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長崎県長崎市 大浦天主堂、旧羅典神学校, 旧大司教館
Ooura cathedral, Former Latin seminario, Former residence of Archbishop,Nagasaki city,Nagasaki

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信仰での巡礼以外の目的で教会を訪問される方へのお願い
長崎市南山手町5-3 旧羅典神学校 重文 近代/宗教 明治 明治8(1875) 木骨煉瓦造、建築面積232.8u、三階、地下一階、桟瓦葺 19720515
長崎市南山手町5-3 大浦天主堂 国宝 近世以前/その他 江戸末期 元治元(1864) 五廊式教会堂、桟瓦葺、北端八角尖塔付 19330123 19530331


Dec.24,2013 瀧山幸伸

クリスマスイブのミサ








Dec.24 2010 瀧山幸伸 HD video

クリスマスイブのミサ

A camera



B camera






Dec.22 2009 撮影:瀧山幸伸

HD video


1st camera





周辺の街並



2nd camera



周辺の街並








Dec.2005 撮影/文:瀧山幸伸 Preview video 500Kbps High Vision

大浦天主堂 (国宝)

元治元年(1864年)建築。
これより3年早い横浜天主堂が関東大震災で焼失したので、現在日本最古の天主堂となった。
フランス人司祭ベルナール・プティジャンと横浜から来たフューレ神父の基本設計。
天草出身の棟梁小山秀の施工。
建築当初は特殊なスタイルであった。
三本の塔を持ち、ゴシック風ながら正面中央の壁面はバロック風、外壁はナマコ壁。
明治12年(1879)、前後左右に増築し、3廊が5廊になり、外壁も木造から煉瓦造に変わり、完全にゴシック風の建物になった。

教会の献堂式は慶応元年(1865)に教区長ジラール神父によっておこなわれた。
プティジャン神父は、豊臣秀吉の禁教令により、慶長元年(1597)に長崎西坂の地で処刑された日本二十六聖人に捧げるためにこの聖堂を建立した。そのため、正式名称は「日本26聖人殉教者聖堂」という。
当時の人々は「フランス寺」と呼んでいたが、地名にちなんで「大浦天主堂」と呼ばれる。
献堂式後間もない頃、浦上に代々潜伏していた女性の隠れキリシタンが、プティジャン神父に密かに名乗り出るという劇的事件があり、これがローマ法王に報告され、東洋の奇跡と言われた。
玄関正面のマリア像は、その記念であり、慈悲深く大変美しい像だ。
1945年には原爆の投下によって大きな被害を受けた。


旧羅典神学校 (重文)

明治6年(1873)明治政府のキリスト教禁教令廃止を契機に明治8年に完成した。
大正15年(1926)浦上神学校ができるまで、神学校の校舎兼宿舎として使用された。
その後司祭館や集会所にも使用され、昭和になって一階の間仕切を撤去して広い部屋をつくり、更に三階を改造して学生の寝室とした。
設計は、布教の為の印刷技術など実業を携えフランスから派遣されたドロ神父。
構造は木骨煉瓦造で、骨組を木造にし壁に煉瓦を積む特殊なもの。
ドロ神父は建築技術に造詣が深く、その設計監督した建物は極めて堅牢。
大浦天主堂内司祭館、西彼外海の出津教会ほか数多くの建物を遺している。
ドロ神父と出津救助院などの遺構、遠藤周作が「沈黙」で描く隠れキリシタンについては、非常に興味深い。




旧羅典神学校 (重文)
明治8年( 1875)建築。
木骨煉瓦造り。
設計はドロ神父
ドロ神父は印刷技術を携えてフランスから来日し、その後、出津に赴任した。


















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