JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  June 2023


■■■■■ Topics by Reporters

■今こそ耶馬渓  -世界遺産への道-    瀧山幸伸

 

今こそ耶馬渓を世界に知ってもらう時だ。

自分は九州には年数回必ず調査訪問する。その際耶馬渓にはほぼ必ず立ち寄る。

耶馬渓は従来より国の名勝に指定されており、最近は日本遺産にも 「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく~」 として登録されているが、名勝の扱いも日本遺産の扱いも中途半端に思える。

やはり耶馬渓は世界遺産にふさわしい。とは言っても、かつて戦前にはそこそこ観光開発された耶馬渓も、現在の認知度はほとんどないに等しいし、今後無分別に観光開発をして貴重な文化遺産を散逸させるべきでもない。世界で共通の価値基準を共有できる人たちが集うシステムとして、世界遺産の仕組みを利用するのが合理的な方向だ。

だが、耶馬渓だけで単独の世界遺産になるはずもなく、単独の世界遺産にするべきでもない。耶馬渓と共通の自然環境に育まれ、共通の文化的価値を統合した複合遺産としての世界遺産登録を目指すべきである。神仏習合はアニミズムで、原始的で低俗なものとの無意識の価値基準を持つ西洋文明に対峙し、世界的にも類を見ない高度な精神性と平和共生思想を持つ修験道の地としてその価値は明白だ。(価値の評価については2012年に六郷満山の項で少々記述している。)

自然遺産と文化遺産が融合した複合遺産としては、富士山が最も有力な候補であったが、道路やゴミなどで自然が破壊されており、復元の見通しも立たないことから文化遺産として登録された経緯がある。

世界遺産候補リストに耶馬渓とともに掲載されるべき地は明白だ。国東半島の六郷満山周辺、福岡県側の英彦山周辺、救菩提周辺、東峰村の岩屋神社周辺と行者杉周辺だ。同じ価値基準で周辺の地がさらに加わるにしても、これらのコアリストが連合して複合遺産として認定される日は必ず来ると思っている。

それにしても、かつて国東半島の六郷満山が単独で世界遺産の候補申請をしたが国内の審査で門前払いされたのは実に残念だった。見識ある審議委員であれば、大分県と福岡県が共同して複合遺産化を推進するよう助言すべきだった。

 

 

 


興福寺について  大野木康夫


奈良興福寺の国宝五重塔(室町中期、応永33(1426)年の建築)でもうすぐ120年ぶりの保存修理工事が始まるということでしたので、5月末に撮影に行きました。
以前は中金堂の基壇に登って撮影していたのですが、中金堂が復興してから基壇には登れなくなったので、差し上げ撮影などを使っていろいろな角度から撮影しました。
   

興福寺と言えば、起源となる山階寺(やましなでら)が私が住む京都山科に創建され、藤原京、平城京と移転したそうです。
山階寺の位置はよくわかっていませんが、近所の石材店のところに石碑が建っています。
  

平城京に移ってからは藤原氏の氏寺として、また、中世は大和国の実質的な守護職となるなど大きな勢力を保ちます。
しかし、明治の神仏分離で僧侶が全員還俗して廃寺寸前となるなど大きな危機を迎えます。これを推し進めた奈良県知事は藤原氏一族である四条隆平であったことも、時代の波を感じます。
これにより、五重塔が売却されましたが、費用の関係で解体されずに現在もその姿をとどめることになったのは幸いでした。
その後興福寺は復興し、近年では伽藍の復興に着手するまでになりました。
江戸時代にあった門跡寺院や塔頭はことごとく姿を消して公共施設や宿泊施設などに姿を変えていますが、それを乗り越えて残る建造物のうち4棟が国宝に、2棟は重要文化財に指定されています。

国宝(五重塔以外)

三重塔 鎌倉前期の建築
 

東金堂 室町中期応永22(1425)年の建築
 

北円堂 鎌倉前期承元4(1210)年の建築
 

重要文化財

大湯屋 室町中期応永(1394-1427)頃の建築
 

南円堂 江戸中期寛保元(1741)年の建築
 

五重塔の保存修理工事は8年ほど続きますので、完成時に元気に生きているかどうかはわかりませんが、また見に行きたいと思います。


■ 蟇股あちこち 38  中山辰夫

今月は三重県です。
2017年に国宝指定となった専修寺の「御影堂」、高倉神社(1574 国重文)、大村神社(1587 国重文)、金剛証寺(1609 国重文) いずれも由緒のある寺社で、蟇股・他の彫刻も見応えがあります。



