Monthly Web Magazine Aug. 2016

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■■■■■ 新規に公開したEdited Movie Download YouTube

前号マガジン以降に公開した動画です。

YouTubeのJapan Geographic Channelで視聴できます。

石川県珠洲市 宝立七夕キリコ祭り

Horyu Tanabata Kiriko matsuri,Suzu city,Ishikawa

 

石川県七尾市 石崎宝燈祭

Ishizaki Houtou matsuri,Nanao city,Ishikawa

 

北海道足寄町 オンネトー

Onneto,Ashoro town,Hokkaido

エメラルド色の湖

 

北海道中富良野町美瑛町上富良野町

Nakafurano town,Kamifurano town,Biei town,Hokkaido 

 

北海道東川町 大雪山旭岳

Daisetsuzan Asahidake,Higashikawa town,Hokkaido

 

北海道積丹町 

Shakotan town,Hokkaido

 


■■■■■ Topic by Reporters


■ 能登のキリコ祭り 瀧山幸伸

百聞は一見に如かず、宝立七夕キリコ祭り石崎宝燈祭の動画を見てください。

 

祭りをレポートするには動きと音が伝わる動画が有効です。

前回は2012年に取材しましたが、当時は手持ちカメラの安定装置がなく、三脚での撮影でしたから、動きを追いかけるには今一つでした。

今回はカメラを安定させる装置を使い、直近で動きながら撮影することができましたので、臨場感が格段に向上しました。

能登のキリコ祭りは東北のねぶた祭りの源流ともいわれています。

Japan Geographicの映像は視聴率目的ではなく、国の重要無形民俗文化財に指定されている祭りを文化財として民俗学的に記録するのが目的ですから、通常のメディアのようなハイライト部分だけではなく、休憩部分はもちろん、その日の住民やイヌネコの様子なども記録しています。

この住民の目線が重要ですから、メディアのように特権的に高い位置にカメラを据えて独占撮影するなどは極力避けていますし、暗いシーンをありのままに伝えるため、雰囲気を壊すビデオ照明の使用は控えています。

長編をかなりカットしていますが、地元の人々と共に祭りの進行を楽しんでいるような一体感が得られると思います。

映像は4Kです。よく見ると、主人公の背後の空にくっきりと輝く三日月はもちろん、太鼓を叩くお父さんの背後で誇らしげに見上げている小さな息子さん、遠くで赤ん坊を抱えてお父さんを見ているお母さん、意中の青年を見つめている若い女性など、毎秒24コマに写っている人々のそれぞれが主人公で、細かい情景が読み取れるのも4K映像の利点です。

今回も良い音で録音できました。往々にして映像は嘘をつきますが音は嘘をつきません。

BGMもナレーションも入っていませんから、映像を消して音だけを再生すると、生の話し声や楽器音に集中できてさらに臨場感が増します。


■スタンプラリーもとい… 大野木康夫

昨年、京都国立博物館の鳥獣戯画展の際、家内が御朱印帖を衝動買いしました。

以来、御朱印帖は家の中で埃をかぶっていましたが、最近、思い出したように御朱印を集めだしました。

7月27日も休暇を取って市内の御朱印を回ることにしました。

教王護国寺(東寺)は弘法大師の御朱印が食堂でいただけます。

ずぼらして有料拝観ゾーンには入りませんでしたので、お参りは食堂の観音様になります。

   

東福寺は方丈で午前中のみ手書きの御朱印がいただけます。

幼稚園がなくなって二王門の裏側が撮影しやすくなりました。

     

蓮華王院(三十三間堂)は御堂中央部手前で御朱印をいただきます。

西側で工事をしていました。

   

建仁寺方丈では受付でいただきます。

平日の午後とあって、少し人も少なくなります。

   

慈照寺(銀閣寺)では出入り口のところでいただきます。

欧米の人を中心に外国の人でにぎわっています。

   

最後は南禅寺方丈ですが、ここは用紙に手書きした御朱印となります。

帰ってから糊で貼ることになりました。

   

本来御朱印は納経をした印にいただくもののようですが、早くから参拝記念にいただくという意味に変わっているようで、スタンプラリーと変わりはないのかもしれません。

子どもの頃に集めていた駅のスタンプを思い出しました。

この手で家内を連れ出して寺社巡りをしようとしても、本格的に撮影モードに入るのを嫌がるので、なかなか実現しません。

こちらが折れるのが正しい対処なのですが…


■ 南紀ぶらぶら旅 その1−尾鷲 野崎順次

7月30日(土)から31日(日)に家内は横浜の娘宅に行くことになった。こちらは先週末に出張の帰りに寄ったばかりであるから、自由の身となった。もっとも、「あんたはいつも自由でしょ。」というだろうが。

