JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Sep. 2019

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■■■■■ Topics by Reporters


白神山地の十二湖 瀧山幸伸

白神山地は海底の堆積物が隆起して形成されたため地盤がもろく、十二湖の背後にそびえる白神岳も、十二湖の海側に位置する日本キャニオンも崩壊が激しい。
十二湖は、江戸時代の宝永元年(1704年)の大地震で大崩落が起き、沢がせき止められて形成されたといわれている。
 

十二湖はどの季節でも楽しめる。青い不思議な色の青池など、湖水の美しさはもちろんのこと、森の中に点在するので風が少なく、水面が鏡のような風景を愉しむことができる。
     

ブナを中心とした植生の美しさ、その豊かな植生がもたらす野鳥や、カモシカ、クマ、サルなどの動物たちに出会うことも楽しい。春にはイチゲやニリンソウなどの花が咲き乱れ、夏にはブナの緑、秋には紅葉が美しく、森を歩けばブナやメープルの甘い香りに包まれ、四季を通じて野鳥の声に癒される。

      

さらに良いことに、平坦な高原なのでトレッキングは安全で快適、一日かければほぼ全ての湖を訪問することができる。
このように素晴らしい環境が残っていることに感謝したい。



■山里の伝統行事  大野木康夫


8月24日に行われた久多の花笠踊を見に行きました。
久多は京都市左京区のほぼ北端、安曇川支流の久多川流域に位置する山里で、住民基本台帳人口では7月現在で92人、65歳以上の人口比は45.7%を占めます。
市内中心部に行くには一旦大津市の葛川に出て国道367号線で花折峠、大原、八瀬を通っていく方が能見峠、花脊を通っていくよりもはるかに速く着きます。
冬は積雪がすごく、昔、職場の同僚(故人)の家が久多で民宿をしていて、クリスマスに泊まって翌日出勤するとき、前日まで雪がなかったのに一晩で車のボンネットを越すくらいの雪が積もったことがありました。(同僚は何事もなかったように車で送ってくれとので、出勤時間には余裕で間に合いました。)
また、就職直後の研修で、久多の大黒谷キャンプ場に泊まって間伐材でベンチを作ったときも、4月なのに夜は雪がちらついて震え上がった記憶があります。



当日、昼間は晴れていたのですが、午後5時頃に国道から久多方面に向かった頃には雨が落ちてきて、志古淵神社に着いた頃にはけっこうしっかりした雨が降りだしました。
社務所には保存会の方が詰めておられて、やぐらやスピーカーの準備は終わっていました。



花笠踊は午後8時に志古淵神社から1.5km北の上の宮神社で始まるということでしたが、途中の中の町の花宿に寄って花笠を撮影させていただきました。
 


その後、上の宮神社で待っていたのですが、雨のため、上の宮神社と大川神社での奉納は中止となり、9時から志古淵神社で始めるということになりました。今年の取材は天候に恵まれません。



拝殿に並べられる花笠



本殿に参拝する神殿(こうどの)



先立って行われる盆踊り
旧愛宕郡(おたきぐん)に広く分布する「てっせん」に似た古い形式の盆踊唄ですが、録音でした。
 


神殿がすべての花笠を本殿に供えます。


花笠を返された参加者は、鳥居の近くに集合します。
棒を持っているのは「より棒」で、踊りの開始に際して棒を打ち合います。花笠を見せてもらった中の町の人です。


花笠踊が始まりました。
花笠はろうそくの灯が入った紙製の灯籠形式のもので、かつては少年がかぶって踊っていたようですが、近年では大人が手に盛って踊るようになっています。
歌い手が歌う七曲の歌に合わせて花笠を振ったり腰をかがめたりして踊りますが、油断すると花笠が燃えてしまうので、難しいようです。
始めは歌い手の後ろで並んで踊り、神殿の挨拶の後は、やぐらの周りを回って踊ります。
踊り手には少年も交じっており、次世代への継承に向けた取り組みもなされているように感じました。
    

踊りが終わったのが10時30分過ぎ、車で家に帰ったら12時前になっていましたので、雨が降らずに予定どおりなら日付を越えていたと思います。





■ 長浜城跡(滋賀県長浜市)で石垣発見  中山辰夫

羽柴(豊臣)秀吉が1574年頃から築城した長浜城跡から、秀吉が城主であった頃に造られたと思われる石垣の一部が見つかりました。
長浜城は秀吉が始めて築城した城で「出世城」として知られます。湖岸にある豊公園が本丸跡とされてきました。

