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奈良県奈良市、天理市、桜井市 山之辺の道(南)、
Yamanobenomichi, Tenri city/Sakurai city Nara

奈良市、山之辺の道(北)

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October 4 and 12, 2015 野崎順次  movie(Oct.4) movie(Oct.12)

奈良県桜井市 纏向遺跡
(Makimuku Site, Sakurai City, Nara Pref.)


2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km²になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km²(300万m²)に達する。
(中略)
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。しかし、2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという[2]。農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。
飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。
遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。
(ウィキペディア「纏向遺跡」より)

国史跡 纏向古墳群
初期大和政権が成立した奈良盆地東南部に所在する出現期の古墳群で、纒向石塚古墳・ホケノ山古墳・纒向矢塚古墳・纒向勝山古墳・東田大塚古墳等からなる。墳丘は全長100m前後の前方後円形を呈し、後円部に比べて前方部の高さが低いところに特徴がある。築造時期は、庄内式期から布留式最古期、すなわち弥生時代終末期から古墳時代前期初頭にかけてである。纒向石塚古墳では周溝からは農具・土木具、祭祀具、建築部材などが出土し、ホケノ山古墳では、木材で構築した木槨部分の周囲に石を積み上げるという珍しい構造の埋葬施設をもち、画文帯神獣鏡や鉄製武器などが副葬されていた。

本古墳群は、定型化した前方後円墳より遡る庄内式の段階に築造が始まった。この古墳群の墳丘と相似形のものは九州から関東にあるが、分布の中心で規模も大きく、すでに大和地域の首長を中心とした政治連合ができあがっていたことを示唆する。その一方、纒向石塚古墳の周溝から出土した木製品、ホケノ山古墳の埋葬施設や副葬品の構成等は、定型化した前方後円墳には見られないものであり、弥生時代終末期の墳丘墓とする意見もある。

本古墳群は定型化した前方後円墳の成立過程、さらには我が国における古代国家の形成過程及びその時期の社会の在り方を知るうえで重要である。
(国指定文化財等データベースより)

桜井市参考地図、巻向駅前説明板

      

まず、西へ行き、古墳時代前期初頭の纏向古墳群東田支群を見て回った。

纏向石塚古墳(墳丘墓)、纏向型前方後円墳、全長約96m、3世紀前半〜中頃

            

勝山古墳(墳丘墓)、前方後円墳形、全長約115m、3世紀代

                

矢塚古墳(墳丘墓)、纏向型前方後円墳、全長93m以上、3世紀中頃

                           

東田大塚古墳、前方後円墳、全長約120m、3世紀後半頃

                    

箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓指定)、前方後円墳、全長約280m、3世紀中頃〜後半

              

JR線路を東に越えて纏向古墳群箸中支群

ホケノ山古墳、纏向型前方後円墳、全長約80m、葺石あり、3世紀中頃

                  

周辺の古墳、堂ノ後古墳、北口塚古墳、平塚古墳、小川塚西古墳、サシコマ古墳、小川塚東古墳。多くが年代不明であるが、出現期にさかのぼる可能性もある。

        

巻野内石塚古墳、纏向型前方後円墳で全長約60m、葺石ありの可能性から、ホケノ山古墳と相前後する年代か?

        

古墳時代後期の珠城古墳(国史跡)に行った。現地説明板と遠景。

        

珠城1号墳、前方後円墳、全長50〜55m、6世紀中〜後半、後円部に横穴式石室

                 

珠城2号墳、前方後円墳、全長80〜85m、6世紀?、埋葬施設不明

             

珠城3号墳(55から60m、前方後円墳、横穴式石室2基)の痕跡と墳丘からの眺望

      

山の方へ登る。花、三輪山、二上山を眺める。山の辺の道が近くなる。

                              

国登文 堀井家住宅
内部の見学はできないが、建築時期は、主屋・塀・長屋門が昭和7年、米蔵・粉挽小屋・離れが江戸末期である。

             

巻向川沿いに西南に下る。時々振り返って三輪山を見上げる。

           

国津神社

    

国史跡 茅原大墓古墳、古墳時代中期初頭(4世紀末頃)、帆立貝式、全長約86m、後円部3段・前方部2段築成

           

