JAPAN GEOGRAPHIC

長野県長和町 中山道 和田宿 

Wada,Nagawa town,Nagano

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Nov.4,2019 柚原君子

中山道 和田峠

概要:

和田峠は長野盆地と松本盆地の間にある筑摩山地内の峠。旧中山道において和田宿と諏訪宿を結んでいます。

標高1531m。黒曜石の産地で石器の材料となったことから、旧石器時代からそれなりに交通路としては開けていたようですが、江戸時代に中山道の通路となりさらに重要な峠となります。

東海道は太平洋側の海沿いを行きますが、中山道は山の中を行く街道ですから峠越えが多く、なかでも和田宿と下諏訪宿の間にある和田峠は、約22キロもある長い行程とその険しさにおいて中山道一の難所といわれています。

和田峠は和田宿側から登ると、和田宿ですでに標高830メートルあり、その先の登坂口となる男女倉口(標高1100メートル)までは町営バスもありますので、残りの500メートルを登ることになります。道は比較的ゆるい坂が続き、道幅も特に狭くはなく健脚であれば軽いハイキングコースの様子です。

一方、諏訪宿側からの登りは、七曲がり坂や、ロープ伝いのガレ場、よじ登るかのような坂が多く、行程も長く傾斜も和田宿側からのアプローチが平均6度に対して諏訪宿側からの平均傾斜は11度ときつい行程です。

和田宿側に宿泊して、翌朝より和田峠越えに向かったのですが、登りに多少の息は上がりましたが、むしろ頂上より諏訪宿側への降り道の角度険しく長く、途中に国道を何度も横切りながらの下山は足がガクガクして嫌になるほどでした。

鳥居峠のように鳴らして通る熊鈴の設置はありませんが、熊がいるので鈴を鳴らしながら通行して下さいの立て札は何ヶ所もあります。当日も山道の中央に大きな熊の排便が2ヶ所みられ、そのうちの一つは比較的最近のもののようで、ねっとりとして冷や汗が出そうになり、持参の笛を吹きまくりました。

地域一帯の特産である黒曜石は山中を見わたせば割合落ちていることもあるそうですが、熊の糞があるのでそれどころではありませんでした。ちなみに黒曜石は許可がなければ採掘持ち出しはできません。

1,新宿~上田~長久保宿浜田屋旅館宿泊

前日の午後、新宿からあさま809号長野行きで上田駅下車。バスで丸子中央病院から乗り継ぎをして長久保終点まで1時間。バス操車場の目の前にある浜田屋旅館に宿泊。長久保宿唯一の旅館。趣のある三階建ての2階のお部屋でしたが、トイレが1階でものすごく急な階段を降りなければならず少し閉口しましたが、明日の峠越えの予行演習かと思えば納得(笑)。

翌日の昼食のおにぎりも作って頂いて、夕食朝食もたくさんで美味しくて満足。

                                 

2,唐沢の一里塚(両塚現存)

いよいよ念願の和田峠越えに出発です。朝7時半の町営バスに乗り、登山道の麓にある和田宿の立場で五軒の茶屋があった旧唐沢村に8時10分到着。唐沢は静かな集落です。和田宿の立場にあたるところで茶屋本陣(大名や公家が中山道通過の時に休憩した場所)は「羽田家」。その家の門柱には「本陣」の表札が掲げられています。羽田家の正面の山の中に唐沢の一里塚があり行きたいのですが、どこから登って行くのか案内がなくウロウロしましたが、国道を峠の方向に少し行って緩やかに左に曲がっていくところに入口案内がありました。

両塚がとても美しい形で残っていました。塚と塚との間はわずか3メートルくらい。中山道は国道と並行しているところが多いので、ついつい大きな道巾を想像してしまいますが、このように両塚が綺麗にそのまま残っていると、街道をいききした駕籠がやっと通れる事が実感できます。

唐沢の茶屋本陣のある集落よりも外れて山の中にあるのは、江戸時代に中山道が整備される以前の古い中山道にあったものが現存しているとのことで、探しづらくても国道で壊されることもなくて今あるのはうれしいです。

                          

3,避難小屋と三十三体観音

一里塚より再び国道に戻り歩きます。観音沢バス停、男女倉(おめくら)バス停を過ぎて和田峠口に。

この地点で標高1100メートル。11月初旬の朝8時半の気温は2度。国道と離れて右に入っていくと登山口です。「国史跡 歴史街道 中山道」の大きな石柱があります。

和田峠を越える大名で幕府から公認されているのは30藩あまりですが、東海道に比べて川止めがないので行程を予定通りにほぼ終えられるところから、公認されていない大名もお願い書を出して通過したとのこと。特に和宮降嫁は12月初旬の積雪期で大変だったそうです。

50人50匹という宿常備の伝馬がありますが(人、馬などの継立てに要する費用を無料で提供)、それだけでは足りず、年貢を免除されていたにしても助郷も含めた宿の負担は多かったようで、和田宿脇本陣にある記録によると、1803(享和3)年には1300両(現在の価値で1億三千万円程度)を10年の無利子で借り受けたという記述もみられます。