今回見つかった石垣

 

今年2月から9カ所を調査した1か所で確認された石垣は、石垣の基礎部分に当たり、9個の石が並び、石材の大きさは4980cm。
石材の大きさが統一されていないことや、くさびを使った痕跡ないことから、秀吉、柴田勝豊、山内一豊が城主だった157490年頃のもので、秀吉の時期の可能性が高いとのこと。
長浜城は「今浜城」と呼ばれ、浅井氏が滅亡すると、織田信長はその攻略に最も戦功のあった羽柴秀吉に湖北の地と小谷城を与えた(1573年)。小谷城に入った秀吉はすぐに今浜に築城を開始し、地名を長浜に改めた(1575年)。信長の没後、城は柴田勝家に与えられ甥の勝豊が入城した。その後柴田勝家と秀吉の関係が緊張し、秀吉の支配下になった。1583年柴田勝家が敗北するまで当城は秀吉の戦略・兵站基地となっていました。その後山内一豊が1590年まで居城しました。
勝豊や一豊は大規模な石垣を造るほどの石高でなかったことから秀吉が造らせた石垣とみなされています。

1606年内藤信成が藩主となります。信成の移封は大坂城の豊臣に備えるためで、城の大修築が行われました。現在に残る遺構はこの修築時のものとされます。1615年内藤信成は摂津に移封となり、長浜藩は廃藩、城は廃城となりました。
廃城後長浜城の建造物・石垣などは彦根城に移されたとされ、本丸や御殿付近は石垣を含め徹底した破壊が行われたようです。
今まで秀吉の時代に遡れる確実な資料・遺構は発見されていませんでした。今回の発見は、秀吉時代の遺構として注目されています。

残されている長浜城の遺構が2点あります。
知善院の表門-当城の搦手門を移築したもの。

 

大通寺の台所門-当城の大手門を移築したもの。

  

現在の長浜城

   

1983(昭和58)年、天守閣型の「長浜城歴史博物館」として開館しました。工事費は再建を願う多くの市民の寄付によるところが大きかったようです。




■ 高梨氏庭園-野田市  川村由幸

醤油の町、野田市に行ってきました。隣町ですから行ってきたと言うほどのことはありませんが。
目的は旧花野井家住宅と高梨氏庭園の撮影でした。開館時間の早い旧花野井家住宅に到着すると門の鍵が閉まっています。なんと月曜日から水曜日まで閉館、この日は水曜日、後から書き加えられている閉館日でした。来館者が少ないのでしょう。その結果が週休3日。重要文化財なんです、ここ。
落胆を抑えて高梨氏庭園に、ここは開館時間が遅くまだ開館前、スタートのつまづきが尾を引きます。

高梨氏庭園は二度目の訪問ですが、今回はじめて高梨家がキッコーマンの創業一族であることを知りました。
キッコーマンと言えば、茂木一族とばかり理解していました。醤油でいえば高梨家のほうが先だったようです。
 
要するに高梨さんの家なんですが、門からして二重、手前の門は後付けなんでしょうか。
入口からして醸造業は儲かるんだなと実感させてくれます。残念ながらここ、名前の通り見学できるのは庭園だけなんです。
多くの建造物がありますが、建物の内部は見学できません。
 
手入れの行き届いた庭と和風建築、なぜか初回の訪問時より今回の方がよりその価値を高く評価している自分が居ました。
その広さから維持・管理の苦労も実感出来ます。
 
建物の内部は見学できないのですが、外からの見学でも十分です。
閉め切っているよりも風を入れたほうが建造物にもプラスではないでしょうか。
 
ともかく、シャッターを切りながらとても気持ちの良い時間が過ごせたことは確かです。
この日が夏の暑さから解放された一日であったことを差し引いても素敵な時間でした。
野田市には茂木一族に関係する文化財も多く存在します。現在もお住まいのため公開されていません。
近い将来、これが一般公開されるのを今から楽しみにしています。