暑いからジパング倶楽部割引で涼しい信州に行って、出張でポイントの溜まった東横INNに無料で泊まるということも考えたが、暑さに体を慣らすため、南紀に行くことにした。今年の連休には、八木新宮特急バスで南紀に来て、熊野本宮大社、那智の滝、紀伊大島を回った。今回は尾鷲、新宮に行ってから、同じ長距離路線バスを逆方向に乗ろうと思う。

というわけで、7月30日午前7時30分に近鉄大阪難波駅から、名古屋行きのアーバンライナー(特急)に乗った。名古屋までの通常料金は特急券込みで4,620円である。会社の近くのチケットショップで3,300円で売っていたので、あらかじめ購入した。実際に行くのは津駅までだが、どうせ名古屋に近いから、3,300円でも得になるだろうと思っていたのだ。ところが実際には大阪難波−津の通常特急料金は3,000円だったので、300円の損であった。若い頃は事前の調べをもっと綿密にしたが、最近はとんとズボラになってしまった。ノートパソコンが不調でインターネットにつながりにくいという事情もあったが。

津駅には11時58分に着き、そこで12時1分発のJR特急南紀81号に乗り換えることになっている。3分しかない。きつそうである。遅れると1時間待ちになり、日程が狂ってくる。近鉄車内で車掌さんに聞くと、「大丈夫でしょう。」という。念のため、「どのあたりの車両に移動したらいいか?」と聞くと、「いまのままでいい。」という。津駅についてみると、プラットフォームは近鉄が1本、JRが2本で並んでいて、同じ駅で改札を通らずにJRのプラットフォームに行ける。目の前のエスカレーターでコンコースに上がり、数十メートル歩いて、尾鷲、新宮方面のプラットフォームに下りるだけである。カメラと三脚の入った重いキャリーバッグを引いていても楽勝で、JR特急が来るのを1分ばかり待ったほどであった。

津から新宮までの営業距離は200㎞未満なので、ジパング倶楽部は使えない。乗車券は新宮まで買ったが、途中下車するので、特急券は尾鷲までの自由席である。特急南紀81号は4両編成で1−2号車が普通指定席、4号車が普通指定席とグリーンで、自由席は5号車だけである。指定席がけっこう混んでいたので、心配したが、自由席はよく空いていた。海側の窓際に座って景色を楽しむ。ちなみに紀勢線の東側は電化されていないのでディーゼル車である。特有の音と振動が快く旅心をそそる。

 

10時45分尾鷲駅に着いた。比較的質素な駅で周囲も非常にローカルな感じである。町の中心はもっと海側(東)で、駅は西のはずれに位置しているからだ。ここらは海岸線もJRも国道42号線も南北に並行に走っている。

 

目的地の土井竹林は駅から南西に直線距離なら400mくらいである。南に回り込んで跨線橋を渡り少し西南に歩くと42号線に出る。

そこから北に見えるマクドナルドの横に土井竹林とお人形の家の道標があった。

民家と井戸は後回しにして、亜熱帯樹木と竹の中の道をたどると素掘りのトンネルがあった。そのトンネルの向こうが竹林であった。後で地形図で調べてみると、海路山(400.7m)から真東に下りてくる尾根の突端が竹林と民家(お人形の家など)を分断しており、そこにトンネルがある。

   

トンネルを抜けて、木戸を入るとちょっとした展望台になっている。その前に小さな谷があり、孟宗竹が林立している。土井家七世当主八郎兵衛(当主の名前は歴代八郎兵衛である)が、宝暦(1751)の頃、薩摩より母竹を運んで分植したのが始まりである。土井家は尾鷲で林業を中心に繁栄してきた大家である。江戸後期(天明・天保)の飢饉の時に土井家はお米を放出して人々を助けたので、そのお礼にトンネルを掘ったという。

太い竹が密集しているので写真撮影しても広さや奥行きの表現が難しい。でも、見上げると絶品の景色である。

  

戻ると土井本家湧井井戸がある。普通の井戸と違うのは途中まで断面が見えているからか。道を下ると水面にたどり着く。透明度の高い青い清らかな水である。水面にミズスマシがいた。家に帰ってからその写真を見たら、葉っぱの上にイモリがいた。その時は全く気付いていなかった。

 

土井家ゆかりの民家が3棟ある。紀州の殿様をお迎えするのに建てられた迎賓館の寒雨亭(お人形の家)、土井家古戸野焙炉(ほいろ)および茶納屋である。18世紀後半の頃、竹林の横には三万坪の茶畑があったそうだ。

