MONTHLY WEB MAGAZINE Oct. 2013

Top page Back number Subscribe/Unsubscribe

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

トピックス

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


■■■■■ ミシュラン二つ星? 瀧山幸伸

たまには観光名所を紹介します。

松島は観光産業がかなり復活しており、大変騒々しい状況になっています。

東西文化の融合事例として、宮城県松島町の円通院が興味深いのでご紹介します。

ミシュラン観光ガイドの二つ星に選ばれたとのことで、手を繋いでいる若者カップルが多いのはご愛敬。

雑踏状態かというと、有料なので五大堂ほどの混雑ではありません。

境内奥には伊達正宗の孫光宗の霊屋、三慧殿があります。

国の重要文化財に指定されており、ガラス越しに内部を拝観することができます。

 

ここにはミステリーが三つ潜んでいます。

・光宗は大変優秀であったため、毒殺されたのではないか?

 徳川家と伊達家関連の文化財はJapan Geographicサイトに多数あるので、それを追いかければこの信ぴょう性は推察できるでしょう。

・霊屋内部の厨子には、西洋由来の模様(トランプ模様)がデザインされている?

 デザインの系譜はそれほど単純ではありません。明治初期、フランスの装身具メーカーが日本の寺社等のデザインを持ち帰ったもの、それが今日の高級ブランド製品であり、どちらが先とも言い難いです。唐草模様も同様ですが、興味深いデザインではあることは確かです。

・隠れ切支丹と関係あるのではないか?

 隠れ切支丹と伊達藩は深い関係があります。伊達藩のみではなく、日本でのキリスト教及び切支丹の歴史をJapan Geographicサイトで学べば、さらに理解が深まるでしょう。

ということで、詳しくは述べませんが、Japan Geographicの目的は生涯教育です。現地を訪問し、歴史のタテ糸と地理のヨコ糸を紡ぐ学習に資することですので、一緒に学びましょう。

 


■■■■■ 東日本大震災からの復活 川村由幸

私が良く撮影に行く、千葉・茨城の重伝建も東日本大震災ではとても大きな被害を受けました。

あれから二年半が経ち、最近千葉の重伝建 佐原と茨城の重伝建 真壁、重伝建ではありませんが

ユネスコ無形文化遺産指定の結城紬で知られ、古い町並みが美しい結城の三か所を撮影に廻りました。

茨城の県北地域と千葉の旭市を除けば、関東における東日本大震災の被害は深刻なものですが東北地域の復興と呼ぶほどではなく、復活で良いと思います。

撮影に廻った三か所の復活の具合ですが、随分と差のあるものでした。

佐原はほぼ復活を果たしています。伊能忠敬旧邸以外は尚文堂も再建がなり、時間というスパイスを除けば元に戻ったと言える状況となっています。

尚文堂と中村屋商店・中村屋乾物店の震災前、再建工事中、再建後の画像です。

<尚文堂>

<中村屋商店>

<中村屋乾物店>

2009.10 2012.09 2013.09 

真壁はとてもひどい状況です。撤去された登録文化財がいくつもあり、現在も全く修繕の手がついていない建造物が多く見かけられます。このまま朽ち果てるのを待つかのように見えます。

二年半の間、大震災の被害を受けたまま放置されているということは修繕の意思がないということなのでしょうか。

このままでは、真壁は重伝建の価値がなくなりそうです。

<市塚家住宅>

 

<土谷家土蔵>

<木村家住宅>

<潮田家住宅>

              2010.10 2013.01 2013.09

結城は10/6に訪問しました。雨上がりの朝でしたが、町中どこにいても金木犀が香り気持ちの良い撮影ができました。

ここもいくつか古い建造物が撤去されていましたが、大震災の爪痕はほとんど見られなくなっていました。

結城は大震災前の撮影画像がなく、比較しずらいですが、復活したと言って良い状況です。

<簗嶋邸>

<秋葉糀味噌醸造>

             2012.02 2013.10

なぜこのような差がでたのでしょうか。

国宝・重要文化財は修復に税金が利用できるようです。(全額ではない)