峠の入口で足元のサポートをしっかりとして、落葉でふかふかした道を熊出没の看板に少しびびりながら進んでいきます。

避難小屋と三十三体観音。冬期には積雪の多い峠です。人も馬も難儀したのでしょうね。お助け小屋と道中で命を落とした供養と道中安全を祈った石物群です。山の中腹にあった熊野権現社にあったものを発掘調査の後にここに集められたとあります。

                              

4、永代人馬施行所

カラ松とモミジの紅葉。弓をつくったという真弓の桃色の花の咲く木を仰ぎ見ながら道を行きます。道は行政によって良く点検されている様子で木橋が朽ちての応急処置も金属製の梯子を寝かせて橋の代わりにしてあります。山の湧き水が細い川になって幾筋も流れているところを乗り越えていきます。

30分ほど歩いて国道142号線に合流したところにあるのが「接待茶屋跡」。永代人馬施行所です。立派な茅葺き屋根。1983(昭和58)年、国の歴史の道保存事業の一環として復元。

永代人馬施行所といえば碓氷峠にもありましたが、作ったのは江戸呉服町加勢屋の与兵衛という人(鈴鹿峠、箱根峠にも同様にして作られた)。

与兵衛さんは大阪府の出身なので江戸との往復に峠越えをいくつもして、人も馬も息継ぎ場所がないことを実感。馬には1年中に渡って飼葉を与え、貧しい人や人足には冬期には粥を与えて薪火を施行。馬には煮た麦を与えたそうです。金千両をだして、その金利百両を運営資金にしたとあります。当時の金千両は今の約一億。

復元された永代人馬施行所の真ん中に大きな囲炉裏。暖をとった旅人や人足、繋がれた馬たちの当時の姿が目に浮かぶようです。

                       

5、殉職の碑~避難小屋

カラ松林が紅葉をしています。すっきりと整列の植林は清々しいです。枯葉を踏みしめてカラ松の整列を見て進みます。上り坂は思っていたより緩やかです。道の傍らに小さな石。殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑です。

明治22年、上田警察署丸子分署詰となった22歳の近藤巡査は、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中に逃走しようとした犯人ともみ合いになります。犯人の投げた石が顔に当たり倒れたところを腰の剣を抜かれて腹部を刺されて殉職、というのが事件のあらましです。

翌年より和田村では村民をあげて慰霊祭を行いそれは50年近くも続いたとのこと。その後に殉職の碑が建てられたそうです。若い巡査が犯罪人をこんな山中を一人で護送して命を落としてしまったのか、と思うとなんだかやるせないです。

避難小屋は廃屋同然。倒木が道を塞ぎ苔むした石畳が残っています。

                                   

6、広原の一里塚

三つばかりの湧き水の流れる小さな川と小さな橋を越えると広原の一里塚。植えられた木はなく、こんもりとした山があります。

その先、キャンプ場があるようですが荒れています。和田峠は黒曜石が産出されますが、特にこの近辺は地面の上に現れている場所が10ヶ所ほどあるそうで、もちろん持ち出してはいけません。後期旧石器時代の遺跡が発見されている場所でもあります。

国道に合流してそのまま東餅屋立場跡まで歩きます。数年前までは営業されていたようです。黒曜石の大きな看板があります。

和田峠に登っていくこの辺りは東餅屋村といい五軒の茶屋があり名物の餅を売っていたそうです(鉄道が開通されると通る人もいなくなり茶屋もなくなったと説明板に記してあります)。

寛永年間には一軒につき一人扶持(一日玄米5合)を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたり、幕末には茶屋本陣も置かれたところ。

                             

7、峠

標高1400㍍の東餅屋立場跡を過ぎて国道を離れて少しの間だけ石畳のような道を行き、再び国道に出て横切ってまた山道の旧中山道に入って行きます。これから国道を横切りなさい、直進して山道行きなさいの指示が多く出ますが、いずれも案内板がしっかりあるので安心です。

中山道を切り刻むかのように作られた国道はビーナスラインと名付けられています。切り刻まれたのですから国道を横断したり、時には「コールゲート」と呼ばれている大きなマンホールのようなトンネルを抜けたりします。

和田峠を越えていく旧中山道は明治10年になると、先ほど過ぎてきた東餅屋から西に峠を越えて紅葉橋に下って西餅屋に達する道ができます。しかしこの道は明治29年頃に改修工事が行われて廃止になり、紅葉橋経由ではない新たな道ができます。そのために江戸時代の旧中山道を「古道」、明治10年の道を「旧道」、改修工事後の道を「新道」と区別されるようになります。