  

駅に戻る途中で、マクドナルドの隣のお魚いちばに寄った。広い売り場の向こうにカフェテリア式の食堂があって、なかなかの人気である。時間があれば、ここで食べたかったが、いつもスケジュール優先なので、先を急いだ。わが独り旅では朝食昼食に時間をかけたことがない。

  

12時半に尾鷲駅に戻り、12時44分発の特急で新宮に向かった。

   

新宮駅到着直前に熊野川河口が見えた。この川は熊野本宮の向こう、日本最大の村十津川村を縦断し、奈良県五條市大塔村の奥の天川村、山上ヶ岳の中腹から流れてきているのである。

   


■看板考 No.51 「ペプシコーラ」  柚原君子

伊東深水、周恩来、井伏鱒二、東海林太郎、佐伯祐三たちが生まれた明治31年(1898)年に、米国ノースカロライナの薬剤師キャレブ・ブラッドハムが調合した消化不良の治療薬「ペプシン」をルーツとしてペプシは誕生しています。

ペプシコーラと同じ?別物?と時に混同されがちなコカ・コーラは全くの別の会社の物です。

ちなみにコカ・コーラはそれより8年前の1886年、同じく米国ジョージア州アトランタで薬剤師のジョン・S・ペンバートン博士が新しい飲料として発明しています。

コカ・コーラはモルヒネ中毒治療の目的でコカインとコーラナッツを配合した薬用酒として誕生したという説もあります。

コカはコカ葉を原料とする意味で、コカ葉そのものはコカインは薄いので中毒性はないとされています。

コーラナッツも原料となっていますが、こちらは興奮剤になります。

コカ・コーラは都市伝説ではベトナム戦争の兵士たちを怖がらせずに戦場で戦わせるために開発された……という説もあります。

コカインと興奮剤からそのような都市伝説になったのでしょうね。

さて看板のペプシですが、愛知県犬山市の大縣神社の近辺で撮影したものです。

ほとんど色彩のないもので朽ち果て寸前で板壁にありました。

近頃は古い看板が売れるそうで、ちなみにネットで調べたら上記のほぼ同じ形のものが売りに出されていて1,100円でした。

看板は色彩が落ちてしまっていましたが、ネットオークションで見たら上記の色彩で、アメリカ国旗の基本色である赤・青・白の3色をベースにしているそうです。

中学の時に、浅草のセキネという甘いもの屋さんで初めてコカ・コーラを飲みました。

初めて飲んだとき、ウッ!薬臭い!と思いました。当時、どういう経緯でペプシやコカ・コーラができたのか知る由もありませんでしたが、その時に感じた味覚はどうやら、今思えば正しかったみたいです。

炭酸飲料、滅多に飲みませんが、たま〜に飲むなら日本を愛する日本人としては、国産の三ツ矢サイダー!かジンジャーエールかな?


■  山口県の野菜 蒲池眞佐子

山口県は三方が海に開け、中国山地まで変化に富んだ地形をしており、全国でも珍しくたくさんの種類の農産物が生産されている。

このたくさんの農産物の美味しさに魅了され山口に移り住んだシェフがオープンしたレストランに先日行ってきた。山口市黒川にある「アランクロワ」という店だ。

採れたて野菜を使ったレストランで、具材も毎日変わる。「採れたて」も半端ない。

採れたて2分なのだ。裏の畑で採れるものを中心に近所の農家が持ってくるものを使っているらしい。

レストランへは車で、カーナビがあっても不安なところだが、野菜はみずみずしく、入っている野菜の種類も十数種類、なかなか他では食べられない数だ。

食事をしている途中にも近所の農家の人だろう、「こんなのできたけど・・」みたいな感じで野菜を持ってきていた。たくさんの野菜とともに食べるパスタ、美味しかったなぁ。

    

裏の畑 

    

もう一つ、こちらに来てびっくりした野菜の1つに「たまげなす」がある。長さが40センチ近くある。

大きいだけじゃないかと思っていたが、これがまた美味しい。包丁を入れると、サクッと切れ、その食感は熱を入れてもヘタレない。塩だけつけるだけでも美味しい。・・・怠慢料理ではないんですが・・、

貴重な野菜を作っている方も高齢化が進んでいる、是非とも作り続けれるよう守ってほしいと思う。

たまげなす 

  


