院(1137〜1211)(平安時代)が伝領した荘園群の一つであった大井庄。その中に塩名田宿はあります。

塩名田は海など無いのに『塩』の字が付いています。海より遠い陸地であるにもかかわらず「塩」の名が付いている有名なところでは長野県では塩尻があります。塩を売りに来た人がこの辺で売り切れた事が多かったので「塩尻」という名が付いたそうで、運ばれてきた塩の道の最後という、いわば塩の輸送にちなむ意味での命名だそうですが、『古代地名語源辞典』の中には塩の付く地名には、その由来としてその他の説もあると出ています。

それは塩の泉説、特殊な粘土質の土壌にかかわる説、シボ(萎)むを意味する地形説などで、塩尻に近い塩名田は、塩尻同様に輸送にちなむ意味もあったかもしれませんが、近隣の布施温泉は含食塩炭酸泉であり、二つ先の望月宿にある温泉は含臭素塩化ナトリューム物泉であることから、土壌説、塩の泉説も有効に思えてきます。またくぼんだ土地という意味でも当てはまるような気がします。

塩名田の『名田』は現在では『なだ』と呼ばれていますが古代は『みょうでん』のことで『平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位』、とウィキペディアにあります。『塩名田』は平安時代の荘園群の一つであった大井庄の地であることと、塩に関するどれかの説が結びついたことが名称の由来と考えたらいいのかなと思います。

浅間山山麓は官牧と呼ばれる牧場があったところ。官牧は(御牧とも呼称)律令制度の確立(645年・大化の改新)により信濃・甲斐・武蔵・上野に朝廷直轄の御牧(みまき)を置いて、朝廷献上のために馬の飼育をした場所です。また古来より戦さは馬で行い、馬の調達は戦に勝つためになくてはならないものでしたので、平安時代の中期(1000年頃)には日本全国に60あまりの官牧があったそうです。そのうちの16牧が信濃にあり、佐久郡には望月牧と長倉牧、塩野牧の3牧があり、現在の御代田町や塩名田周辺には塩野牧(または望月牧とも)があったようです。塩名田宿には国の重要文化財に指定されている駒形神社、御代田には牧の入口を表す馬瀬口など、馬に関する名称も残っています。

1601(慶長6)年、江戸幕府が中山道を整え始めます。千曲川は氾濫することが多かったため、その東岸に宿を置く必要があり、近隣の住民40軒ほどを移動させています。開発はすべて塩名田村の豪農,庄屋,問屋ら丸山氏の一族が負担したと記録にあります。宿場の仕事である伝馬や宿泊を整えるほかに千曲川に面した塩名田宿はたびたびの氾濫で流されてしまう橋を架け直したり、重要な書類を舟渡しで送ったり、他の宿にはない任務が有り大変だったようです。

中山道が千曲川を越えていくのはこの塩名田宿の辺りだけで、しかも川幅は広く、急流ということもあり氾濫に至らないまでも越しかねる状況は多かったようです。宿では人々がしばし足止めをされますので、いやがおうにも賑わうことになりますが、それ以外の日は前後の宿が近いこともあって静かな宿であったようです。江戸方面より下宿、本陣のある中央の辺りを中宿、千曲川の手前を川原宿(かわらじゅく)と呼び、足止めで大名行列が重なることも有り、その事態を乗り切るために小さな宿場であるにもかかわらず本陣2軒、脇本陣1軒があります。1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、塩名田宿の宿内家数は116軒、旅籠7軒、宿内人口は574人となっています。

現在はJR北陸新幹線・小海線 佐久平駅から車で15分の位置。これより先の中山道は鉄道より外れていきますので、バスの便も多く出ています。

中宿の周辺には宿の家並みがまだまだ残っています。千曲川寄りの河原宿と言われた地域は、明治大正の頃、養蚕と米の生産地として栄えた塩名田に人々が寄り集まってきて、歓楽街として発展し、80人あまりの芸妓を抱える花街となっています。明治26年4月国道7号線に舟橋に替わって中津橋が架け替えられ、明治36年、志賀銀行塩名田支店開設、大正6年には工員170名を抱える製糸工場「中津館」も操業をつづけているなど、塩名田宿が一番栄えた時期となります。

  

行程

佐久平駅→(バス)(停・塩名田下車)→駒形神社→本陣・脇本陣→佐藤家住宅→正縁寺→川原宿・角屋→千曲川・船つなぎ石→バス停に戻る

1,駒形神社

所在地:長野県佐久市塚原字新城

先回は荘山(かがりやま)神社の先の中部横断自動車道の高架を最後に御代田駅に引き返しました。日本橋からの出発の中山道ですが、碓氷峠越えから先は新幹線使用で日帰り又は一泊で先へと進んでいます。前の岩村田宿で自転車調達で急な山道登りばかりで息が上がって懲りましたので、今日は佐久平一泊の後にバス便を使ってみます。乗り継いで次の八幡宿その先の望月宿までは時刻表が分かっていますので行くつもりです。