その後にはトンネルも開通していますので、徒歩で山道を行く人は、中山道歩きを楽しむ人が通過するくらいです。古道と呼ばれたところの名残りから峠の名称は『古峠』です。

ザクロ石を採ってはいけません、という営林省の看板なども見られます。黒曜石だけでなくガーネットも産出するのですね。

ビーナスライン~草道、草道~ビーナスラインと横切って行くのですが、ビーナスラインは有料道路ですから、観光バスなどもかなりのスピードでやってきます。用心して横切ります。

空が少しずつ広くなり標高160メートルの峠に出ました。最後の登りが少しだけ息があがりました。

俗に言う和田峠という古峠にでました。古峠は分水嶺でもあります。北側は千曲川→信濃川→日本海へ注ぎ、南側は諏訪湖→天竜川→太平洋へと注いでいます。

峠の説明板には

『中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や、一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の行き来などで賑わいを見せた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみとなった。(文化庁 長野県 和田村)』と記してあります。

説明板の後方には御嶽山座王大権現、本尊大日大聖不動明王があります。道を挟んで向こう側には賽の河原のように石が積み上げられてお地蔵様が祀られています。

登ってきた杉木立の間から見える町は和田宿。下って行く方の山並みの間からはっきり見えるのは下諏訪の町。その上に連なる山々。空は青空。周囲の山は秋の色とりどりの紅葉。

満足感でいっぱいです。峠を挟んだ前後の宿は歩き終えていたのですが、和田峠はなかなか決心が付かずに2年もの間を置いてしまいました。

前日泊った浜田屋旅館の女将さんに作って頂いたたくさん具の入ったとても大きなおにぎりを食べて、下諏訪宿に向けて下山します。登ってきた倍以上の道程があるようです。

                                                               

8、七曲がり~石小屋跡

これから諏訪宿に向かって下って行きますが、峠から下りる下山道は西坂。峠は冬期には3メートルもの積雪となり、中山道時代は雪踏み(雪割り)人足も出動したそうです。

降りる道は草道でしたが左の山肌はがれきのような場所。こういう所に黒曜石やガーネットの原石などが転がっているのでしょうか。その次は薄の穂がなびいています。飽きない景色です。

この先は『是より七曲がり』と書かれた急な曲がり坂。一つ曲がるごとに番号が付けられて小さな木札が地面にさしてあります。ガレ場の急坂。怖いような角度です。こんな細い急な道を、和宮の駕籠はどのように登ってきたのでしょうか。降りながら下諏訪宿側から登らないで良かったと、何度も思ったくらい急な下り坂が続いていきます。

ガレ場と呼ばれて難所と言われる所以の危険を伴うような急坂を、重心を保ちながら転ばないように降りて行きます。

峠から300メートルほど下ったところに石のお地蔵様らしき物。青い苔で覆われています。水飲み場のような石の樋が水をあふれさせています。

さらに100メートルほど下ると石小屋跡。説明板には『中山道和田峠(古峠)は、標高1600mの峠で、難路で知られました。下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は旅人も人馬も難渋しました。大雪の時には雪割り人足も出動した。下原村の名主勝五郎は、安政2年、(1855)避難場所と荷置場を造ろうと郡奉行所に口上書を差し出し、馬士の出金、旅人等の援助乞うて五十両ほどで石小屋を築いた。石小屋は山腹を欠いて高さ2mの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣から雨落ちまで2.3m×長さ55mという大きなものでした。人馬の待避所や荷置場には絶好の施設であった。その後慶応③年に修理したが、現在は、石垣の一部を残すのみ』、とあります。

登ってくる途中には人馬施行所、避難小屋、そしてこの石小屋と呼ばれる避難小屋。ほんの少し残っている石垣。峠を難儀しながら越えた当時の苦労を思います。

                            

9、熊の排便跡!! 西餅屋立場跡~一里塚

一人やっと通れる細い下山道。あっ!なにこれ!「熊のうんち!」のようです。ビックリ!!排便したばかりのような柔らかい感じです。背中がゾクッとし思わず周囲を見回してしまいました。

そういえば、朝、町営バスの出発の時に近所のおじさんが、和田峠で熊の排便を見たという人がいたぞー、と脅かされたのでしたが本当だったのですね。持参の熊鈴を激しく鳴らし、さらに持っていたホイッスルを吹きまくりました。

熊は怖いのですが、整列したカラ松に赤い花に青い空の下の峠は気持ちが良い~っと思っていたら、5月頃にこの先の西餅屋付近で熊の目撃情報があるのでお気をつけくださいという白い立て札が。ふたたび緊張!!!

