Monthly Web Magazine Feb. 2015

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トピックス

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■■■■■ 桜あれこれ 瀧山幸伸

春はすぐそこ。春といえば桜ですが、桜のシーズンは9月から始まり、翌年の6月までだと勝手に思っています。

桜の特集ページの中に各地の桜が並んでいますが、その中から、桜の情景数点を集めたショートムービーを作ってみました。

サンプルページにUPしてあります。

一つは、定番の「春の桜のムービー」。

京都の祇園宇治、三重の三多気、群馬の小幡、東京の六義園隅田川長野各地の桜のシーンを揃えてみました。

もう一つは「冬桜」。

三大冬桜の、愛知県豊田市の四季桜埼玉県神川町の冬桜群馬県藤岡市の冬桜です。

東京をはじめ、大都市には冬桜の名所はありません。

皇居東御苑とか、江戸川区の親水公園とか、数本はありますが、まとまった名所が無いのです。

大都市のどこかで冬桜の名所を作れば、そのまちは評判を呼ぶでしょうね。

そうなれば、枯れ木に原色LEDの寒々しいイルミネーションよりも、はるかに美しい情景になるのではないかと思います。

冬桜の特徴は、紅葉や黄葉とともに鑑賞できて色彩豊かに華やかさが演出できることと、桜のシーズンオフならではの貴重さが活かせる点です。

別の言い方をすれば、シーズンオフの夏場を超えて、最も早く咲く桜という位置づけになります。

日本で「年明け」に一番早咲きは宮崎県の北郷の桜だそうですが、沖縄の緋寒桜など競争相手が多く、この議論は不毛ですが、桜シーズンを「夏の終わりから」と定義すればよいのです。

冬桜は春の桜のような短期間ではなく、1か月以上、10月から年明けまで咲きますから、クリスマスイルミネーションなどとセットで演出することも可能です。

私達日本人には桜はあたりまえですが、桜がない外国からのお客様には特に評価されるでしょうね。

愛知県豊田市の四季桜は見事です。色がやや濃く、紅葉も香嵐渓と同様に色が濃く、コントラストが鮮やかです。

  

埼玉県神川町の「城峯(じょうみね)公園」には、7haの園内に冬桜が約600本ほどあり、ライトアップやイルミネーションが楽しめます。

   

首都圏では、群馬県藤岡市の「桜山公園」が有名です。山一面に冬桜が咲き、赤緑黄色の紅葉とのコラボレーションが楽しめます。

  

百聞は一見にしかず、冬桜の素晴らしさと臨場感をムービーで楽しんでください。春の桜とは全く違った雰囲気です。


■■■■■ 冬の佐原 川村由幸

所用で実家のあった町に出かけたついでに佐原に寄ってきました。

ここは、瀧山さんの著書「一度は行ってみたい街並発見」にも掲載されています。

午前中早めの時間だったにもかかわらず観光客の姿がチラホラ。

東日本大震災からの復旧で最後まで残っていた伊能忠敬旧宅が昨年の10月に公開が再開され、佐原の街並みは完全に震災前に戻ったと言える状況となりました。

    伊能忠敬旧宅外観 内部

修繕の跡が気になるとの思いを持つ方も居られるかとも考えますが、修繕・補修の手が行き届き、以前よりも整然とした街並みになったと感じられます。

正文堂の次に好きな中村屋乾物店も少しだけ古色が加わり、いい味になりました。

これで電柱がなくなるとさらに街並みとしてグレードアップできるのでしょう。

全壊した正文堂は街並みに馴染むまでもう少し時間が必要なようです。

甚大な被害の自然災害から人の力でここまで復旧したのですから、これからも修繕・補修を怠らず歴史と景観を維持し続けて欲しいと願っています。

小野川沿いの街並みも散策に適した風情となりました。お宿木の下は相変わらずいい味を出していますし、正上醤油も健在です。

冬は柳の葉が枯れて無くなり、小野川を挟んでの撮影がし易くなります。

かじかんだ手でシャッターを押すのが辛いシーズンですが、このように冬ならではのメリットもあるものです。

香取市は私の故郷です。

利根川を挟んだ対岸の鹿島市や神栖市のように大規模な工業地帯があるわけではありません。

農業が主たる産業で重伝建のこの佐原の街並みは大切な観光資源です。

これからもこの街並みを大切に保存し、観光資源としての価値が下がらぬように育てていって欲しいと思いつつ、シャッターをきってきました。


■■■■■ 5周年? 大野木康夫

先週末からインフルエンザで家に籠りっぱなしなので、写真の整理をしていました。

コンパクトデジタルカメラを買ったのが子どもが生まれた平成12(2000)年、それから子供中心の撮影が続き、たまに文化財建造物や風景を撮影しても家族写真の一部でしかありませんでした。