■失われた建造物 =重文跡を訪ねて= 大恩寺念仏堂  酒井英樹


 明治30年(1897)に「古社寺保存法」に基づいて特別保存建造物の指定から126年・・5615棟(令和5年5月現在)の建造物が重要文化財(古社寺保存法での特別保存建造物、国宝保存法での国宝を含む)に指定された。
 しかしながらこの内、第二次世界大戦末期の戦災による焼失などにより滅失で指定解除された建造物は242棟となっている。

 重要文化財指定解除後、跡地に再建したものもあれば更地のものも存在している。
 そこで、かつて重要文化財建造物のあった場所を訪ね、その現状をかつての雄姿(古写真)と共に紹介していきます。

 今回は愛知県豊川市にある浄土宗に属する古刹の大恩寺。
 
 大恩寺
 
 
 大恩寺は松平宗家4代松平親忠が室町時代中期の文明9年(1477)に新宮山に開基、その後現在地の御津山に移した。
 その後、松平広忠により寺名を大恩寺と改称した。
 江戸時代、徳川家ゆかり(徳川家康は松平親忠の来孫)の寺院として、また牛久保藩牧野家の菩提寺として栄えた。

  大恩寺本堂
 

  大恩寺山門
 
 
 焼失した念仏堂は本堂より一段下で南に山が迫る平地に建っていた。
 天文22年(1553)に建立で、規模は桁行5間、梁間5間で一重の仏殿。
 建立にあたっては、寺草創期の文明年間に建立されたと思われる方3間仏堂の部材が転用されたことが解体修理の際の調査で判明した。
 江戸時代半ばごろに瓦葺に改められたが、昭和28年の修理の際に元の檜皮葺に戻されていた。

 附の1間厨子は弘治3年の刻銘がある。
 
 数少ない中世末期の禅宗様5間堂で、建築年代や前身建造物に遡れる貴重な遺構であったが、平成6年8月9日檜皮の屋根から出火(原因不明)で全焼した。

 焼失前の本殿(『戦災等による焼失文化財 文化庁』より)
 
 
 本殿内部(『戦災等による焼失文化財 文化庁』より)
 中央に附けたりの厨子が見える
 
 
 火災からおおよそ30年経過した先日、大恩寺を訪れた。
 徳川家ゆかりの古刹として堂々たる寺院であったが、残念ながら念仏堂の姿はなかった。
 焼失した後、念仏堂は再建されることなく、更地となって駐車スペースとなっていた。
 ただ、この場所にかつて重要文化財建造物の念仏堂が建っていたことを示す石碑と説明板が往時をしのばせるだけであった。

 駐車スペースとなっていたかつての念仏堂跡地
   
 
 「重要文化財 大恩寺念仏堂跡」石碑と説明板
    

 大恩寺念仏堂の火災を受け国は植物性屋根素材の火災対策を通知した。
 檜皮葺の場合は小さな種火でも発火しやすく、一度鎮火したとしても再び出火する場合があるなど注意事項が記され万が一の場合に備えた。

 おおよそ15年後、平成22年8月25日 岐阜県神戸町にある日吉神社三重塔の檜皮葺の最上部の屋根が一部焼損した。
 この際、完全鎮火に3時間近く要したが、幸いにも全焼を免れ今日に雄姿を見せている。
 大恩寺念仏堂の教訓が生かされたためといわれている。

 日吉神社三重塔(岐阜県神戸町) 平成21年(2009)撮影
 
 
 大恩寺には平成5年の冬に立ち寄ったことがある。
 時間が遅かったこともあり、念仏堂は閉まっていたので外観写真のみ撮影して後日・・許可を得て内部撮影をと思い寺を後にした。
 1年半後の火災で内部撮影は実現できず、また某理由で外観写真も失ったが1枚だけ手元に残った。

 大恩寺念仏堂 平成5年(1993)2月撮影
 

 写真を見ていると念仏堂の雄姿が頭に思い浮かぶ。
 覆水盆に返らず・・重要文化財解除のニュースは二度と聞きたくはない。だが、万が一に備えて一つでも多くの写真をという思いを抱きしめ大恩寺を後にした。