後円部頂とそこからの眺め

       

狐塚、一辺40m以上の方墳らしい、巨大横穴式石室に三つの石棺が置かれていた。
石室全長約17.3m、玄室長約6m、幅約2.6m、高さ約3.2m、羨道長約11.3m、幅約2mと奈良県内でも屈指の大きさ。

               

三輪山

       

参考資料
桜井市纏向学研究センターウェブサイト「纏向遺跡」
橿原考古学研究所友史会7月例会「纏向の古墳を巡る」ウェブサイト




June 28,2013 中山辰夫

天理から桜井へ
約16qの行程である。
北は春日山の麓から、南は三輪山の麓まで、奈良盆地の東端を山々の裾(山の辺)を縫うように通っているのが、山の辺の道である。
8世紀の初めには官道としてこの道が出来ており、日本最古の道といわれている。
全長26qの道の中継地点である天理市の石上神社から桜井に向う。遠き昔よりいにしえ人が行き来した道である。

今回は、天理駅〜石上神社〜長岳寺〜大神神社〜桜井駅を散策する。全距離約16qである。

■■コ−ス地図
 

■■■■その一
石上神社〜夜都伎神社まで。天理駅から約5qの距離である。
 

■出発は近鉄天理駅である。天理商店街を通り抜ける
   

■天理教峡本部や関連施設が目につく。
      

■布留の交差点から今回のコースの起点である石上神社へ向かう。教会の施設が続く。
    

■■■石上神宮
境内
         

■途中で見かけたツキノワクマ保存の看板
奈良県ではツキノワクマは「絶滅寸前種」に選定されている希少動物である。保護と防除のバランスを計りながら管理している。
 

■■案内図
 

■自然豊かな風景を楽しみながら歩く
    

■大和地方は柿の産地。秋には紅葉に負けない美しい色に輝く。早くも袋カブセが行われている。他にも果物が多く育つ。
      

■■内山永久寺
芭蕉の句碑が迎える。江戸に出る以前は出生地の伊賀上野に住み、「宗房(むねふさ)」と号していた。
うち山やとざましらずの花ざかり 宗房
     

■平安時代に建立された石上神宮の神宮寺。盛時には50以上の堂塔を有していた。案内を見てもとても大きな寺院であったことが分かる。
   
明治期の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は池を残すだけの地である。
    

■■内山永久寺から流出した文化財として、石上神宮の出雲建雄神社の割拝殿(国重要文化財)がある。
 
もと内山永久寺鎮守の住吉神社拝殿。廃仏毀釈の際に難を逃れたものを1914年現在地に移築。現在は石上神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿となっている。(ウイキペデイアより引用)

■カキ畑の太く育った木々や鬱蒼とした木立の中を歩く。
    

■峠の茶屋「天理観光農園」と二上山
    
二上山は雄岳と雌岳が寄り添うように立ち、美しい姿である。これから先も時々見える。

■見かけたお花
     

■■夜都伎神社(やつぎ)
    
観光農園から15分ほど歩くと鳥居が見えてくる。水田の片隅に堂々と鳥居が建つ。
当社は昔から奈良春日大社に縁故深く明治維新までは当社から蓮の御供と称する神饌を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。

■拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築である。
     

■現在の本殿は、1906(明治39)年改築したもので、春日造檜皮葺高欄浜床向拝付彩色7種の華麗な同形の4社殿が末社の琴平神社と並列して美観を呈する。
     


夜都伎神社から念仏寺まで。天理駅から約7qの距離である。

■■略図
 

■■■竹之内環濠集落
夜都伎神社から5分ほどで竹之内町に着く。
    

■■濠で囲われた環濠集落を想像して行ったが、街の濠は殆ど埋め立てられ、公園にしたと案内看板にあった。
今は環濠の一部が池として僅か100mほど残るのみである。
    

■■■環濠集落は外敵を防ぐため、周囲に用水路を兼ねた水濠を巡らせた集落。奈良県内には多いが、標高100mのここは県下で最も高所にある環濠集落。
竹之内環濠集落から少し南に、萱生(かよう)環濠集落もある。
   