■ 熱中症  田中康平

暑い日が続く。撮影でも、と出かけようにも熱中症が気になる。以前は夏は暑いのがそれらしいなどと言っていたが、近ごろは時々本当に熱中症かなという事態に陥ることがあり、日差しの強い日はかなり腰が引ける。

最初にこれが熱中症かと思ったのは数年前に訪れた屋久島で縄文杉を見に行くルートを往復した時だった。梅雨明け直後で蒸し暑い中、滝のような汗を出しながらガイド無しで長いルートを歩き登り、縄文杉から戻りにかかったところで突然太ももがつり始めた。

つった状態では全く歩けないので休んでマッサージしたりして癒して歩く。

血管に沿ってマッサージすればいいと言ってくれる人がいてそのようにすると気味が悪いくらいスッと治る、血流が止まっているようだ。

少し歩くとまた起こる。困っていると他のグループの面倒を見ていたガイドがエアーサロンパスでとりあえずの治療してくれて粉末ポカリを分けてくれた。

善意に救われ休みながらやっとのことで登山口を離れる終バスに間に合った。

熱中症というべきだと後で思った。要するに血栓が起こりやすくなる、血流が滞るようになる、致命的な血管に起これば命にかかわる、そういうことのようだ。

今年になってやはりこれは熱中症かとの事態に遭遇したのは、半月ほど前博多湾でディンギーヨットに乗っている時だった。

ヨットの上では日差しを逃れることができない、そのうちセールを操る左手がつり始めた。

こんなところは普通つらない、何だか気分が良くないし熱中症が始まったようだ。

操船を代わってもらって港に急いで戻り冷たいシャワーを浴びポカリを多めに飲んで静かにしているとどうにか回復した。

もういい加減な歳になった。暑い時は無理できない。

これといった対策はないがせめて熱中症指標のWBGTを自分で略算できるようにして危険とされる31以上では屋外になるべく出ないように気を付けている。

WBGTは元々は米海兵隊の訓練安全性のために考案された指標で、黒球温度計を用いるところに特徴があり通常は計測データが得にくいがともかく気温と湿度から何とかそれなりの推定はできるようになった。

危ない危ないと家にこもったままになるのも暑さに負けてしまったようで、悔しい思いは捨てきれないが、もはやすべてを受け入れることがやはり肝心なように思っている。

写真は屋久島縄文杉ルートおよび博多湾ヨットの風景

  


カラスの身支度 中山辰夫

最近やや静まったようですが、ここ数年の間、カラスの悪害について世論が沸騰し、その対策が大々的に報道されました。

現在も地域によっては被害が多く、カラスとの戦いはまだ続いていると聞きます。我が家の庭先の畑に育つトマトも色づくと狙われます。

カラスは頭がよくてその対策が難しいようです。近郊で見かける動作からもうなずける部分があります。残念ながらその生態については詳しくわかってないようです。

今月の報告はたまたま出くわしたカラスの一面を写したものです。

京都・建仁寺の塔頭の屋根に降り立った一羽のカラス。何か気になってその姿をカメラで追いました。全くの偶然です。

カラスの種類は『ハシブトカラス』

着地?と同時に、しきりとくちばしや頭を動かし始めました。後ろから見ているのでその動作の様子はあくまで想像です。羽繕いとしか思えません。

全身の羽を片側ずつバタつかせ、しきりとくちばしで手入れします。全身隅々まで身ぎれいするのにかかった時間は約9分間でした。写した画像は90枚。

目だった動作の一覧 (同じ動作を左右・前後で繰り返します) (Am11:38〜11:47)

         

最後の仕上げは?・・・やはりこれでした。

気持ちよさそうに飛び立つカラスに「どこへ行くの?」と聞きたくなりました。が「そんなのわたしの勝手でしょう !」と言われそうで止めました。

「カラスの行水」という諺があります。入浴時間が短く、洗い方も雑なたとえとされ、カラスが短い時間で水浴びをするさまから使われたようですが、羽繕いには随分と時間をかけてとっても丁寧にするんだと感心しました。

『カラスはとっても念入りに何度も水浴びをします。水浴びは体を綺麗に保つのと、夏だと体温を下げる役割をします。水浴びを念入りにして羽繕いをし、尾羽の付け根にある「尾脂腺」から脂を全身に塗りつけます。この脂は水をはじく役目をします。北海道では真冬になると水浴びと雪浴びを繰り返しします』(NPO法人札幌カラス研究会より教えて頂きました) 