■  ナガサキアゲハから発散していく思い 田中康平

台風が近くを通るといつもは目にしない生き物が現れることがある。台風が運ぶのだろう。今年は福岡直撃の台風はまだないがそばを通りそうになったのに台風10号がある。8月14日頃予定より少し東のコースとなりここ福岡には被害は出なかったが風や雨はそれなりのものがあった。14日の夕方戸締りをと外に出ると見かけない大型の蝶が羽を広げている。写真に撮って調べるとナガサキアゲハと判明する。これまではこの庭では見なかった蝶だ。翌日朝にもひらひら飛んでいたがどことなく元気がない、そのうち見えなくなってしまった。
その翌日になって庭で羽根がボロボロになった瀕死の蝶を見つけたがこれが前の日に見たナガサキアゲハのようだ。弱ったところを虫にでも食われたのだろうか、寿命のように見える。そのままにしておいたら、翌日は一日雨で上がったところで庭を見ると完全に亡くなっているナガサキアゲハの残骸が同じところに残されていた。微生物の餌になり命は巡っていくのだろう。
しかし何かの縁だ。せっかくだからとナガサキアゲハについて少し調べるてみる。形の上での特徴は尾翼に他のクロアゲハのような突起がないことだ。
ナガサキアゲハ(Papilio memnon thunbergi Von Siebold, 1824)は幕末に長崎で日本の情報収集に明け暮れたシーボルトによって欧州に紹介され学名が付けられた生き物の一つだ。ナガサキアゲハの「ナガサキ」という和名の由来もシーボルトだ。シーボルトの名前のついた生物は他にも色々あってアオバト(Treron sieboldii)もその一つだ、これも習性が面白く最近遠出して海辺のアオバトを見に行ったばかりだ。
ナガサキアゲハは南方系の蝶で近畿以南に分布していたのがこのところの温暖化で北上していて東北でも生息が確認されるまでになっているようだ。多くの生物にとっては温暖化は生育できる範囲が広がり喜ばしいことなのだろう、人類も温暖化に頑なに抵抗するよりより北へ居住範囲を拡大していく努力が必要のように思えてくる。
シーボルトは5年ほど幕末の日本に滞在した後、大量の資料を持ち帰ろうとして荷物を積んだ船が難破し禁制の地図を運びだそうとしていたのがばれて咎められ国外追放となった。それでも運び出せた資料や標本は多量でその時代の日本についての客観的資料を世界に残しえた功績は大きい。思い返せば魏志倭人伝から始まり戦国時代のルイスフロイスによる日本の詳細な記述や明治に入ってもイサベラバード女史による北海道までの紀行記録など海外の人の目による記録が幾つもその時代の貴重な日本の風物の客観的記録になっている。日本人自身では得難い視点は日本が閉じられた島国であることからどうしようもないことのように思える。自国民の目では見れていないことがいまだに多くあるような気がしている。

思いは発散していくがナガサキアゲハからも学ぶことが多い。

(写真は順に 1.ナガサキアゲハ 、2.瀕死のナガサキアゲハ、3.ナガサキアゲハの死 、4.アオバト)
   



■ 季節の花 蒲池眞佐子

車の中から見ると道路ののり面に白い花が沢山咲いている。
あれはなんだ?と思ってもなかなか駐車もできないし、わからなかったが、同じ花が一輪近くに咲いていた。
名前がわからない時はオッケーグーグルが教えてくれる。
便利な時代だ。「この花なに?」ででてきた名前は鉄砲ゆりだったった。
なぜのり面なんかに沢山咲いているのかは不明だが、自生しているのがすごい。
 

鉄砲ゆりを探して歩いていると他の花々にも出会ったので、ついでに撮りながら名前を検索してみた。

クロッカス
 

センニンソウ
 

ムラサキルエリラ


タケシマラッキョウ


リリー


ムクゲ
 

注意してみるといろんな花が咲いているものだが、名前を知らないものも多い。
検索したところの名前なので、間違っているかもしれない、その点はご了承下さい。
途中、事務所の垣根に使われている常緑高木にもかわいい実がなっていた。
 







■  今、バスケットについて語ろう 野崎順次

中学校から大学までずっとバスケット部だった。高校3年の時には県大会で優勝し、インターハイでは準々決勝(ベスト8)までいった。社会人になってからは、友人の作った実業団チーム(大阪)に誘われ、15年くらいプレイした。

横浜在住の孫二人がミニバスケットボールに所属したので、たまに試合を見に行く。また、NBAの八村塁、渡邊雄太の参加により日本チームの成長が著しい。現在の日本チームには入っていないが、小柄な富樫勇樹のプレイが好きである。