本瓦葺や門構えの大きな家が目立つ。
    

■■■萱生町環濠集落
集落の入口にある農作物の衆か場近くで環濠跡が確認できる・集落の西側にあった西山塚古墳の周濠を利用した。
     

西山塚古墳
   

竹之内と同様、萱生集落にも立派な門構えの屋敷、大和棟や本瓦葺の豪壮な建物が密集している。
     

大和棟
 
大和棟(やまとむね)又は高塀造(たかへいづくり)。奈良県の民家で見られる建築様式。
切妻の草葺と屋根瓦が組み合わせられており、洗練された切妻の白い漆喰壁と屋根の対象性が美しいのが特徴。
棟の高い部分が主屋で低い部分が釜屋(くどや土間)で構成されている。(ウイキペデイアより引用)

■■奈良盆地
奈良盆地が一望のもとに見渡せる。葛城、金剛、生駒と奈良盆地を形成する山々が連なる。さらに二上山の双峰も姿を見せる。
    

■■■大和古墳群(おおやまとこふんぐん)
天理市南部の萱生町から中山町に所在する古墳群である。最大の古墳は西殿塚古墳の一つである。
   

■■波多子古墳
    

■■■衾田陵(ふすまだりょう)
古墳名は西殿塚古墳、4世紀前半頃のもの。前方後円墳で全長219m、前方部分がバチ形であり、最古級の大型前方後円墳の一つである。
この古墳は代26代継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)のものとされている。宮内庁の管理である。
    
萱生環濠集落付近の田畑地帯の奥に堂々とそびえる陵墓。小高い丘にたつ陵墓で、大和を見守っている感じがする。

■■■燈籠山古墳
山辺の道へもどり、細い墓道の間を進む。古代と現代の墓が同居している雰囲気が漂う。
    
後円部は果樹園、前方部は念佛寺の墓地になっている。
   

■■念佛寺
山の寺と呼ばれるのは開化山に御陵守護のために建立されたことによる。浄土宗。本尊;阿弥陀如来
元和8年(1622)に徳川家康の末弟(当時伏見城代)松平隠岐守定勝が袋中上人を開山として建立。 
本堂は1630(寛永7)年の建立で、浄土寺院としては古い建築である。

念佛寺墓地は燈籠山古墳の上にある。
          

■■周辺地図
 



念佛寺から景行天皇陵まで。天理駅から約9qの距離である。

略図
 

■■■中山大塚古墳(大和神社御旅所) 中山廃寺
天理市中山町寺垣内
念佛寺から700m程離れたとことにある。
出土物から箸塚古墳に次ぐ古さと考えられる前方後円墳。中山大塚古墳の一部が削り造られた大和神社のお旅所の祠がある。
大和神社はここから0.5kmほど西に行ったところにある。
        

■■石畳道の傍らに可愛い地蔵群が並ぶ。まるで通る人を励ますかのようだ。石段道が少し続く。
地蔵の上の建物は公衆トイレ。この山の辺の道には手入れの行き届いたトイレと道標が間隔を空けずに設けてある。石段道が少し続く。
   

■■はや咲きのコスモス
のどかな田園風景が続く。
    

■■■柿本人麻呂「万葉歌碑」
山辺の道には和歌や短歌の歌碑がたくさんあるが、中山大塚古墳下にあるこの柿本人麻呂碑は山の辺の道で一番有名な歌碑であり、よく紹介される。
“衾路を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし” ”家に来て わが家を見れば 玉床の 外を向きけり 妹の木枕”
  

■■■長岳寺
長岳寺へ向かう途中の景色は満点である。
     

■■古木「根上り松」〜総門〜参道つつじ
     

■■境内
重要文化財に指定された社殿が続く。花の名所とされるだけに、季節の移ろいが楽しみなお寺である。
      

■■東海自然道「青垣トレイルセンタ」
長岳寺総門を出た近くにある。
無料休憩・学習施設として、2000年(平成12)年4月に開館した。館内では、鳥や草花の紹介や黒塚古墳の石室模型(1/4縮小) 三角縁神獣鏡のレプリカなどが展示されている。天理〜桜井のほぼ中間地点である。コースの確認を行う。
   