というわけで塩名田宿を目指して佐久平駅前のバス停より1番の中仙道線立科町役場行きに乗ります。これまでの歩き、自転車とは違いますのでもしかしたらほんのちょっとある道祖神などは撮りはぐれるかもしれません。佐久平駅より4つ目の『塩名田』バス停下車。乗車時間はわずか10分。塩名田と書いてある交差点に戻り右に分かれている道を上って行くと、左手森の中に駒形神社があります。ずっと昔は城の跡とかの言い伝えもあるそうで、砦のような山と深い樹木です。

本殿は室町時代末期に佐久郡の耳取城城主・大井政継が再興したもので国指定の重要文化財となっています。祭神は騎乗の男女二神像で望月の牧の守護神と言われています。鳥居の先に見えるのは覆屋と呼ばれるもので本殿は中に納められていますがよく見ることができません(公益社団法人の八十二文化財団のHPを訪れると本殿の写真があります)。社務所もありません。国の重要文化財があるのに管理する人がいない神社というのも不思議な気がします。

                                          

2,本陣・佐藤家住宅

所在地:長野県佐久市塩名田

『塩名田』の交差点に戻ります。塩名田宿の標識を見ながら交差点を渡ったところが塩名田宿の『下宿』といわれたところです。宿の東西には枡形があるはずですが、塩名田宿は京方面の枡形は残っていますが、江戸方面には残っていません。一本のまっすぐな宿の道が続いています。ところどころに当時の屋号が掲げられている家があります。

『てっぱ茶屋・鳴釜屋』とあります。屋号が釜が鳴るとありますので、てっぱは鉄の入れ物のことでしょうか。威勢のいい茶屋だったのかと想像します。「上・上羽屋繭問屋」の看板を掲げた家が見えてきますが、塩名田が宿として機能していた時代ではなく、養蚕が盛んであった頃の明治以降の旧家のようです。『佐野屋 彦左衛門』、『大黒屋』『佐野屋房之助』と続きます。間口が広く旅籠であったのでは?と想像されます。

左側に『総合食品店 大井屋』。その大井屋の縦の看板の下に『本陣 丸山善兵衛』とあります。塩名田宿を作るのに苦労された塩名田村の豪農,庄屋,問屋ら丸山氏の同族と概要で記しましたが、この先にあるもう一つの本陣も丸山家です。しばらく行くと『泉屋』。何屋さんだったのでしょうか。その他にも宿の面影を残す家々があります。窓はサッシに変わっていますが二階は連格子の風情。パラボラアンテナが出ているけど虫籠窓であったりして、見応えのある街道筋だなぁ、と思います。

右側に切妻・大屋根の丸山新左衛門家・本陣があります。1756(宝暦6)年の再建です。居住中で見学はできませんが、宿場関係の資料はたくさん残されているそうです(非公開)。切妻屋根の上には丸の字の鬼瓦が乗り、威厳のある建物です。ここが宿のほぼ中央。続いて高札場跡があります。高札場は幕府からの回覧板のようなものですが、毒薬偽薬、親子兄弟間の道徳なども掲げられていたと説明版にあります。大麻や殺人の多い現代にも、このような掲示板があるといいのにと思いつつ過ぎます。

ななめ向かい側に『佐藤半左衛門家住宅』。1831(天保2)年建築。宿内最古の住宅で、主屋は木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、2階開口部は格子戸。 間取り図が掲示されています。旧屋号は『坂越九郎右衞門』とのこと。初めは農家であったのが町屋に変わった造りだそうです。新しい土蔵のある家を間に一軒おいてえび屋豆腐店。立ち止まって眺めていたら散歩のおじいさんが、江戸時代後期の建物らしいよ、と教えてくれました。70年ほど前からあるお豆腐屋さんとのこと。お隣は蔵を改造したような家。

この先、道は緩やかに下りとなり東の枡形に入っていき千曲川に行き当たります。釣り道具屋さんの家は『若狭屋 佐左右衞門光輝』とありますが、見上げると屋根の上には櫓とも高窓とも言われる養蚕農家の換気をするための窓が残っています。本陣手前にあった『上・上羽屋繭問屋』の看板を掲げた家同様に養蚕が盛んであったことを示す家です。

                                                          

3,正縁寺

所在地:長野県佐久市塩名田462

釣り道具屋さんの前の坂道は西の枡形跡で道が曲がっています。降りて行くと千曲川とその手前の河原宿ですが、右手奥にある正縁寺に寄り道をします。山門の前に珍しい石幢があります。石幢は灯籠のように火を入れる場所はなく、その代わりに六方向に小さな地蔵が1つずつ彫られていて六地蔵幢とも言われます。左右一対にあり、境内にも一つあります。佐久群の臼 田 町 字 十 日 町にある六地蔵幢は国の重要文化財ですが、ここにあるものは指定を受けていないようです。正縁寺由来によると、戦国時代には新善光寺、落合善光寺と呼ばれた寺であったけれども焼失して、1615〜1644年(元和・寛永年間)に再建されているとのことです。

                           