阿蘇のミヤマキリシマ  田中康平 

九州はこの時期標高1200m以上位の所に咲くミヤマキリシマが美しい。阿蘇の噴火も落ち着いてきたようでもあるし久し振りに阿蘇山エリアに出かけてみた。5月16,17日のことになる。
阿蘇山草千里あたりからミヤマキリシマが目につくようになる。火口に向かうロープ―ウエーの乗り場周辺が結構よかった記憶があってみてみる。一面に咲いているが火山ガスのせいと思われる枯れ枝も目立つ。以前見たほどには迫力はない。ロープ―ウエー自体はもうとうに噴火でやられて運航を止めており今は鉄塔も撤去されている。代わりに火口駐車場に向かう道が整備されていて火口すぐわきにクルマを停められるようになっている、便利といえば便利だが、いざ噴火となると人はトーチカに逃げ込めば何とか命は助かりそうだがクルマは破壊されてしまうだろう。
翌日は阿蘇山のもう一つのミヤマキリシマの名所、仙酔峡に行ってみる。こちらもミヤマキリシマを上から眺められることで知られたロープ―ウエーは鉄塔だけを残しロープは撤去され運航を完全にやめている。ミヤマキリシマは一面に咲いていて綺麗だ。登っていけばよさそうだが、山歩きの準備もなく元気もなくて遊歩道を小さくめぐる。
それにしても刻々変化する活火山の様相は人にも変化し続けることを強いる、時々見に来てみることが必要のようだ。


写真は、順に 草千里付近のミヤマキリシマ:1,2 、旧阿蘇山ロープ―ウエー駅付近のミヤマキリシマ:3,4,5 、火口付近:6,7 、仙酔峡のミヤマキリシマ:8(鳥はホオジロ),9,10 、ロープウエー鉄塔の残骸:11 

           




桐生市の重伝建 川村由幸

    
前回、撮影できなかった彦部家住宅と合わせて桐生市の重伝建、桐生新町を撮影してきました。

絹織物で栄えた桐生、商家を思わせる古い町並みが続いています。朝9:00頃の撮影でしたが、人も車も行き来は
頻繁ではありません。ゆっくり撮影できるものの、町の活気は感じられません。
町の一番奥には天満宮があり、ここを起点に町が形作られたようです。
今は天満宮のさらに奥に群馬大学の工学部があります。
上の画像は全て手入れの行き届いた伝統的な建造物ですが、残念ながら朽ちるのを待っているような建造物も
散見されます。下の画像がそんな建造物です。
   
後でわかったことですが、この内の2軒が国指定の有形文化財でした。人が利用しなくなると建物の劣化は
激しく進むようです。ここでも古い文化財の維持管理の困難さをまざまざと見せつけられました。
東日本大震災で大きな被害を受けた佐原や真壁の重伝建は今復活しています。地震被害からの復興が
古い文化財の維持管理に大いに活用されたということです。東日本大震災はとても不幸な出来事ですが
劣化が見られた文化財には幸いしたこともありそうです。
この桐生の重伝建はこれからどう変化してゆくのでしょうか。行く末が大いに心配ではあります。

 


■ 京都食べ処三箇所の話題  野崎順次


京都市左京区南禅寺草川町81
大力邸(たいりきてい)

南禅寺界隈別荘庭園群一角に位置し、植治十一代目小川治兵衛作庭の双龍庭園がある豪邸である。ただし、文化財指定はない。以前は、よい庭があるが敷居が高い割烹だと思い込んでいた。庭を見るだけで入ってみたこともある。最近、ついに玄関を上がり食事をした。牛肉、うどん、スイーツが自慢の和風レストランで、昼は少し待たされるが、落ち着くし、なかなか美味しい。
         


京都市中京区三条通御幸町東入弁慶石町56番地1928ビルB1
カフェ・アンデパンダン

武田五一の設計による1928ビル(元毎日新聞社京都支局ビル、市登録有形文化財、)の地下にあるカフェである。長年廃墟同然だったが多くのアーティストたちが創建当時の姿に復元、そこに新たなデザインが加わり 1998年6月再生した。カラフルで手作り感のある床タイルは泰山タイルらしいというが確定できないらしい。それでも、乱張りが楽しい。
        


京都市左京区岡崎最勝寺町8-4
だる満

疎水の西側にある京和食のお店で、そばとかおばんざい料理が有名だったようだ。入ったことはない。2023年5月29日に閉店。この写真を撮ったのは5月20日でまだ営業中だった。アオサギは日本では最大級の野鳥で、注意深く孤高の鳥と思っていたが、なぜか野次馬風ではしたない。
     


■『それにしてもなぁ……』 柚原君子

 