重伝建に多い登録文化財の場合、所有者負担が原則とか。

そういえば、佐原の尚文堂は人が住まなくなったようです。自治体の手で再建されたと考えるべきでしょうか。

所有者のみの力で再建となると、古い建造物なりの修復はコストも高く簡単でないことは理解できます。

東北でも真壁と同様な事態に陥っている文化財が多くあるようです。

文化財よりも被災者の衣食住が優先するのは当然でしょう。

でも、そろそろ文化財にも目を向けないと失うものが多数出てきそうです。失ってしまえば、もう元に戻りません。

日本の歴史と文化を失うことになるのです。そんな危惧をいだいた撮影でした。

 


■■■■■ 琵琶湖湖上を行く—葛籠尾崎(づづらおざき)湖底遺跡の報告 中山辰夫

琵琶湖周辺には約90ケ所の湖底遺跡があります。これらの遺跡のほとんどは、水深1~5mと比較的に浅い所にあります。

1924(大正13年)の冬、尾上(おのえ)の漁師父子が葛籠尾崎沖でイサザ網漁をしていたところ、いつもとは違った重い手ごたえを感じ、ゆっくり時間をかけて綱を引き寄せると得体のしれない獲物が・・・。期待と不安の思いで網を覗き込むと何か大きなかたまりのようなものが大小数個、土器でした。これが葛籠尾崎湖底遺跡発見のスタートであるとともに、琵琶湖の湖底遺跡研究の端緒となりました。

漁場である竹生島から葛籠尾崎にかけての水域は琵琶湖の中でも最も深い所とされ100m近い所も多く、湖が荒れると三角波をかぶって漁船は転覆し、湖の藻屑となる漁師があとを絶たなかった。従いこの周辺に絡む伝説・伝承は数えきれなく多い。この伝説と神秘な境域で引き揚げられた獲物は疑心暗鬼のうちに村へ運ばれました。

その後次々と引き上げられた土器類は、縄文時代から平安時代の長期に及ぶもので、数千年の時を越えて、現代人の前にその姿を現しました。しかもほぼ完全な形のままで、葛籠尾崎東沖の水深10m~70m付近の湖底に沈んでいたことが判明しました。

発見された遺跡は、世界的に見ても他に類を見ない水中深さにある遺跡であり、その成因は種々挙げられていますが、いまだ定説には至っておりません。

神秘のベールに包まれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。今回はその現場域へ行きます。

葛籠尾崎湖底遺跡資料館で見る出土品

ここには縄文土器、弥生土器、土師器、摩製石斧、鹿角など縄文・弥生・奈良・平安時代の出土した遺物が展示されています。9000年の長期間にわたる遺物です。「C−14法による」

土器には湖成鉄が部分的に付着し黒ずんでいるがほとんどが完成品。線模様も見え、遺物の美しいつくりに時代を忘れて見惚れます。

出土した縄文土器

今回は湖上タクシー(小型漁船を改造した舟)で尾上港から葛籠尾崎沖へ向かいました。

快晴で、風もなく、湖面は穏やかで静かでした。多くの文学作品に表現されているような厳しさは感じられなかった。「澄んだ色だこと。水に濡れたら青にそまりそう」とまでゆかなくても、湖は真青だった。湖底は神秘のベールに包まれたままだった。

遺物が引き揚げられた現場域に停泊し、引き揚げられた土器を手にしてじっくり見る。今なお深い湖底に眠る土器類に思いをはせる。

宝厳寺の裏側あたりの竹生島

葛籠尾崎沖から眺める霊島・竹生島は全島鬱蒼たる緑樹に包まれ、そこには峻厳さと原始性が漂っている。太古より島は湖神の常住するところとされてきた。

湖北から、竹生島を参籠するには、塩津、菅浦、尾上、今津から舟を用いた。

漁師が骨壺と思いはじめて持ち込んだ地元の相頓寺。その寺の長男で、当時15才であった小江(おえ)慶雄氏(元京都教育大学学長)が、その後の調査に当たり、引き揚げられた遺物の一括保管などにも尽力され今日に至っている。小江氏は日本の水中考古学の第一人者として幅広く貢献された。

(尾上・他についての詳細については、別掲載する予定です。」

これからの舟の行く先は中世史に有名なかくれ里・菅浦です。湖上からの訪問ははじめてです。


■■■■■ 「宝満山 カエルも峰入り」 末永邦夫

いままでに、何度も登っていた宝満山(標高約830m)の山頂にカエルが居るのを今年初めて気がつきました。

それで、今まで撮影してきたヒキガエルと宝満山山伏の記録を一つにまとめてみました。

 「宝満山 カエルも峰入り」宝満山は大宰府政庁の鬼門(東北)に位置する標高約830mの霊山です。 

ヒキガエル 2月産卵のために、ヒキガエルが山から下ってくる。

この時、林道の側溝にカエルが落ち込むので、救出作業中です。 

 