平成13(2001)年10月に撮影した鉤掛峠からの大山、松江城

殆どの写真に子どもが写っており、写っていないのはこの2枚くらいです。

そのうち子どもも大きくなり、初めて一人で撮影に行ったのが5年前の平成22(2010)年1月9日、行先は岡山県東部と兵庫県西部の城跡でした。

機材は(大きな)コンデジ、CASIO EX-FH20です。

三石城(岡山県備前市)

18枚を撮影しています。(8:31〜9:12)

比較的勾配が急な岩山の上でした。

閑谷学校(岡山県備前市)

赤穂城に向かう途中で看板が見えたので寄りました。

下調べなしだったので、閑谷神社を完全にスルーするなど非常にもったいないことをしています。

12枚(9:26〜9:43)を撮影しています。

赤穂城(兵庫県赤穂市)

山陽道経由で急いで行ったようです。

抜けるような晴天ですが、堀の水面が一部凍結するなど大変寒かった記憶があります。

国指定史跡(本丸庭園、二の丸庭園は名勝)で再整備が行われているようでした。

27枚(10:14-10:45)を撮影しています。

感状山城(兵庫県相生市)

相生市北部の「羅漢の里」が登城口なので、赤穂からは少し距離があります。

千種川沿い、赤穂市坂越あたりで渋滞したような気もします。

国指定史跡「赤松氏城跡」の一部です。

けっこう急坂でしたが、すぐに登れたと思います。

それよりも大手口が見つけにくかった印象があります。

石垣の残り具合(破城の跡)が素晴らしかったです。

32枚(11:36-12:17)を撮影しています。

龍野城・鶏籠山城(兵庫県たつの市)

麓の龍野城まではよかったのですが、背後の鶏籠山城に上る際に少し疲れてきてペースダウンしました。

おまけに肝心の写真が全然だめです。

悔いが残る結果です。

25枚(12:53-13:37)を撮影しています。

姫路城(兵庫県姫路市)

この年の連休明けから大天守の改修工事が始まるので、ほぼ天守メインで撮影しています。

偶然かどうか、人がすごく少ない中の撮影になっています。

今の私的に言えば「非常にもったいない」撮影です。

83枚(14:26-15:55)を撮影しています。

撮影枚数は6箇所で197枚です。

投稿に使った写真はlightroomで調整しました。

5年たった今、これらの城跡については再訪したくもありますが、現在の撮影ペースだとこれだけまわれないと思われます。

それ以前に山城3本登るのに当時のペースではとても登れないのですが…


■■■■■ 発掘された金象眼文字を見ながら 田中康平

寒さで荒れた天気が続くとつい出不精になる。今年は戦後70年目の年になることもあってテレビを見ていると先の戦争の話が時々特集される。

戦争体験者に取材して戦記を書いている方の座談会というのを何気なく見ていると、戦争の話をしてくれる人の話の真偽性の話になる。なんと50%以上の話がウソか誇張であるという。

それがこの類の取材をするに当たっての共通認識のようだ、驚いてしまう。

個人の記憶に残る歴史はこんなものなのだろうか。面白い話を求めるプレッシャーに負けてつい面白い話をしてしまうのだろうか。

そういえば全国各地に残る平家落人の言い伝えは多くが話の上手な木地師集団がこしらえたものだと柳田国男がどこかに書いていた。

昔からの話も話だけ伝わっているものは相当に疑ってかかる必要があるようだ。昔々のお話には物証が見たくなる。

そういう訳ばかりでもないが時々は遺跡の発掘結果の展示を見るようにしている。

つい最近では福岡市埋蔵文化財センターに福岡市西区の元岡古墳から出土した金象眼文字の入った太刀を見に行った。

展示は始まったばかりだが太刀そのものは3年半くらい前に出土して文字を明瞭にする錆取り処理に時間がかかっていたようだ。

庚寅の文字から製造は西暦570年とされる。やわらかな筆使いの感じられる金象嵌で製造技術がそれなりのレベルに達していたことをうかがわせる。

570年といえば朝鮮半島に倭国が作ったとされる任那が滅ぼされた頃だからこの位の技術はあって当然といえば当然なのだろうがきらきら輝く金の文字を眼前にみると当時の文化のレベルが伝わってきて日本書紀も一定の信頼性があるのかとも感じられてくる。