ビーナスラインを横切り、時にはガードレールが無理に切っており曲げて中山道へと導いてある道を行きます。下り坂は相変わらずで膝がガクガクします。枯葉に覆われた細い道にはドングリや栗、松ぼっくりが落ちています。熊も冬眠前の食欲があるころかと思いながら、首からぶら下げている笛を吹きます。

先ほどの熊の排便を見てからなおさらに周囲をキョロキョロして歩くこと1時間。道祖神と牛頭天王の碑。少し平らな場所は「西餅屋茶屋跡」。人馬引き継ぎの立場跡でもあります。この場所には茶屋本陣の小口家、茶屋の武居家、犬飼家、小松家があり、重湯のようにしたうるち米を氷点下の外気で自然乾燥させた「氷餅」が名物であったそうです。

西餅屋茶屋本陣付近では1864(元治元)年11月に水戸の天狗党対松本・諏訪の両藩兵による戦いがあり現在では少し平になった広い場所に説明板があるのみです。

中山道には天狗党の痕跡が多いです。

日本は江戸時代の末期に開国をせまられますが、天皇を尊び外国の侵略から守ろうという尊王攘夷思想が広がります。この思想は急に起ったわけでは無く、特に水戸藩において2代藩主であった徳川光圀の頃から始まっています。その思想は9代藩主となる徳川斉昭の頃に高まりを見せ、積極的に藩政改革を行うのですが、その姿勢が鼻高々に見えたところから「天狗党」と呼ばれるようになります。

尊王攘夷の実行を幕府に促すために、藩内の筑波山で挙兵し、他藩の武士や農民なども参加して勢力を拡大していきます。しかし、天狗党の一部の派が軍資金不足を補うために、近隣町村の宿で、役人や富裕層から金品強奪、焼き払いなどの行動をしたために、天狗党には悪いイメージも付いてしまいます。

挙兵はさらに京都にいた徳川斉昭の子・慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えることを決め、武田耕雲斎・藤田小四郎などの1000人あまりの大部隊を編成し、京都をめざして西上します。これが中山道を京へと進軍していく天狗党の顛末です。

西餅屋茶屋付近で戦ったのちに、美濃まで進みますが追討をかける諸藩が街道を封鎖。天狗党は越前に迂回したのちに孤立して、前方で待ち受ける加賀藩に降伏して50日あまりの進軍は終わります。

西餅屋茶屋本陣を過ぎて、ビーナスラインを越えてガードレールの間から再び中山道に入ったところに「西餅屋の一里塚」があります。まん丸い石の跡碑です。標高1254メートル地点です。

                                                        

⒑、ロープ伝いのガレ場 再び熊の糞

この先は一番危ない場所。細い道でガレ場でロープにつかまりながらの下山です。落石・崩落注意の行政の看板があります。左下は崖。沢の水音が聞こえる中、道幅1メートルもないところをロープにつかまって降りて行きます。どういう風に歩けばいいの?とためらう個所もあります。

危険な道の途中に再び熊の糞。びくっとします。道にわざわざするということは威嚇でしょうか。すれ違う人も誰もいない中山道。怖いです。それでも20分ほど歩いて国道に出ます。中山道の山道が終了しました。

これから樋橋茶屋本陣跡までは国道を歩きます。途中に天狗党水戸浪士の墓の案内が出ていましたが、バスの時間が迫っているのでパスです。暫く行くと右手に浪人塚の案内。

水戸の天狗党が西餅屋茶屋跡付近で戦ったときの戦死者をここに葬っていったので、諏訪高島藩が後に塚を築き菩提を弔い、六柱の氏名が刻まれているそうです。

ただし、それには異説もあります。墓所の形が水戸藩の物に似ていることから、水戸藩の繋累かあるいは尊王攘夷、倒幕の流れで明治の新政府が作ったものかもしれないという説です。

浪人塚は国道より下の方に降りていく感じです。また国道の案内のある近辺にその道もなく。山越えしてきた足の痛みもありパスします。

浪人塚を過ぎて樋橋を渡る手前の山中にカモシカが現れました。目と右頬を腫らしているカモシカでした。ジーと見つめられたあとにカモシカは山の中に戻っていきました。

養蚕の神様である蠶玉(かいこだま)神社の鳥居が国道の下の方に見えます。国道が通る以前の中山道の道でしょうか。

藁葺き屋根の民家に庭の柿が鈴なり。樋橋一里塚跡碑があるそうですが、工場の敷地の中とのことで探せず、樋橋茶屋本陣跡に出てしまいました。跡碑の写真を撮ったところで町営バスがやってきて慌てて飛び乗りました。逃すと1時間後にしかバスが来ないので必死です。

本当は茶屋本陣の説明版があったので撮りたかったのですが、気持ち残しながらバスに乗車。下諏訪駅近くの八木温泉前で下車して220円の町営温泉に入って、体を休めたた後に帰京しました。

                                                         

帰宅後に調べた茶屋本陣説明の内容は下記。

『下諏訪指定文化財

江戸時代のはじめめ中山道は五街道の一つに指定されて幹道になり宿駅の整備が行われその時、下諏訪・和田両宿間、五里十八丁(約22キロ)の峠路に立場茶屋としてつくられた一つがこの樋橋で茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に何軒か茶屋が出来た。本陣には御殿とよぶ小建築があって文久元年十一月六日には和宮様のお小休みがあった。元治元年十一月には和田嶺合戦の戦場になるなど交通の要地なるがゆえの事件はたくさんあった。昭和四十五年六月一六日 指定 下諏訪町教育委員会』


