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奈良県東吉野村 丹生川上神社 中社

Niukawkamijinja Nakasha,Higashiyoshino village,Nara

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Aug.2,2013 瀧山幸伸 source movie

当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。

今を去る事千三百年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降 らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列 せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要 な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに 重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と称され、ついに は丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて 明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈 良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社でありま す。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、 当社は「丹生川上神社」と登記されています。

本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。

(神社資料より引用)

A camera

B camera

夢淵と東の滝

蟻通橋の上より見渡せば、山高く四面に聳えて、萬樹緑濃かに、蒼翠滴らんとするまにまに、深山躑躅の色鮮かに、一水右より来り、一水左より合し、中なる峯 より一水又落ちて、淙々潺々自から瀑布を成し、三水此に合して碧潭となり、流れて吉野川となる、辺の景色得も云はずよし。この一水左より来るのは高見山よ り発源して木津川を通過し、今は小川といふ丹生川の本流で、中なる峰より日裏谷の東の滝、瀑布を成て之に落ち、更に右より三尾川象の中山を遶つて象崎に於 て合流し、三川こゝに碧潭をなす是即ち夢渕である。

西村天囚博士は、河内に掛けられた橋の上に立って夢渕をながめた景勝を讃えている。

この渕は出会渕、灌所渕とも云い、此の処で昔は、祭神の為に斎み潔める所から灌所渕、斎渕とも云った。斎渕が訛って夢渕となった。

師大伴卿旅人は

 吾が行きは久にあらじ夢の回渕 瀬にはならずて渕にしあらも (萬葉集335)

と詠んでいる。

本来回渕(和太)は曲って水の淀む処をいゝ、洪水の時、三尾川、木津川両水激突して妙礫を巻き上げ深渕を成すかと思えば、山崩れや風向きの関係でこの渕を埋めてしまう事もある。地元の年寄り達は渕が深くなれば景気がよく渕が浅くなると景気が悪くなると口伝している。

(神社資料より引用)

本宮

ツルマンリョウ

ツクバネ

神社周辺

天誅義士墓所

明治維新の先駆けとして名を高めた天誅組が最後を遂げた地。

総裁・吉村寅太郎をはじめ11人の志士がこの地で傷つき倒れた。

ニホンオオカミの像

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