そこで、かねてより、バスケットボール(以下バスケット)に考えていたことをまとめてみた。

サッカーやラグビーは地面の上で行う自然発生的な競技といえるが、バスケットは1891年にアメリカのマサーチュ−セッツ州で一人の人物、ジェームズ・ネイスミスによって考案された。世界最初の試合に18人が参加したが、その内の一人は日本人だった。石川源三郎(1866−1956)という人で、奇しくも、その親戚の方(やはり石川さんで非常に紳士的)が私の生家の斜め向かいに住んでいた。

基本的にバスケットは体育館の板の間の上で行う。地面と違って、板の間では滑ったりずれたりせず、ピタリと止まれるので、足首、膝、腰にかかる負担が大きい。サッカーやラグビーはかなり高齢になっても続ける人があるが、バスケットは少ない。中年になって久しぶりにOB戦に出場し、速攻で走りながら振り返った瞬間にアキレス腱を切ったという話を聞いた。

バスケットの得点は高さ10フィート(3.05m)のリングにボールを入れるのだから、背が高いのが絶対に有利である。ショットだけでなく、リバウンド、パスなど基本的なプレイは背が高い方が容易である。強いチームを作るにはでかいプレーヤーを集めるのが一番である。これは非常に単純で不公平な原則であるが、仕方がない。

とにかくショットが入れば得点になる。それも遠ければ3点ショットというアドバンテージがある。ここに背の低い人の活路がある。遠いショットは単純な動作なので、正しく教えてやれば、ほぼ誰でも、90%以上入る。高校の頃、練習の終わりに全員がディフェンス無しのショット練習をした。遠い距離で今でいう3点ショットである。100本打って90本以上入るのが普通だった。

昔に比べてボールのハンドリングがよくなったので、プロもアマもドリブルが上手になった。一人のガードがドリブルでボール運びをするのをよく見るが、ドリブルよりもパスの方が早いことを忘れてはならない。ドリブルテクニックに夢中になって、前方にパスするチャンスを逃すのは愚の骨頂である。NBAの試合を見ていると、ひとりでドリブルし過ぎないようにしつけられているのがよく解る。

ミニバスケや中学生レベルの試合を見て一番感じるのは、どちらの手でもほぼ同じくドリブルできる選手が少ないことである。右利きで左手を使うのが苦手な場合は、ドライブインしてくるのは利き腕の方だからコースを読みやすい。私の従兄も学生時代にバスケをしていたが、右利きなので、両手が使えるように、トイレでお尻を拭くのも左手を使うようにしていた。

それから、不親切なバスが多いように思える。片手で投げやりなパスは捕りにくいしショットのタイミングが乱される。状況が許す限り、両手で相手の胸のあたりに床と平行な直線のパスをする。矢のようなパスである。筋力と安定性が向上すれば、片手で正確なパスができるようになる。また、プレイの上で不可欠であれば、山なりのループパスも必要になる。

古い話をすれば、私が学生の頃(50−60年前)、バスケットは頭脳的なスポーツだといわれた。ファール判定が厳格だったのでスクリーンプレイがもっと有効だったし、試合の流れを有利に運ぶため緩急自在に攻め方を変化させたり、多種多様のフェイクで身長差をカバーした。あまり大きな声では言えないが、事実、バスケット部員の学業成績は他の運動部に比べてよかった記憶がある。それが今では、巨人のぶつかり合う「パワープレイ」になっている。時代の変遷というべきか。




■ 看板考 No.79 「でんわ でんぽう」  柚原君子

 

所在地:板橋区大山金井町

「モウチョウ スグ キタレ」
村に1軒しかない電話持ちの家からお手伝いさんがやってきて、電報を手渡ししてくれた。東京都中央区水天宮で食堂を経営していた父の兄から届いた電報だった。濃尾平野の真ん中で農業をしていた父は東京へ駆けつけて、盲腸を患って緊急入院をした兄の食堂の調理場を一ヶ月間手伝った。
帰郷の後、父は「わしは東京に出て兄と同じような食堂をやる
と言った。
10歳、8歳、3歳の三人の子どもと妻と72歳になる母親を連れて、210坪の家と先祖伝来の多くの田畑を売却しての父の決断だった。私たちが「東海一号」で7時間掛けて上京したのは9月1日。その20日後に売却した家と田畑は歴史に残る伊勢湾台風で大洪水のど真ん中となり、生きる道ギリギリのところで運良く私たち一家は東京の住人となった。