■■■■■ 「伊根の文章を読んで考えたこと」 後藤玉樹

伊根の文章を読んで考えたことをお伝えします。

平成11年より5年弱、隠岐の島町に赴任していました。海士町のことに触れられていますが、それは島前で、私がいたのは島後です。面白いことに島後は、島の名前がないのです。

島前は西ノ島中ノ島(海士町)知夫里島に分かれ、それぞれに名前がありますが、島後は一つの島で、島自体には島後という以外の呼び方はありません。

それはともかく、島後の北端に久見という集落があり、氏神として伊勢命神社がお祭りされています。

伊勢神宮の分社といわれていますが、それを裏付けるような、定かなものはないようです。

赴任期間、詳しく調べる機会はありませんでしたが、調べたところで成果はなかったのではと思います。

今では生活道路が開通していますので便利悪くはありませんが、それまでは隠岐の孤島とも呼ばれたほど、行き来には苦労していたそうです。

ただ海岸を伝って船での交易は可能でした。

この久見地区は黒曜石の産地としても有名で、確か日本最大の原石が見つかったと聞きました。

西日本を中心に、隠岐産の黒曜石は伝播しており、その関係で伊勢との繋がりが生じたのではないかと考えています。それ以外、結びつける要因はないはずですので。

隠岐は歴史が古く、古代律令制で隠岐国と定められ、国司・国庁が置かれ、総社・一宮もあります。

国防上の要として認識されていたことからと思います。

各神社には古い棟札が残されていることがあり、鎌倉時代のものもあります。

普通、棟札は建物に取り付けるのですが、隠岐ではご神体と一緒に内陣にしまい、建物を新しくする場合でも、古い棟札はそのまま残してきたのです。

宮司さんが常駐する神社ですと、お願いして棟札を見せてもらうことは可能でしたが、宮司さんがおられない神社も多く、その場合は兼務されている宮司さんでも、その一存で棟札を見せてもらうことは難しく、それで調査が進まなかったという事情もありました。

それらの悉皆調査ができれば、特に戦国時代の毛利・尼子の動向が分かるのにという未練は今でもあります。

それもともかく、感じたことが一点ありました。

このように歴史は古いのに、古墳も結構あるのに、それに続く構造物がないのです。

寺院・神社しかり、民家しかり。廃仏毀釈で失われたということもありますが、神社もないのは解せません。

一番古い神社で1800年前後、民家でも1750年頃の棟札は見つけましたが、歴史に比べれば物足りません。

民家調査をしても、古いことを誇りとしていることはなく、むしろ古くて恥ずかしいから来て欲しくないというのがみえみえで、さすがに断られたことはありませんでしたが、苦労しました。

そこで考えたことは、四周を海で囲まれ、自給自足するほどに耕地はないので漁労や交易で生計を立てるしかなく、必然、船は生活の足というより彼らの生命線です。

船板一枚、下は地獄です。

そういう状況であれば、船を手入れして長く使うという発想は生じにくく、景気が好かったり、傷んでしまったりしたらすぐに造りかえるという認識だったのではないか。それと同じことが自宅やお宮さんにもいえたのではないか。