それにしても太刀に庚寅正月の庚寅日時作と刻むのは太刀に魔力を与えたということだろうか。最近見た歌舞伎の慙紅葉汗顔見勢に子の年、子の月、子の日、子の刻生まれの血が鎌にかかると妖術が敗れるという下りがあってこれを思い起こしてしまう。1000年以上の時を経て流れ続けている共通な形をそこに感じて何だかいい。

歴史は言葉だけでは伝わらない、言葉だけでは単なる言葉遊びと見分けがつかない。言葉が物につながった時、えもいわれぬ形が現れてくるように思える。

九州には神話の時代に遡る歴史的なお話が沢山伝わっているが長い時と戦火が証拠物を無としてしまっていて言葉遊びに陥りがちな雰囲気がある。

何とか物でつなげて見たい、残された歴史的遺物は出来うる限り見てみたい。そうは思っても出来ることには限りがある、物をつないで時を遡る遊びをのんびりと今年も続けていくことになるのだろうか。

写真は元岡G6号墳より出土した「庚寅銘大刀」


■■■■■ 節分祭 中山辰夫

蘆山寺(京都市上京区) 「追儺式鬼法楽」とその他の節分祭情報 

2月3日は節分祭。各地の社寺がそれぞれ伝統行事を展開します。社寺の多い京都では、その多くが除疫・招福の祈祷後に行われる福男・福女、福娘(伏見稲荷大社・平安神宮など)や舞妓(八坂神社)による豆まきに人気であるようです。でも結構ユニークな節分行事もあり、その一つである蘆山寺の行事を紹介します。

蘆山寺(上京区)は紫式部の居住跡であることや本堂前庭に咲く「桔梗」で知られ、シーズンには吟行で訪れる女性客が多く見受けられます。

加えて、節分に行われる「追儺(ついな)式鬼法楽」(鬼踊り法楽)の行事がよく知られています。法螺貝と太鼓に合わせて踊る赤・青・黒の鬼が主役で、そのユーモラスな姿を楽しむ参詣客で溢れます。

普段は閉じた大師堂もこの日はオープンです。デーンと構える三匹の鬼が並べてあります。行事の前に「鬼の御加持」が行われます。

開山の元三大師良源(慈恵大師)が宮中で護摩供を修された時に、三匹の悪鬼を退散させたという謂われが残り、1935(昭和10年)頃から始めたようです。

行事は、鬼踊りと称して、堂や周囲を乱舞する三匹の鬼たちを護摩の威力で退散させる内容です。

午後3時から始まりです。堂内で護摩が焚かれ、読経が響きます。境内は人で一杯です。

読経の声が響く中、三匹の鬼が松明や大斧、木槌を手にし、足を踏み鳴らしながら登場、乱舞しながら大師堂に向かいます。

その独特の動作は猿楽に由来すると説明にあります。赤・青・黒の鬼は人間の煩悩を表しているようです。

大師堂へ入った鬼たちは護摩供を邪魔しますが、護摩の火を受け、追儺師が放つ5本の矢に苦しみながら退散します。

その後は、豆と餅まきが行われ、境内は参拝者の大声で沸き立ちます。時々時雨が落ちる気温の低い午後でした。

節分祭の情報

●吉田神社(左京区)

京都の表鬼門に当たる吉田神社の節分祭は、節分厄除発祥の地でもある吉田社で、節分の日を中心に前後3日間にわたって、本宮と大元宮で執り行われます。大元宮は、正月と毎月1日、節分祭三日間のみ開門されます。節分の豆まきは、室町時代に宮中で行われていた様で、その内裏の追儺を引継いでいます。

2月2日の「疫神斎」・「追儺式(鬼やらい神事)」、3日の「火炉祭」と行事が行われます。この間境内には約800件の屋台が並びます。

●壬生寺(中京区)

京都の裏鬼門に当たる壬生寺の厄除節分会はさほど広くない境内で行われ、大勢の参拝客であふれます。

山伏・稚児のお練り供養と大護摩祈祷の後、壬生大念仏狂言「節分」が恒例の出番です。狂言「節分」は、後家と鬼とのやり取りの中で、鬼の誘惑に負けずにまめに働くと福徳がえられるというストーリーです。

