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奈良県高取町 高取城
(Takatori Castle,Takatori town,Nara)

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Feb.24,2016 瀧山幸伸
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June 2010 撮影 野崎順次

撮影日: 2010年5月

奈良県高市郡高取町上子嶋
国指定史跡

かきあげ城

高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの高取山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。
山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、一定の区域の周囲に築いた土や石のかこい《広辞苑》)をつくる。
尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所要所に掘割がつくられ、守りとなっている。
恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。
吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、非常の場合、軍事権をもつ惣領が一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。

芙蓉城(ふようじょう)

1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁など本格的な築城が進められた。
これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。
1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が高取藩主となり、以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、城下町に下屋敷、即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、はじめ宗泉寺の位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。
天正期以後の整備・拡張により高取城は「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。

廃城

明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。
大和の国の郡山、高取の2城も廃毀となった。
高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却されたと思われる。
ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に国の史跡に指定されている。

表示と参考書類

     

林道より壺坂口門跡を経て壺坂口中門跡へ

                   

城門(大手門)跡から本丸へ

                                                        

本丸の石垣の下側を西から南に回ってみる。

           

二ノ丸広場の草花など

           

宇陀門、松の門、矢場門を経て下る。

                             

二の門跡と水堀

     

猿石
二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり、制作は、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)と推測される。
高取城築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたと言われている。
明日香檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひめみこ)の墓の域内にある石像物と同類のものである。
郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。

       

参考資料
高取城HP
奈良産業大学HP


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