古くて恥ずかしいというのは、自分の代で新しくできなかった、自分に甲斐性がなかったという思いの裏返しです。

この考えは今でも変わりません。ですので危機感を持っています。

隠岐の建物は、神社でも民家でも、隠岐造りという独特の様式を持っています。

国指定の神社や民家にそれは表れていますが、地方文化財を含めて神社で数棟、民家は2棟。

神社は一気にということはないかもしれませんが、私が離れる時点で少なくとも200棟は確認していた隠岐造り民家は、その大部分が風前の灯でしょう。

新築するよりも、まず大改造をします。改造をしやすい様式であることが裏目になっています。

そしてそれを数回繰り返せば、新築と同様となります。

こうやって隠岐造り民家は、文化財以外、記憶から消し去られてしまいます。

隠岐の住民は、特段その様式に愛着を持っていることもなく、現代生活では不要部分でもありますので、忘れられるのも早いと思います。

残念ですが私の力ではどうすることもできず、無念のうちに島を離れました。

特に離島だからこういうことなのか、海に生きる海人に共通するのかは分かりません。

文化財を残すという業務のすぐ傍らで、このような苦い想いを抱かざるを得ない事態が進行しているのも現実なのでした。


■■■■■ 南信濃 大野木康夫

9月の終わり、2週に分けて下伊那と木曾谷の国指定文化財(建造物)を巡りました。

もともと、今年の夏に白山神社奥宮に行こうと思っていたのですが、5月に膝を悪くしてこの時期までずれ込んだものです。

白山神社奥宮は飯田市の風越山の上の方に鎮座しており、早朝から登り始めましたが、やはり往復で撮影時間も入れて4時間30分もかかってしまいました。

修理の際に材料を運ぶのに苦労されたことと思います。

文永寺(飯田市)の石室と五輪塔は人家の脇に位置しており、犬の鳴き声や農作業の音など、喧騒に包まれていました。

開善寺(飯田市)は山門の右側に境内撮影禁止の張り紙があったのは少し残念でした。

旧小笠原家書院(飯田市)は伊豆木陣屋として認識していたのですが、係りの方の熱心な説明に聞き入ってゆっくり過ごしました。

下伊那はここから「覆い屋の中の社殿」三か所になります。

覆い屋があったから厳しい自然環境の中でも保存状態が良好で、重文指定になったのでしょうから、少々見難くても仕方がありません。

金野諏訪社(泰阜村)

大山田神社(下條村)

古城八幡社(阿南町)

1日目はここまでとなり、翌週に木曽谷を巡りました。

読書発電所施設(南木曽町)

発電所、桃介橋、柿其水路橋の3箇所に分かれており、回るのに時間がかかりました。

白山神社(大桑村)

覆い屋の中の4棟の社殿ですが、正面は金網張りの上に網戸が貼ってあり、大変見づらい状況になっています。

定勝寺(大桑村)

小学校の時以来の訪問でした。

青モミジが大変美しかったです。

林家住宅(南木曽町)

妻籠宿には多くの団体客が訪れていましたが、ここに立ち寄らないのが大変不思議に思えました。

撮影上のミスもたくさんあったので、足がもう少しよくなれば、再訪したいと思います。


■■■■■ 東京オリンピック1964 野崎順次 

東京オリンピックは1964年10月10日から24日まで開催された。史上初めて、アジアで、有色人種国家で行われた夏季オリンピックだった。私は神戸の大学1年生で、学校の授業にはあまり出なかったが、バスケット部の練習だけは休まなかった。ところが、関東の親戚筋から我が家に入場券が2枚回ってきた。父や兄は都合がつかず、私だけが東京へ観戦に行くことになった。特例としてバスケット部のキャプテンが休部(といっても1週間足らず)を認めてくれた。

いろいろ調べてみると、どうも10月20日から24日まで東京に滞在したようで、目黒の親戚の家に泊めてもらった。ヱビスビールの工場のすぐ下で、近くに高松宮様か三笠宮様の邸宅があり、目黒駅から歩いた時は、山手線をまたぐ「アメリカ橋」を渡った。ビール工場のすぐ下にしっとりとしたいい坂道があり、映画のロケにも使われていた。女子高生と女子大生のいとこがいたが、お互いに思春期だから意識してあまり話をしなかった。

東海道新幹線はオリンピックに合わせて同年10月1日に開通している。「ひかり号」は大阪東京間を4時間で走り、それまでの特急つばめを2時間半短縮した。私も新幹線に乗ったらしいのだが何も覚えていない。

私が最初に見たのは女子体操の予選だった。女子体操の競技期間は18日から23日までだったから、私が行ったのは20日前後だろう。当時の女子体操選手はまだ少しふっくらして女らしい体の線が残っていたのをよく覚えている。平均台や跳馬で金メダルを取ったチャフラフスカなど有名選手は見られなかったが、北欧の無名選手のハッとする容姿にハッとした。これより後の世界女子体操界は、幼い少女の軽業師的な演技が主流となっていく。

次に見たのが、10月23日の女子バレーボール決勝だった。大松監督率いる「東洋の魔女」女子バレーチームは、主力選手が日紡貝塚所属で、2年前の世界選手権で日本の団体競技としては初めて世界大会で優勝した。その後、大松監督と選手はいったん引退を表明した。しかし、東京オリンピックから女子バレーボールが正式種目となったため、引退を撤回した。彼らは順当に勝ち進み、決勝でも宿敵ソ連チームに勝利して金メダルを手にした。日本国民はこの試合に熱狂した。私は体育館の最上段近くで、試合を見下していた。それほど興奮しなかったような記憶があり、若い生意気盛りでクールぶっていたのかもしれない。でも、この試合をこの目で見たということは、その後、一生の自慢話になった。