■■■柳本古墳群
石段道を進む。この辺りからは、奈良盆地を代表する大型古墳が存在し、柳本古墳群とされる。崇神天皇陵とされる行燈山古墳は全長約242m、景行天皇陵と呼ばれている渋谷向山古墳は全量300m。他には天神山古墳や珍しい双方中円の形をなす櫛山古墳等がある。

■■歴史的風土特別保存地区
崇神天皇陵や景行天皇陵を含む地域は風土保存地区に指定されている。
     

■■■崇神天皇陵
石畳道を登ってゆく。前方後円墳で濠が取り巻いている。その周囲を歩くのみである。
          

■■■櫛山古墳も近くである
4世紀頃の構築とされ、全長150mの双方中円形。行燈山古墳の後円部に接して、より山側の高い位置にある。双方中円墳という特異な墳形をしている。
櫛山古墳は、猫塚のように、二つの方形突出部がほぼ均等な大きさでなく、むしろ普通の前方後円部にもう一つの短い突出部を付けたような形状に変形している。周濠を持っていない。しかし、周囲に周濠の区画が残り水田となっており、当初の姿を残しているといえる。
周濠の範囲は東西190メートル、南北165メートルあって、前方部側面での周濠幅は約56メートルあまりである。「引用:ウイキペデイア」
 

■■奈良盆地全景
     

■ ■大和集落〜渋谷町公民館
         

■■■景行天皇陵

       



景行天皇陵から大神神社まで。天理駅から大神神社までは約13qの距離である。

■■コース地図
 

■■東海自然歩道を歩き、桧原神社を目指して進む。約1.5qの距離である。途中の景色も良好。三輪山も見えてきた。
三輪山は大神神社のご神体。髪が降臨する山として崇拝されてきた。山中には磐座らしき巨石群がある。
     

■桜井市に入る。桃畑やミカン山が続く。目下準備中の「万葉の楽園」
桜井市穴師505
     
6月15日開園予定。この地は、古来より生薬栽培がおこなわれてきた。そこで大和シャクヤクの復活と大和の地にゆかりのあった生薬の復活を目的とした万葉の楽園プロジェクトがスタートした。

■この辺りから桜井市の穴師の里
柿本人麻呂ゆかりの地で幾種もの歌に詠まれている。歌碑が方々に立つ。 この辺りまでは蜜柑畑が多い。
   

■大和三山もクッキリ 耳成山と畝傍山
 

■農産物の無人販売所や大和棟も見受ける。
     

■大和青垣国定公園、歴史的風土特別保存地区に指定
自然公園というよりも、文化遺産に重きを置いた国定公園。「山の辺の道」と呼ばれてきた街道と「柳生街道」を結ぶ。この一帯は古くから青垣山と呼ばれていたことから命名された。
        

■笠山荒神との分岐点から桧原神社へ
   

■■■桧原神社
桜井市三輪字桧原

■■桧原神社は、大神神社の摂社群の中では、社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷されこの地で祭祀されていた時代があった。伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきた。そのためこの神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。寛政年間に台風で檜原神社は大きな被害をこうむり廃墟化した。戦後になって、現在のように整備された。
桧原神社は、三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。
    

■■桧原神社は、万葉集などで「三輪の檜原」と歌に詠まれた台地の上にある。大和国中が一望できる絶好の場所にあって、眼下に箸墓の森が見える。
二上山の姿も美しい。年に2回だけ、絶景と呼ばれるにふさわしい夕景がながめられるとされる。
  

■かつてこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。
 

寛政年間に台風で檜原神社は大きな被害をこうむり廃墟化した。戦後になって、現在のように整備された。

■■三輪鳥居
桧原神社は、三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。
だが、大神神社では見えなかった三輪特有の「三輪鳥居」とその奥にある神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の臨時の宿り場所。小さめの樹木や岩石が選ばれる)などが再建された。
      