今回写したカラスはどこかで水浴びをしてきたようにも思えます。

カラスについてはウイキペデイアにも詳細な報告があります。検索すれば多くの情報が得られます。

たまたま「隙をつくったカラス」と「飽きもせず時間を共にした年寄り」が作り上げた記録?と一人納得しています。


■バックペイン 川村由幸

肩・背中・腰 自分の背面に発生するいろいろで厄介な痛みをバックペインと呼ぶことは皆さんご存知でしょう。

私がこれを自覚したのは30半ばであったと記憶しています。

仕事に追われ、疲れがたまっていたところで深酒をした翌朝、背骨と肩甲骨の間に錐を差し込まれたような激しい痛みを感じ、首が回らなくなっていました。

医者に行くと脊椎の神経がなんらかの理由で刺激されているそうで、首の牽引療法をすると直ぐに良くなりました。

でも、その後もこの症状は繰り返し発生し、随分と苦しめられました。

今でも、深酒すると時に背骨と肩甲骨の間に現れます。

そのあとに来たのが腰痛です。確かギックリ腰がきっかけだったと記憶しています。

出張先でギックリ腰になり、駅の階段、一段一段登ることは出来ても、降りることができないのです。

20年以上前で今のように駅のいたる所にエレベーターはなかったのです。

上野駅からの常磐線、吊革にほぼ懸垂状態でしがみついていたのを鮮明に覚えています。

これで腰痛とも長い友達になってしまいました。

最後に来たのが、四十肩・五十肩と言われる肩の関節痛、経験のある方はご承知でしょうが、ベットに入り眠ろうとするとなんとも形容しがたい鈍痛がずっと続きます。

こいつは右も左も両方やってきましたし、今左は2回目のお出まし中です。

この3種類のバックペインが時を選ばずランダムにやってきます。必ずどれかしらが背中に居ると言って良いでしょう。

加齢もバックペインの大きな原因でしょうから、最近はあきらめて医者にも行きません。

鈍感になってもいるのでしょう、痛みを上手にうっちゃることが出来るようになってしまいました。

腰痛は人間の直立歩行が原因のようで人類には避けられないようですから、うまく付き合うようにするしかありません。

ただ、このところ右腰から右ひざにかけてけっこうな痛みがやってきています。椎間板ヘルニア経験者の娘には坐骨神経痛の症状だと脅されてます。

それでも、昨日より今日は随分と痛みが和らいでいるようで、なんとかうっちゃることが出来そうです。

こうして30年を超える時を、バックペインとお付き合いしてきています。


■ おばちゃんカメラマンが行く@キリコ祭り 事務局

7月から9月にかけて石川県の各地でキリコ祭りがおこなわれる。

軽快なお囃子とともに、大型の燈篭を模した山車を引き廻す荘厳なお祭りだ。

今回は、石崎宝燈祭りと宝立七夕キリコ祭りの撮影に行った。

宝立のキリコ祭りはキリコとしては石崎と大きさは等しいが、浜辺で動き最終的に入水し、フィナーレは花火で演出するという一連の流れは圧巻だ。

石崎は狭い堂前に揃い一基ずつ乱舞してお披露目し、町内を廻って行く。

漁師町特有の狭い路地で、山車がやっと通れるくらいの幅だ。

見物客を押しのけながら若衆が掛け声をかけ路地を曲がる。

お囃子もあおるかのように激しくなる。やはり祭りは近くで担ぎ手の息づかいを感じたい。

ところで、この地方 家の広間が公道に面しており、まさにキリコ祭りのために作られたのではないかと思うほどだ。

どの家も戸を全開にし、簡単な衝立や御簾がかかっている。

夜になれば中は丸見えで、お膳の上のごちそうから酔っぱらったおじさんまで見え隠れする。

お盆には帰らずとも、キリコ祭りには地方に散った親戚や友人が返ってくると聞く。

開け放した広間に帰ってきた知り合いが子供を連れて挨拶している姿を何度も見る。

必ず寄ってけ。上がれと勧める。なんともほほえましい慣わしだ。

観光客が大きな家の広間にあった大仏壇に感激したのだろう。しばらく眺めて、カメラで撮ろうとしたところ、中のおばさんが出てきた。

都会だと中を撮るなととがめられるのだが、おばさんは仏壇の自慢話を始めた。

なんとフレンドリーなんだろう。

何とかなるだろうと夕食を持たず行った我々に、自分たちのためにわざわざ取り寄せた笹寿しを譲ってくれた商店のおばさんもいい人だった。(この日は仕出しで忙しく小売店では食料調達は困難)

祭りは住民あっての祭りで、山車だけではなくその土地の人たちの暮らしぶりも感じることで、面白さが増してくる。

カメラでこの感動を切り取る事は難しいと実感する。


 

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Editor Yuki Takiyama

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