June 2018 柚原君子

和田宿 概要

標高820メートルの長野県小県郡に位置する和田宿。中山道で一番の難所となる標高1640メートル和田峠を控えているその手前の宿です。次宿の下諏訪宿に向かうには和田宿を抜けた後も延々と緩やかな登り道を行き、たどりついた男女倉(めのくら)から入山して、さらに和田峠を越えなければなりません。

次宿までの距離は23キロ(五里十八町)。健脚な旅人でもゆうに6〜8時間はかかる峠越えですから、和田宿には一泊の必要があり、人々が泊まる旅籠のみならず中山道を行き来する荷物も人や馬と共に留め置かれます。馬を泊める家なども含めて伝馬役だけでも70軒はあったという大きな宿となっています。

伝馬役とは公用通行の貨客に対する人馬提供で原則として一宿ごとの継送(つぎおく)りを負担するものです。馬役と歩行(かち・人足役)役があり、その提供数は街道ごとに幕府より定められます。東海道は100人100疋、中山道は50人50疋、その他の街道は25人25疋です。

和田宿は家の戸数は110戸でそのうちの伝馬役は70戸。70戸をさらに馬役と歩行役にわけ、馬は毎日50匹を用意して、その中から常時荷物などを中継する馬を45匹とし、緊急用に5匹は待機させる用意をしていたそうです。

和田宿は京方面に行く荷物は和田峠を越えての中継ですから、荷を積んで早朝に和田宿を出ても下諏訪宿から帰ると深夜になり、人馬共に休む暇もなかったといわれています。また歩行役は荷物を背負って輸送する人足役のことで和田宿には24人いたそうですが、人数がたりないときは隠居、後家、問屋場の小使い、寺の小僧、よそからの出稼ぎ人、果ては病弱者を除く全員というおふれが出ることもあり、安い賃金で峠越えまでしなければならず、それを嫌って他所に移住する者も出る始末で、1713(正徳3)年には近隣の橋場・新田を宿内に入れて全員を歩行役にさせるなどと「和田村町在方百姓論争」となる記述もあります。

江戸時代は中山道を通る参勤交代の大名も多く、また、皇女和宮が徳川家に嫁ぐ行列の通過道であったことも、それぞれの宿で一大出来事となっています。

和田宿も通過の8ヶ月前に宿の大半を焼失する大火災が発生し、幕府より急遽2000両の借金をして、宿泊所である本陣やその他の建物を全て整えています。現在の街道筋の建物は築年第が全て同じというわけです。そして、前後4日間にわたる行列の総人数、京方一万人、江戸方1万5千人、通し雇い人足が4千人という膨大な人数を無事に通過させています。

宿泊所は和田宿内だけでは足りず、近隣の村も総動員はもちろんのことですが、それでも足りず、下級のものたちは寺の軒下や、納屋の庇の下に寝たとあります。

江戸時代の和田宿近辺往来はとても賑わいますが、明治期になってもう一度激しい活況の中に置かれます。

宿駅制度は既に解体されて人々はそれぞれの生業の中で暮らし始めていましたが、1896(明治29)年、和田村は、王子製紙による大規模な山林伐採地となり(王子製紙(株)『王子製紙山林事業史』(1976.06)の中に記載/「黒田忠一等から、信州下伊那郡和田村の和田村外五カ村共有の遠山山林を一〇万九、〇〇〇円で購入」)、山林労働者でふくれあがります。現金を手にした労働者達は和田宿で食べたり飲んだり遊んだりしたそうで、多くの酌婦や料亭が出来、最盛期には飲食店は20軒もあったそうです。(参考資料:NPO法人和田の明日を考える会、ネットコトバンク)

和田峠は古来より黒耀石の産地です。また男女倉に国道を通すときに男女倉遺跡として発掘調査が行われ、旧石器時代石器28228点、縄文式時代の石器5514点が確認されています。

和田宿は新幹線ルートや在来線ルートからかなり離れた位置です。上越新幹線「上田駅」よりバス乗車50分という不便な地のこともあり(「佐久平駅」からも同等くらい)、観光客が少ないおっとりとした宿となっています。また史蹟が多く残り、宿全体の整備はきちんとされていて、湧き水あふれる肥沃な穀倉地帯であり、松茸も採れる豊かな山林まで控えた(旅人には関係ありませんが)、なんだかとてもお金持ちの和田の郷という印象です。

1 上田駅〜長久保バス停〜三千僧接待碑

7時18分ASAMA18号で上田に向けて出発。上田駅下車後はバスにて長久保宿まで50分乗車(佐久平側から入るか上田側から入るか、和田宿に行くにはこの二通りしか有りません)。先回は四日の一里塚まで歩きましたので、本日は続きを歩きたいのですが、体調不良なので「青原」の交差点を過ぎた先の二つ目のバス停「上立場」まで町営バスで行きます。どのようなシステム化分りませんが、町営バスは上田駅から乗ってきた賃料に含まれているという説明で無料でした。