■■有名スポット
雑誌によく掲載されるスポット
    

■桧原神社から再び古道を歩く。小さな滝で涼気を得る。木陰の地蔵に引き続いて石塔が見える。草堂と僧坊の間を行く。
前方に見える白壁と乱積の石垣に惹かれる。
    

■■玄賓庵
三輪山の谷間に隠棲していた一人の僧のもとに明神の化身が通い、仏堂を知ったという謡曲「三輪」は、ここに暮らした玄賓をモデルにしたとされる。
山門、石庭、本堂 石畳に落花した椿の風景が多くの人に愛されているとか。前庭には梅。静かな佇まいである。
       

■■■■大神神社
玄賓庵からは約30分で大神神社の深い境内に踏み入る。予定時間を少し越えている。薄暗くなりつつある道を急ぐ。 摂社貴船神社に来る。
     

■途中での出会い 
古事記にも載っている狭井川を過ぎるあたり。神武天皇の石碑、額田王歌碑、花もり
   

■■■狭井神社
三輪の神様の荒魂を祀る神社。病気平癒の神様として信仰が篤い。毎年4月18日には花鎮祭が行われる。
     

■薬井戸は、万病に効くという薬水が枯れることなく湧き出る井戸。「ご神水」として水を汲み取る人が後を断たない。三輪そうめんを育む水である。
 

■■磐座神社(いわくらじんじゃ)
社殿がなく、神の鎮まる堅湖な岩(磐座」を神座として少彦根名神(すくなひこなのかみ)を祀る。少彦根名神は(神農さん)とも呼ばれる薬の神様。
結構登り難い坂道である。そこには黒い色をした巨岩が群がっていた。
       

■くすり道
くすりの神様・狭井神社への参道で薬業関係者奉納の薬木・薬草が植えられている。今下りてきた道である。
   

■■■拝殿
国重要文化財 1664(寛文4)年徳川家綱公により再建。背後に森を控える姿が重厚である。
当社は三輪山をご神体とするため本殿が無く、拝殿を通じて三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留める。
  

■夏越の大祓(なごしのおおはらえ)、茅の輪は祈祷殿前に設けられる。下半期を元気に過す神事。くぐるには順序がある。
   

■巳の神杉
樹齢600年とされる。三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから名付けられたご神木。蛇に好む卵が参拝者によってお供えされる。
   

17:00を回ると境内は参拝者も殆ど居なくなる。
   

予定を変更してJR三輪駅より帰る。
  

「お断り」:部分的に2012−02−19撮影の画像が含まれる。






Dec.1 2012 田中康平 HD video

箸墓古墳(箸中山古墳,倭迹迹日百襲姫命大市墓)
Hashihaka old burial mound, Sakurai city ,Nara pref.

奈良県桜井市箸中

宮内庁管理の稜墓(墳丘内立ち入り禁止)に指定。全長約280m、高さ約30mの前方後円墳。
3世紀半ばに建造と推定される。卑弥呼の墓との説もあるが未解明。
前方後円墳だが最初円墳部分が作られ後に前方部が加えられたともみられている。墳丘と濠を渡って外周部と繋がる渡り堤の遺構も発掘されており大型の古墳。
(周辺の発掘調査から 墳丘の周囲をめぐる幅10m程度の周濠と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構の存在が明らかになりつつあり前方部南側で確認されたその幅は50m以上と大規模なものとなっている。またその南端部分では人工的な盛り土が確認されており、外濠状遺構が掘られたのちに、外周部分が整えられている可能性が考えられている。----桜井市の資料より)

纒向遺跡の南端部分にあり周辺には古墳が多い。円墳部は住宅地と接しており近くで見ると小山のように感じられる。北側の池は箸中大池としてため池百選(農林水産省選定)のひとつとなっている。

            



奈良県桜井市〜天理市
山辺の道
(Yamanobenomichi, Sakurai-Tenri, Nara)

Feb.2009 撮影/文:野崎順次

JR三輪駅〜大神神社

                    

狭井神社〜玄賓庵〜桧原神社

                      

黒塚古墳

    

崇神天皇〜中山大塚古墳

       

灯籠山古墳〜念仏寺

            

竹之内環濠集落〜西乗鞍古墳〜東乗鞍古墳

                

永久寺跡〜石上神宮

                 

天理の町

    