あのとき、おじさんが盲腸になっても、臨時のコックさんが雇われて「でんぽう」の必要もなく、父が上京に至らなかったら、私たちは伊勢湾台風の後をどのように生きただろうか、としばらく家族の口の端にのぼっていた。

あれから半世紀。
「でんぽう」が来て私たちが後にしたふるさと「古知野」は、ベッドタウンとなって著しい発展を遂げた。村の真ん中を国道が通り、細い農道を経てたどり着いた木造だった駅は「江南」と名を変え、いまでは特急停車駅となった。
父の持っていた先祖伝来の田畑にはマンションや大きな住宅が建ち並んでいる。先祖伝来の田畑を順番に売っていたら何十億という財産だった、としばらくは家族の口の端にのぼっていた。
「でんぽう」がなくてあのまま田舎にいたら私たちは大金持ちの一族になっていたに違いない、と妹が言う。いやいや、成金で身を持ち崩して、俺たちは不良三姉弟妹になっていたかも知れないぞ、と弟が言う。父は愛人を作り、母はホストクラブに通い、変な会員証を山ほど買って、その後にやってきたバブルで一文無しに!なっているかも……週刊誌の読み過ぎ!と妹が茶々を入れる……。

近所に珍しい看板があるのに気がついたのは最近だ。随分と上の方にあったので目に入らなかった。間近で見ることは出来ないが昭和の時代のレアものとにらんでいる。
看板考のために写真に収めて帰宅した後、生家にずーーーと昔に届いた「でんぽう」と、家族一同が村人の見送りを受けて、東海一号で古知野駅を出発したセピア色の日を久しぶりに思い出した。


■ おばちゃんカメラマンが行く @新潟県村上市 JG事務局

9月に入り秋めいてくるのかと思いきや、残暑が続き蓄積夏バテで、カメラ持ってルンルンという雰囲気ではない。
しかし確実に秋は訪れているようで、魚屋の店頭には、マグロに代わり鮭の解体や生イクラの量り売りなど、色彩的にも健康的で食欲がそそられる催事が始まった。

デパートで生イクラのほぐし実演販売


東日本大震災の影響で福島の鮭の遡上数は激減(10分の1)したという話だが、稚魚の放流を行うも、まだ試験運用中でサケ釣りは全面解禁になっていない。
自然の生態系が崩れると元に戻すのは容易でないことを知らされる。
話は変わるが、以前登場した89才の母かね子さんは「塩引き」を毎年12月に調達しお正月の準備とするのが常だった。
山形出身で新潟に住んでいたことのあるかね子さんの「塩引き」という言葉を、私はしばらく新巻き鮭を表す方言だと思っていたのだが、村上に行って別物であることを知った。
簡単に言うと、塩引き鮭は、エラ、内臓をとりのぞいたのち、粗塩をうろこに逆らってまぶして(これを引くと言う)数日置き水で洗ってぬめりを取り塩抜きし、寒風で三週間ほど干す。
新巻き鮭は単純にエラ、内臓を取って、塩漬けにし、塩を洗って干す。塩引き鮭は新潟の村上地方が中心となり広まったものだが、新巻き鮭は北海道や岩手大槌町から広まったという説もある。
どちらも似た作り方だが、塩引き鮭は熟成しているためか独特のうまみがあり、今思えばかね子さんが塩引きにこだわって使い分けていたのだと理解できる。東京に来てからは、塩鮭と言って塩ふり鮭を年中食していたような気がする。
先日89才かね子さんが、そろそろ塩引き買わなくちゃねと真顔で言ったのを見て、食に対するこだわりは、まだらにぼけてしまっても一生残るのだと驚いた。
おばちゃんになった筆者も身の引き締まった塩引き鮭と新米ご飯のコラボが懐かしく、今年は村上からお取り寄せしてみようかと思う。

旧若林家


吉川



今月のニャンコ
愛媛県大洲市青島

観光客は立ち入り禁止だが、住猫は良いらしい。
売り物のヒジキの干場を闊歩する猫



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Japan Geographic Web Magazine
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Editor Yukinobu Takiyama
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