神社の屋根の形をした「上立場」で下車。農業用排水溝のマンホールの蓋は「木曽街道 和田」と記されています。案内板がないので分りませんが、立場の跡と相馬家の門と思われるところまで戻り、本日の和田宿はここから出発です。

左側に三千僧接待碑。説明板には

「信定寺(しんじょうじ、和田宿にある)別院慈眼寺境内に建立されていたものが、寛政七年(1795)この地に移された。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした。三千の僧侶への供養接待を発願した、と碑文に刻まれている。碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の「一」の字を三千僧の「三」の字に改刻した痕が歴然としている。当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の六年に渡る凶作続きの際にはジャガイモの粥などで賄ったことがあると言われている。(和田村・長野県・文化庁)」とあります。

少し行くと左側に猫の像が有ります。福の字が刻まれています。ひげの数がとても多くてほほえましいです。気にならない程度の緩やかな上り坂を行きます。右手に庚申塔。神と祭という字が見える碑があります。獅子舞いで邪気を払うのでしょうか。子どもたちも笑い楽しそうな絵です。

「下和田上組」のバス停も神社風。その先の家は雪深い信州らしい急傾斜の屋根です。山里の風景の中の道をゆっくりゆっくり上っていきます。注連縄を掛けられた馬頭観音。

                                                     

2 若宮八幡神社〜上組の一里塚碑

馬頭観音の先、左側の森は「若宮八幡神社」

説明板によると、

「長和町指定文化財 若宮八幡神社本殿・ 和田城主大井信定父子の墓」祭神は、仁徳天皇である。本殿は、一間社流造の間口一・五メートル、奥行一・七メートルの大きさで棟札には享保六年(1721)建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪偉文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。天文二三年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。元禄六年(1693)その回向の為信定寺第六世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した。長和町教育委員会 」とあります。

棟札に記された年号のころは徳川吉宗が征夷大将軍となり、大岡忠相が江戸南町奉行になり目安箱が設置されたころ……草の伸びた中に小さめの鳥居と小さめの本殿。なんと、本殿は茅葺き屋根で本殿覆屋と呼ばれる中に納められています。これも江戸時代からあるといわれれば、なんだか不思議な気がします。

神社の先には「上組の一里塚碑」が見えています。一里塚は道路改修で取り壊されてしまったそうですが、道路を少し曲げることは簡単なこと。歴史は帰ってこないのだから残して置いて欲しかったと思います。

                

3 和田宿入口

原という地域にやってきました。きのこセンターの文字。畑にソバの花。赤いとんがり屋根のバス停。和田小・中学校の案内板を過ぎるといよいよ和田宿入口です。道祖神と小さなお社を通過。和田神社の鳥居が道路の脇にあります。奥に本殿?が。この位置からは見えません。土地の方にお訊きしたら、右の中学校(ちょっとレトロな建物)の奥の方に本殿はあるそうです。行くか迷いましたがパスします。

                              

4 八幡神社

風情のある家が続いていきます。家は大きくありませんが木鼻彫刻の立派な家も。やがて見えてくるのは八幡神社。先ほど過ぎてきた若宮八幡神社は和田城城主であった大井信定父子が埋葬された場所。こちらは和田城の鬼門よけとして建立された後に和田宿の守護神となった神社。拝殿と覆屋が一帯となっている珍しい造りだそうです。菩提寺の先に水場と祝言道祖神があります(平成3年建立)。宮廷衣裳が可愛いです。

                                  

5 旅籠河内屋(歴史の道資料館)

火の見櫓の隣の消防団の軒先にツバメがいました。子ツバメが成長して飛び出す少し前の大きさです。

この先は石垣に積み上げられた家が目立ちますが、江戸時代は先ほど越えてきた追川の先から街道の高低差が3メートルもあり、その差を無くすために明治期になって街道を掘り下げたとので、掘り下げた分だけ石垣になっているそうです。

旅籠河内屋。資料館になっています。入口の看板には本陣の文字も見られますので本陣かと思ってしまいますが、ここは旅籠。少し迷ってしまうような看板です。

河内(かわち)屋は大火災のあとの1861(文久元年)年建築。出桁造り出格子間口八間半奥行き11間半。建坪は98坪もある旅籠で、上客向けであったそうです。現在は歴史資料館として公開されています。土間に「一新講」の看板があります。看板は旅籠の質を保証するような意味があり、江戸時代に旅した人々が旅籠の善し悪しの目安にした看板です(後日調べたところ、一新講が創られたのは明治初期でした)

次ぎにあるのは、公開されていませんが屋号を山木屋という下の問屋。大きな家が続き見応え十分です。

                                                 

6 大黒屋〜古久屋〜本陣

下の問屋のお隣は旅籠の大黒屋。安政年間から昭和初期までは穀物商を営んでいたそうです。自由に入って間取りなど見られます。とても大きな建物ですが暗いです。でもそのおかげで江戸時代の暗さの雰囲気が分かります。明治時代に道路が掘り下げられたので、街道より少し奥に移動させられたそうです。