世界一速い男、陸上男子100mの金メダリストは、アメリカのボブ・ヘイズで、記録は10.0秒だった。身長を調べてみると普通の180㎝だが、短距離選手にムキムキの大男が出てきたという印象が強かった。ちなみに、当時、関西学生バスケットボールで一番の大男は四国の山奥から来たという大阪商業大学の選手で、あだ名が「ヘイズ」だった。

男子柔道も東京オリンピックから正式競技となり、軽量、中量、重量、無差別の4クラスだった。「柔道は日本のお家芸」といわれ、全て金メダルが取れて当たり前と考えられていたが、最も重要視されていた無差別級決勝で神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクに敗れた。これは日本柔道界にとって大きな衝撃で、後々まで語り継がれることになる。20年以上後になって、私は仕事でオランダに1週間滞在した。英語があまり通じない国だが、「柔道、ヘーシンク」などと口走ると、その頃でも未だ人々の反応が強かった。ある立ち飲み屋で隣のおじさんに同じことを言うと、その人の連れが「アントン・ヘーシンクの弟」だという。弟さんと握手して乾杯して一同盛り上がったが、真偽のほどは未だにわからない。

男子マラソンでは、金メダルのアベベ・ビキラと銅メダルの円谷幸吉の走る姿は目に焼き付いている。もちろん、テレビで見たのだが。哲学者のような風貌で独走したアベベは、その後、自動車事故で下半身不随となり、9年後に41歳で亡くなった。円谷は4年後のメキシコオリンピックの年の初めに「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」の言葉を残して自ら命を絶った。二人の冥福を祈りたい。

次の東京オリンピックは7年先2020年の真夏に開催される。私が生きているかどうか分からない。元気でいても、東京に出かけて酷暑の人ごみに耐えるなんてとてもできない。


■■■■■ 宗像大社で思う 田中康平

秋の大祭が開かれているというので福岡市の北東30kmにある宗像大社を訪れてみた。

10月1日には秋の大祭の初日行事として漁船による沖ノ島からの海上大パレード”みあれ祭”が開かれているのがテレビで流れていた。

これはすごい、見なくてはとの思いがしたが今年はもう海上パレードには間に合わない。まだ何か祭事が続いているはずと、とにかく出かけた。

駐車場から拝殿へ向かって進むと謡曲の調べが流れてくる。拝殿は工事中で そばの仮拝殿で能が舞われている。これがこの日の催しらしい。翁面をつけたしっかりした謡と舞だ。

500年は続く恒例の翁舞という、秋の大祭で年に一度だけ公開されるらしい。その昔この先の鐘崎岬の沖の海面に翁面が海中から浮かび上がったという故事にちなんだものというがその面そのものをつけて舞っているとの話も有る。神がかり的話に残された証拠が現代まで伝わってそれを現実に見るということにちょっとした驚きを感じる。

工事中の本殿やら拝殿をやや遠巻きに見て宝物殿である神宝館を見て回ると驚きが続く。

玄界灘に浮かぶ沖ノ島は宗像神社の一部で沖津宮として古代から海事の平穏を祈ってささげもので満たされていたとは聞いていたが8万点もの出土品がすべて国宝になりここ神宝館で保存されているという。その一部が展示してある。7−8世紀のものという機織機の金属性ミニチュアも展示してある。勿論国宝だ。よくできている。最近作ったといわれてもそうかと思ってしまうようなものだ。朝鮮経由の技術らしい。

宗像大社は古事記、日本書紀にも記述されており、スサノウノミコトの剣から生まれた3女神(宗像大社と厳島神社の主祭神)がこの近くの山に降臨したとも記されている。宗像大社はその起源を神武東征以前に遡るようだ。宗像大社から沖ノ島を結ぶラインは対馬を経て半島に直線的に向かっている。