奈良県桜井市 纏向遺跡
Makimuku iseki

Feb.2009 撮影/文:野崎順次

奈良盆地のあちらこちらで古道が残っている。南東部の柳本町から桜井方面に上ツ道がまっすぐ伸びており、歩いて行くと、東に三輪山、遥かに西に二上山がよく見え、巻向の地に着く。すぐ南西は大和三山である。
この辺一帯が纏向遺跡で、発生期前方後円墳が集中し、邪馬台国の中心であった可能性が非常に高いと云われる。
西暦180年後半に邪馬台国における政情不安と戦乱を治めるために、女王卑弥呼が共立され、権力者の大きな古墳を築造し始めた。
248年頃に卑弥呼が亡くなり巨大円墳が築造され、266頃には後継者の壹與もその巫女としての役割を終えた(亡くなった)。この後、邪馬台国は急速に衰えていく。纏向遺跡はこれらの推移をよく裏付けているようだ。
纏向遺跡は、西暦180年代に三輪山麓に突如として現れた大集落で、その範囲は東西2.5km、南北1.5kmに及ぶ。奈良盆地の代表的な弥生集落、唐古・鍵遺跡の約10倍で、当時の日本ではずば抜けた規模である。
幅6m、深さ2〜3m、長さ1300mの運搬用運河が2本あり、この運河は、初瀬川 (大和川) につながる。
他の地域では竪穴式住居が普通だが、纏向では平地式や高床式がほとんどで、王都というべき先進都市だった。
出土土器は東海、山陰、北陸、吉備など各地から搬入されたものが非常に多い。
石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山など発生期の前方後円墳 (纏向型) が数基集中し、築造年代は西暦210〜250年といわれる。
また、巨大前方後円墳の箸墓は、規模や推定築造年代から、後円部が卑弥呼の墓 (方形壇付き円墳) として造られ、10数年後に壹與の墓として前方部が加えられたと考えられる。
纏向遺跡は3世紀後半あるいは4世紀前半に急速に衰退してしまった。
(参考:苅谷俊介氏講演)

現在の纏向遺跡ガイドマップ(桜井市立埋蔵文化センターのパンフレット「纏向に行こう!」 2008年3月改定第2版)
 

28年前の纏向付近遺跡分布図(奈良教育委員会、昭和46年3月)、遺跡数が少ない。オレンジ色の範囲線は現在の纏向遺跡。
 
古代の街道、上ツ道が南北にまっすぐ残っている。柳本より南へ向かう。
 
柳本の民家
 
発生期古墳が集中する纏向小学校付近。運動場で運河とみられる纏向大溝が検出された。
 
北西からの空撮
 
南東から見る。左から矢塚、石塚、勝山古墳。
 
纏向石塚古墳、前方後円墳、全長約96m、3世紀初頭、日本最古の古墳とされる。葺石無し。
 
勝山古墳、前方後円墳、全長約115m、3世紀初頭〜中頃?葺石無し。
 
矢塚古墳、3世紀初頭〜中頃。葺石無し。
  
東田大塚古墳、前方後円墳、全長約120m、3世紀前半、葺石無し。
 
日本最古の木製仮面、約26cm x 約21.5cm、3世紀前半、広鍬を転用。
 
纏向遺跡からの出土品 (桜井市立埋蔵文化財センター)
 
三輪山と箸墓古墳
 
箸墓古墳、前方後円墳、全長約280m、3世紀中頃、葺石あり。南から見る。
 
箸墓古墳
 
箸墓古墳、北側を東から見る。
 
にゅうめんと柿の葉寿司、このあたりは三輪そうめんが名物。
 
ホケノ山古墳、前方後円墳、全長約80m、3世紀中頃、葺石あり。
 
ホケノ山古墳、埋葬施設の説明。
 
ホケノ山古墳、埋葬施設の復元。
 
東から見た纏向遺跡、真中左がホケノ山古墳、右奥に纏向小学校。
 
三輪山の裾から奈良盆地を見る。右手前に箸墓古墳、左奥は二上山。
 
南西方向に、大和三山 (左より、天香久山、畝傍山、耳成山)。
 
東には三輪山。昔はもう少し高く、より端正であった。
 
梅にメジロ、花札のよう。
   








Nov.2008 瀧山幸伸

                  

 


巻向、纏向遺跡
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