お隣の薬医門のある土蔵は穀屋(古久屋)。続いて旅籠を営んでいた黒木屋。脇道の奥に信定寺が見え、その上の山は和田城跡。街道に連なるどの家も重厚にして品があります。

先に進んで、本陣の向かい側にあるのはお蕎麦屋「徳田」。薬医門の付いた立派な町屋で、明和期から明治初期まで名主を務めた脇本陣羽田家の家屋です。六文銭の彫りの有る看板。和田宿は小県郡。真田幸村のドラマでは良く出てくる地名です。真田氏とどのような縁なのでしょうか。

いよいよ本陣です。

明治時代になって新政府の元、中山道などの宿駅制度は廃止されますが、宿の人々がその方針に背かなかったのは、住民達の肩にあまりにも大きな負担が乗ってしまった宿駅制度に辟易していたからだと言われています。それゆえ本陣などを壊すことに抵抗のなかった時代でしたが、和田宿本陣は主屋(居室棟)の解体を免れて役場や農協事務所などとして活用されます。

しかし1984(昭和59)年の村役場移転にともなって解体される計画でしたが残されることになり、5年後に現在地で本陣主屋として復元されています(皇女和宮が宿泊した本陣の御殿と呼ばれた奥座敷は上田市の龍顔寺に移築再建)。

本陣屋根は杉皮葺で石を重しとしています。部屋数14もあり間口12間は宿内最大、1335坪の大きな本陣ですが江戸時代はさらにもう少し大きかったそうで、現在の道路になっている方側に御殿があったそうです。

遠くの雷鳴が割合早くに近づいてきて本陣一帯は雷雨になり、しばし足止め。土間に座って本陣から雨足を見て静かに和田宿を味わいました。

                                                                                               

7 信定寺〜なが井家〜脇本陣〜「萬屋」(よろづや)

雨足が弱まったので先ほどちらりと見えた信定寺に。

戦国時代の末頃に和田宿は城下町で、この寺の辺りが中心地だったそうです。和田城主であった大井和田氏は信濃に侵攻した武田信玄に敗れ戦死して廃城となります。大井氏は大井修理大夫信定といい、信定寺は信定が住んでいた館の跡で、菩提を弔うためにお寺が建てられたという経緯です。

信定寺の裏山は古峰山(こぶさん)。この山の上に和田城跡があります。残念ながら雨が降り止まず40分ばかり楼門の下で雨宿りしたので古峰山の方には行かれませんでした。

信定寺の楼門は柱がやや細い感じで、山門の位置もなんだか背高のっぽのような感じですが、見栄えがあります。

江戸時代の14代住職は佐久間象山の師と仰がれたとか。また歴史的価値の高い宝物も多く、参勤交代の諸大名の参拝が絶えなかったそうです。

雨がなかなかやまないので、意を決して街道にもどります。道は和田峠に向かって緩やかに上り坂。左手に米谷鐵五郎という看板。上の問屋です。そのお隣も大きな庄屋であったなが井家。出桁造りの旅籠です。

向かい側に脇本陣。重厚と何度も言いたいくらいの江戸時代の家が和田宿には残っています。こちらも大火災後の再建で、現在残っているのは御殿部分のみだそうですが、上段の間は遺構として残っていて、皇女和宮のお草履もあるそうです。が、非公開のようで残念です。

隣の家との屋根を少し持ち上げた屋根を卯建(うだつ)と言いますが、卯建は裕福な家の証拠となります。本来は防火壁の役目でしたが、江戸時代になると装飾に重点が置かれたので、屋根にも装飾できる裕福な家ということなのでしょうね。「うだつ」は現在も生きている言葉で、うだつがあがらない、といえば見栄えがしない、生活や地位が向上しないという意味を表しています。その立派な卯建を持つ家は「萬屋」(よろづや)。質屋と両替商を営んでいたそうですが、現在は酒屋さんです。門と白壁の土蔵。門には門番が覗くのでしょうか大きな窓があります。

                                                    

8 不動明王〜牛宿跡〜扉峠口のバス停

道路の掘り下げが徐々に終了しているのでしょうか、この辺りに来ると石垣の高さも低くなっています。注連縄を掛けられた不動明王。次いで高札場跡。幕府からのお知らせを示した場所です。御法度のこと、駄賃の定め、今で言う指名手配犯人などのお上から告知書ですので、旅人は菅笠を取るのが慣わしだったそうです。