朝鮮半島と日本は昔から運命共同体となっていたように思える。

最後に日本海海戦を沖ノ島の興津宮にいた神官が目撃した記録が展示されている。

戻って調べてみるとバルチック艦隊が日本の艦隊との間で放火を交えたその地点は確かに沖ノ島のすぐそばだ。「坂の上の雲」のテレビ放映でも神官がロシア艦隊を目撃するシーンが挿入されていたという。なんとはなしに東郷艦隊の神がかり的勝利もこの地であればとの気がしてくる。

見終わってこの先の神湊という沖ノ島へ神官が渡る港に行ってみる。漁港でフェリー乗り場もあり すぐそばに海水浴場があり穏やかな砂浜が続く。目の前の地島、大島で囲まれて波も穏やかでいい港となっているようだ。平和な眺めだ。

目の前に古代から続く半島へ向かう海の道が見えるようだ。現実にこの地に立つと流れる時間のその先に思いが及んでいってしまう。朝鮮半島と日本の緩い共同体という未来が本来の姿のようにも思えてくる。どうなっていくだろうか。

(機織機の図は宗像大社神宝館パンフレット、日本海海戦の図はwikipediaによる)


■■■■■ 看板考「絵馬屋」 ゆはらきみこ

神社仏閣の前で頭をたれるとき、家族の幸せや乗り越えなければならないものの成就を祈願します。

願い事がたくさんありすぎるので流星群の訪れを待つ、という友人のジョークもありましたが、強く願い、良い行いをして徳を積み機を待つという自力本願型の方もいます。

いづれにしても、神代の昔から人はいつも希望や夢を何かに託しながら生きてきました。絵馬もその一つです。

馬は神様の乗り物として神聖視されていましたので祈願の時には本物の生きた馬が、神馬・ジンメとして奉納されていました。

また武運長久の守護神として多くの武将が競って馬を奉納しましたが、小さな神社ではその世話が重荷になることや、奉納する側も馬は高価であり大きな負担となることから大きな紙に描いた絵馬や等身大の馬の彫像に変化していくという流れになりました。

さらに馬を奉納できない者は代用として山の形の板に馬の絵を描いて奉納しました。

室町時代になると神社のみではなくお寺も便乗して絵馬が一般大衆にも広まり、馬の絵ばかりでなくお祀りされている御祭神と関わりのある動物も描かれるようになりました。

さらに安土桃山時代になると狩野派などの有名絵師による絵馬も登場。

それを鑑賞するための絵馬殿も境内に建てられるようになっていきます。

その後、図柄はさらに多様化し、病気平癒・安産や子育・入学祈願や就職、良縁を求めるための現在多く見られる絵馬となってきますが、神社仏閣のない教会やホテルのロビーなどにもハート型などの祈願の飾り物が絵馬の様に飾ってあると、日本人の無節操さにはちょっと苦笑をしてしまいます。

しかし、民間信仰として絵馬の伝統が残されている地域が山形県最上・山村地方にあります。

東京に住む親しい友人が話してくれたのですが、父親の三回忌で山形の実家に帰ったときお勤めに来てくれた御住職との会食の席で、じっと顔を見られて「誕生できなかったお子さんがいますね」と言われてビックリしたそうです。

結婚を機に東京に出てきて第二子を流産したのだけれど知っているのは夫だけで、田舎の両親には心配するので言っていなかったとのこと。

彼女にはその後生まれた長男がいて現在30歳半ば。

その長男が結婚をつつがなくできるように、流れてしまった子どもをムサカリ絵馬で追善供養をしてあの世で結婚をさせてあげた方がいい、と言われたそうです。

「ムサカリ絵馬」とは早世した我が子があの世で結婚もして幸せに暮らして欲しい、という親の願いが表されたもので、江戸時代より最上川沿いに伝わるあの世での結婚式の絵馬の事です。

昔は親や兄弟または親戚の者が描き供養したそうですが、近年では絵馬師への依頼や写真形態もあるそうです。

♪めでためでたぁの若松さまよぉおお♪の歌で有名な若松観音は『絵馬』の宝庫といわれていて、千数百点の絵馬が奉納されています。

その中には室町後期永禄6年(1563年)に奉納された国指定重要文化財や、この地方独特のムサカリ絵馬が数多く奉納されています。

写真は「千住絵馬屋 吉田家」。

都内で唯一残っている手描きの絵馬屋です。

■■■■■■■■■■■■■■■■■

Japan Geographic Web Magazine

https://JAPAN GEOGRAPHIC/

Editor Yuki Takiyama

yuki at .jp (Replace at to @)

■■■■■■■■■■■■■■■■■

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中