境内で売られる素焼きの炮烙に年齢・願い事を書いて奉納しておくと、4月の壬生狂言「炮烙」の演目中に盛大に割られ、厄除けになるといわれます。

●須賀神社(左京区)

この神社は交通神社として名が通っております。異彩を放つ行事が節分祭の2月2、3日に行われます。平安装束の水干(すいかん)に烏帽子を付けた覆面の二人組が現れ、女性に懸想文(けそうぶみ)を渡します。江戸時代に登場した懸想文(恋文)の売りを復活させたもので、渡される懸想文は良縁祈願のお守りになると、年々女性の間で人気が高まっています。起源は、依頼人の思いを教養のある貴族が正体がばれないように、覆面をして代筆をしたことにちなむともいわれます。

●長田神社(神戸市)

約700年前から伝わるとされる、県重要無形民俗文化財になっている神事「追儺式」が長田神社で行われます。「神々の使い」とされる7匹の鬼が、火のついた松明を持って、足を踏みながら演舞を見せます。鬼は地元の人が受け持つとか。家内安全と無病息災を祈ってくれるようです。

●多賀大社(滋賀県多賀)

2月3日の節分には、毎年島根県川本町の因原神楽団の協力による「鬼の舞」が毎年奉納されます。

島根県内には、西部(石見地方)に古くから伝わる伝統芸能・石見神楽を維持、継承するために多くの神楽団が結成され、活躍されています。

因原神楽団もその一つで、その年の豊作や豊漁を祈願する神々に捧げる歌や踊りを、県内外で公演されています。

演舞の後、神楽団扮する鬼が登場、それを宮司が豆をまいて追い払います。続いて還暦の男女約150名が赤ずきんを被り、袴や着物姿で約200mもの特設舞台に並びます。毎年年男、年女は県内各地から集められます。かけ声に合せて一斉に厄除・招福の豆と餅をまく様は只々壮観です。

●押立神社(滋賀県東近江市)

押立神社では、節分の日に、地域の伝統舞踊「ドケ踊り」が節分行事に合わせて奉納されます。

ドケ踊りは五穀豊穣などを祈る踊りで、60年に一度開催される古式祭の渡御行列の中で披露されてきました。前回の古式祭は1971(昭和46)年でした。

神社では踊りの後継者を絶やさないようにと、保存会をつくり2006年から毎年節分の日に踊りを奉納してきました。

神事の後、還暦を迎えた氏子が福豆をまき、続いて保存会の奏でる笛や太鼓に合わせて8人の踊り手が登壇、約4分間の舞を奉納しました。

きらびやかな赤い衣装の上に般若や鬼の面をかぶった踊り手が、バチを鮮やかに振りながら「ドッケノ ドッケノ シッケノケ」という独特の掛声で踊ります。

節分祭の一風変わった行事はまだまだ各地に残っています。年一回のため多くを見ることが出来ませんが、今後も継承されるよう願っております。

写真引用≪多賀町観光協会(提供)、東近江市HP≫


■■■■■ オリオン座について 野崎順次 

子供の頃、自分の左肩の3つ並んだほくろを見て、「あの三ツ星や」と思ったのが、オリオン座を意識した始めだろうか。もう60年以上前になるが、その頃、兵庫県の尼崎市でも満天の星空があり、天の川がたゆっていた。そして、狩人オリオン座がきっと光っていたのである。

オリオン座とその周囲を示す(出典 YAHOO JAPAN きっず図鑑および星座図鑑)。

狩人オリオン座の主要部は、4つの明るい星とそれらに囲まれた三ツ星である。4つの星は、α星ベテルギウス(1等星、右肩)、γ星ベラトリクス(2等星、左肩)、κ星サイフ(2等星、右膝)、β星リゲル(1等星、左足)で、ベルトに当たる三ツ星は向かって右から、δ星ミンタカ(2等星)、ε星アルニラム(2等星)、ζ星アルニタク(2等星)である。赤いベテルギウスは、こいぬ座α星プロキオン(1等星)、おおいぬ座α星シリウス(1等星)とほぼ正三角形を描き、冬の大三角と呼ばれる。

オリオン座は、冬の日が暮れて普通の人がまだ起きている時間、午後7時から12時位に南の空に上がっているので、冬の星座と云われる。夏に見えないかというと、そうではない。夏は真夜中から夜明け前に空に上がっていて、多くの人が寝ていて見ないだけである。