小さな常夜燈が二基ある馬頭観音を過ぎて、鍛冶足バス停脇に道祖神。本当に緩やかな坂を行きます。鍛冶足交差点脇の一里塚跡。江戸から50里目です。

大出のバス停は茅葺き屋根の待合所です。左の細い道が中山道。佐田川を越える大出橋のたもとの草むらの中に道祖神。さらに細くなっていく道を行くと国道に合流します。

国道をテクテク歩いて行くと杉の屋という食事処の前に祝言道祖神。向かい側には「牛宿跡」があるそうですが、何度か探しましたがみつからず。ここには二軒の茶屋があって一軒は「塩つけ宿」と呼ばれる宿屋で、中馬稼ぎ(ちゅうまかせぎ……信州の農民が行った馬の背に荷物を乗せて運ぶ運送業)をする人々の宿泊所。米、大豆、タバコなどを関西方面まで運び、岐路塩などを持ち込んだそうです。街道は伝馬で荷物を中継していき、それらは問屋や幕府役人が管理していましたが中馬稼ぎは直接目的地まで行ってしまうので(宿に運送料が入らない)、しばし争いの種になったそうです。

この時点で14時20分。扉峠口のバス停まで歩きます。20分歩いてバス停に。茅葺き屋根のバス停は崩れそう。中に入る勇気はありません。この先は唐沢の一里塚がありその手前に唐沢集落。その中に羽田茶屋本陣跡などがあり、その先、さらに国道を行くと、和田峠の入口である男女倉のバス停留所へと続きます。そこまで行くには2時間くらいかかりそう。

ここまで緩やかな登りの連続はやっぱりちょっときついです。今日は体調も今一ですので、撮影は終了します。

しかし和田峠入口の男女倉に行くバスがあと30分くらいで来ることが判明。バスは唐沢の集落も通るはずですので、次回の和田峠越えの為に見ておこうと、バス待ち。和田宿で降っていた雨は嘘のようで青空。国道の脇に座って青空と緑の山を見ながらバス待ち。

                                                                                   

9 男女倉バス停〜唐沢集落バス内より

やってきたバスに乗り25分後には男女倉バス停に。ふ〜ん、ここから和田峠越えをするのですね。大変な峠です。決心がいります。交通の便が悪いので峠越えの時間を考えると前日は和田宿で、民宿泊まり、朝一番にこの男女倉までバスで来て、みなさん峠に向かわれるとのこと。車中よりバス停を確認してそのままバスに乗っていて唐沢集落を車中撮影して上和田バス停下車して上田に出ます。下校時間に遭遇して和田小学校バス停から、沢山の小学生が乗車してきて、以後外の景色は撮れず(笑)。元気な子どもたちの話し声に、しばらく地元感に浸らせていただきました。

                                          

10 和田宿の花々。

                 


Oct.12,2015 瀧山幸伸

和田峠の中山道

    


June 14,2014 瀧山幸伸 source movie

A camera

本陣周辺

                                                    

                                       

信定寺

    

脇本陣

  

大黒屋

          

河内屋周辺

                                                          

黒曜石資料館

                      

B camera

長久保から和田へ

          

河内屋付近

                                                                 

黒曜石

                       

信定寺

       

大黒屋付近

                    

本陣付近

                                                          

                                          

脇本陣

     

          

和田から和田峠へ

接待

      

東餅屋

      

黒曜石遺跡

男女倉

       

星糞峠付近

         


June 2005 瀧山幸伸

Map 下和田北

Map 下和田南

Map 和田宿

慶長七年(1602)開設された中山道のうち、和田峠を超えて下諏訪に至る道筋は慶長十九年(1614)頃完成した。中山道随一の長丁場で、和田峠は最も標高の高い峠であった。天保十四年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、宿の延長七町五十八間、人数588人、126軒となっている。

アーネストサトウ編の「明治日本旅行案内」でも、和田宿は貧しい村として紹介されており、それであるがゆえに今日まで古い街並が保たれている。本陣、脇本陣が残り、異質な現代建築も少なく、往時の出桁造りの宿場の街並を楽しむことができる。

 

中山道 長久保から和田 ドライブ

Nakasendo Nagakubo to wada drive

June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 和田宿内 ドライブ

Nakasendo wada town drive

June 2005  source movie

中山道 和田宿近郊

Nakasendo wada post town

June 2005  source movie

  

下和田、風景に溶け込むバス停 ネコバスが来そう

 

接待 江戸呉服町の豪商、かせや与兵衛(有隣)が千両を幕府に寄付し、その利子で文政十一年(1818)設置され、旅人向けの食糧補給施設として運営された。 おいしく冷たい湧き水は関西からも汲みに来る人がいるほど。

    

和田峠遺跡群

旧石器時代、黒曜石の大生産地。(国史跡)

  

東餅屋付近 和田峠越えに難儀する旅人へのサービス施設だった。

  


和田宿

Wada

July 2004 瀧山幸伸 HD(1280x720)

笠取峠(長久保宿に入れるべきですが、ビデオ編集上和田に入れました)

  

和田宿

 

本陣

文久元年(1861)皇女和宮降嫁の直前に焼失したが、急遽再建し、秋の和宮宿泊に間に合った。明治以降は役場として使用された。

  

  

  

旅籠

       

河内屋付近

  

 

  

 

脇本陣付近

  

  

  

脇本陣から和田峠方面の街並

 

長久保方面の街並

 

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