4,川原宿一帯・角屋

枡形を右前方に降りて行きます。養蚕と米の生産が盛んに行われた明治大正の頃にはこの川原宿一帯は千曲川に面して風光明媚なこともあり、花街として栄えます。道幅は当時のままですが建物はほとんどが昭和初期のものです。貴重な街道であっても暮らしが優先です。通り過ぎる私たちにとっては、雰囲気が残っているだけでも良しとしなければならないでしょうね。

花街の名残である休み茶屋角屋があります。切妻、桟瓦葺、平入で楼閣風です。川原宿のこの道は通称お滝通りと言い、木造三階の建物が目を引きますがちょっと特殊な事情があります。千曲川を越える手段は街道が栄えた頃は渡し船、または木の橋でしたが、昭和6年に鋼プラットトラス橋(中津橋)が取り付けられて、国道が高い方に移動したために、出入り口を国道に設けるために、住居の階数を増やしたそうです。建築基準法が成立したのは1950(昭和25)年ですので、それ以前の建物ということでしょうが、見事な3階建て、中には4階建てというのもあって、見上げてしまいます。

国道に登っていく細い石段も数カ所見られます。通り過ぎてきた丸山本陣前のバス停には『ようこそ 塩名田宿へ』という大きな地図看板が掲示されていますが、その下に塩名田の川原宿・花街の説明が記されています。

『塩名田が活気を帯びてくるのは明治三十年代であろう。料理業2名が移転してきて営業、新角屋は上等の芸妓屋で三十三年に開業、四十四年に新築して名声が上がった。塩名田が花街として形成された要因は北佐久の中央、千曲川の川端にあり交通事情が良好であった。商家も営業を求めて詰めかけ、銀行、肥料会社、製糸工場もできた。住民は養蚕に精を出し始めた。しかし、昭和十年代になると平穏な世相は一変してしまって三味線の音も消えていった。』

中山道として栄えていた頃のこの一帯は、瀧大明神の境内で湧き水が豊富で、塩名田宿の湯屋や鯉を養殖する人々もこの湧き水を使っていたとあります。角屋の前にある十九夜搭は、十九夜念仏を唱和して健康の増進、出産の無事を年に一度集まって祈念する行事を女性のみが行う念仏講のことで、塔には1839(天保10)年と記されてあります。

右側にクィックしていく道をさらに降りて行きます。続く石畳。道路の左に寄せられた用水。亀屋という茶屋の塀の上に延びる粋な松。間口の広い讃岐屋、見せ場のような格子戸、遊女がいたのでしょうか。普通の旅人が泊まりそう大丸屋旅籠と続いています。突き当たる左手に赤い中津橋と千曲川。文化財である『船つなぎ石』があるそうですが、川原の葦が多すぎてどの石かは不明。

今は穏やかな千曲川ですが、昔は荒れた川として有名だったそうで、橋が何度も消失する激流。江戸中期の1722(享保6)年から1743(寛保2)年は対岸の御馬寄側が刎橋、塩名田宿側が平橋で両方から橋をかけたようです。橋を管理する『中山道塩名田・御馬寄村の間千曲川橋組合』というものもあったそうですが、江戸時代が終わって明治維の頃に解体されて舟橋会社となり、その頃には9艘の船を繋いで、その上に板を渡す方法がとられたそうです。その時の船をつないだ石が文化財『船つなぎ石』として現在、川の中に残っています。川原宿から見上げると遙か高いところに赤い中津橋があります。橋を歩いて渡ってみるために細い石段を登ります。河原宿を見下ろすと、屋根を寄せ合ってポツンと取り残された一角が見え、足下には桔梗が咲き、千曲川は意激流と恐れられたことが想像できないほどの細い川幅でゆるやかに流れていました。

                                            

昨日から佐久平入りをして、昨日は山越えの自転車で顎を出し……、今日はもう疲れきっているので歩けません。これからバス停に戻り、バス便で次の八幡宿を目指します。


駒形神社

Komagatajinja

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佐久市塚原字新城 駒形神社本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 文明18(1486)頃 一間社流造、とち葺 棟札4枚 19490530


Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie 

                                

塩名田

Shionada

                                                                


June 2005 瀧山幸伸

Map 岩村田から塩名田

Map 塩名田

中山道 岩村田から塩名田 ドライブ

Nakasendo Iwamurada to Shionada drive

  HD quality(1280x720): supplied upon request.

Sep.2008

平塚付近の農村景観 source movie

   

中山道 塩名田 宿場内 ドライブ

Nakasendo Shionada town drive

June 2005  source movie

塩名田

Shionada

June 2005  source movie

本陣跡

   

塩名田の街並

 

舟つなぎ石

   

川端の街並

   

取材メモ

中山道では川越えに難儀した場所。川魚の料理屋は寂れていたが、町の人々は素朴。

駒形神社(国重文)

Konagata jinja

June 2005   source movie

     

取材メモ

 舟つなぎ石の川原には草が生い茂り、駒形神社参道下を流れる川の水は汚れ、ゴミが大量にあった。文化財がこのような状況になっているのは残念。地元で管理しきれないのであれば、中山道ウォーカーがボランティアで協力するプログラムも必要だろう。ハイカーが地元の人と共に作業し、昔話を聞く、一緒に食事する、このような体験は双方に有意義だ。

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