晩秋にヨーロッパに行くと、もちろん、それなりの時刻に南天にオリオン座が見える。その時、あー、同じ地球の上にいるのだと感動するが、当たり前である。ロンドン、パリでどう見えたかあまり記憶にないのは日が暮れると飲んだくれていたからだろうか。デュッセルドルフの寒い夜空に見えたオリオン座は目に焼き付いている。

シベリア上空を飛ぶ旅客機から満天の星空が見えるので、いつも楽しみにしているが、星が見えすぎて、星座をたどることは少ない。グリーンランドに近づいたころ、地平線にオーロラが見えたことがあった。後の座席で寝ていた日本人娘に「オーロラが見えるよ」と教えると、直ぐにコンデジを取り出して真面目な顔で「フラッシュ届くかしら」と云った。

閑話休題、空気のきれいな場所ではオリオン座はこのように見える(出典 ウィキペディア「オリオン座」撮影者マウザー・ウィリアムズおよび2008年8月徳島県牟岐町で著者撮影)。

ご先祖様のお墓がある倉敷市児島味野ではこの程度である(2015年1月31日午後7時53−55分)。月の光が邪魔しているが、尼崎市よりはずっとましである。

赤い1等星ベテルギウスは星の一生の99.99%が終わっていて、超新星爆発寸前と云われる。地球からの距離は約642光年だから、既に爆発しているかもしれない。

最後に、私は小比類巻かほるの歌が大好きである。一人の旅先でよく聞くのが、彼女のバラードだが、その中に、「オリオンのように(小比類巻かほる作詞、大内義昭作曲)」がある。心に染み入る冬の星座の歌である。

参考資料

ウィキペディア「オリオン座」

ウィキペディア「冬の大三角」


■■■■■ 看板考「老人車」 ゆはらきみこ

埼玉県鴻巣市内でみつけた看板類です。

内閣府の発表によると2014年10月の統計で日本の高齢化率が24.1%に上昇しているとのこと。

その内訳は総人口1億2,752万人のうち65歳以上の高齢者人口は過去最高の3,079万人(前年2,975万人)。

「前期高齢者」にあたる65〜74歳は1,560万人、総人口に占める割合は12.2%。

「後期高齢者」にあたる75歳以上の人口は1,519万人、総人口に占める割合は11.9%となっているそうです。

もちろん女性のほうが数が多いです。

さらに今後も高齢化率は上昇し続けて、平成72(2060)年には、2.5人に1人が65歳以上、4人に1人が75歳以上となると予想されています。

戦争が終わり帰還した青年が次々と結婚をして、子どもたちが次々と誕生して「団塊の世代」と呼ばれる固まりとなりました。

その人々がこれまた揃って老人の世代に入って来たので、高齢化社会というよりもズバリ高齢社会になっているのですね。

産まれた時は「ベビーブーム」と呼ばれましたので、巷で老人が溢れる「老人ブーム」というのは自然な成り行きかと思いますが。

看板は埼玉県鴻巣市内で見つけたもの。

店舗はかなり古い家屋です。

売っているのは老人車が目立ちますが、屋号は「伊田ベビー」の様ですので、ベビーブーム到来頃に開店されたのでしょうね。

昔はベビーカーが並んでいたであろう場所に、今は「老人車」が並んでいる。

時代をよく表しているなぁ、としばし眺めました。

私も団塊の世代ですが、産まれてこの方たくさんの競争に次ぐ競争、切磋琢磨の場面ばかりで、働くことは大好きで、むしろがむしゃらに人生を進んできたのは、この団塊世代ではなかったかと思います。

長年の切磋琢磨で打たれ強くもあるので、いまさら4人に一人の老人と言われてお荷物扱いにされようと、気にしない面々ではあると思いますが(笑)、ともかく、老人は大切にいたしましょう。

しかし、「老人車」とは面白いネーミングです。

各メーカーのシルバーカーというくくりの注釈にはちゃんと「老人車」と掲載されていますので、立派に通用している言葉なのでしょうね。

荷物を入れたり、散歩の途中で腰かけたりできる便利な「老人車」ですが、歩行を補助する車ではないので気を付けましょう。

余談ですが、筒井康隆氏が2011年TV番組で「老人車」のことを「グランカ」というようにと、提唱されたようですが、広まらなかったようですね。


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Japan Geographic Web Magazine

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Editor Yuki Takiyama

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