この夏に伯父夫婦が相次いで亡くなった。89歳と87歳だった。実子はいない。私の父は離婚の経験があるので、子どものいない伯父夫婦は母親がいなくなった姪である私を貰い受けたいと、父に幾度も申しこんだそうである。父は手放す気はないと断ったという。父と伯父は晩年はいろいろあって、兄弟げんかののちに仲違いで別れたままになった。伯父夫婦は伯母の縁戚が多く暮らす地方都市に引っ越していき、かれこれ20年が経過していた。



伯父夫婦は病弱になって自宅に暮らすことが出来なくなったそうで、この春に私の家に電話があった。

「痴呆になった女房の介護に疲れてしまって、もう限界です。自分の体もいうことをきかないし、あれこれ考えたのですが、もしかしたら私たち夫婦の子どもになったかもしれない姪である貴女に、面倒を看てもらいたいと電話をしました。財産もしっかりあります。持ち家もあります。職業軍人だったために年金も暮らし以上のものが入ってくるので、何の不自由もしていないです。ただ片方が死んだあとが心配でしょうがない。いや、どうということは無い。妻か私かどちらが先かわからないが、ともかく残ったほうはそんなに長くは生きないはずです。三年もすればカタがつくと思う。当地に来て面倒を看てほしい。遺せるものがあるはずだから迷惑は掛けないと思う」。

伯父の必至な説明にどこかで可哀想に思いながらも、金銭の話ばかりが前面に出て少しの不快感を覚える。私は来年度の仕事の予定が入っているので、地方に移住することはできないと断った。
残す財産を私に譲りたいのだが、と伯父は最後にもう一度言った。



伯父はその後、伯母側に生存している兄弟姉妹や姪甥へ打診をして、自分たち夫婦が身を寄せるべく場所を模索し続けた。だが、持ち家の名義を書き換えてくれたらとか、財産の内容を知りたがったとかで折り合えなかったらしい。

結果的に伯父夫婦は意外なところに身を寄せた。

伯父の実姉の嫁ぎ先(実姉はすでに他界)で、おまけにその息子(甥)も他界していて、その妻、つまり甥の妻ではあるが血のつながりのないT子さん65歳宅に身を寄せたのである。

T子さん宅の近所の介護付き病院の夫婦同室に入居して、痴呆の伯母の面倒を伯父とT子さんとで看ることになった。
T子さんは初めは本当に親切な気持ちからだったと思う。私で面倒が見られるのなら、と洗濯物や日用品の買い物を言われるままに受けて、時には伯父夫婦の好きな煮物なども病院に運んでいた。

血はつながっていないけれど、頼るものが私しかいないのならしょうがないわねぇ、とおおらかなT子さんは笑っていた。伯父は買い物の一つ一つにお金を渡して、T子さんから領収書をもらっていた。少し細かいのよね、と言いつつもそれでもT子さんは笑って面倒を見ていた。伯父は司法書士を病室に呼んで、残った財産はT子さんに全て譲る証書を作る、というところまでいった。



T子さんに身を寄せて安心したのか三ヶ月もせずに伯父は亡くなった。
亡くなるといろいろなことが起こった。複雑な事情のなかで司法書士が遺産の三分の一ほどを使い込んでいた。また全ての財産がT子さんに譲られることが表面化した途端に、これまで面倒見を拒んでいた伯母側係累がゾロゾロと出てきて、血縁のないT子さんに財産が譲られるのは不当だと声を上げた。長引くかもしれない伯父夫婦の介護と得られる遺産との天秤を図って、得ありと踏んで出てきた伯母側係累の出現に、T子さんは怒った。伯父から託されたお金はびた一文渡さないとT子さんは思ったようである。


使い込まれた遺産を司法書士から取り返し、打算的な伯母側係累との話し合いを膝詰め談判し、亡くなった伯父を眠らせる寺や墓の手配などに、T子さんは東奔西走をした。
騒動の最中に痴呆の伯母は枯れ木が折れるように亡くなった。伯母側係累たちが現れて、葬式は私たちが出すと伯母の亡骸を持ち去った。
遺言書があるので遺産の全てに手は出せなかったようだが、それでも法的遺留分の請求は後になってT子さんのところに出され、伯母側係累たちは遺留分を獲得した。伯母のお骨はT子さんの元に戻されず、いろいろ心配をして最後まで夫婦でいられるようにと心砕いた伯父の望みとは裏腹に、伯父たちは別々の所に眠っている。



弟から電話があった。

「あのさぁ、伯父さんの件だけど、俺たちも甥姪だから遺留分があるらしいんだけどいる?いらないよなぁ。いらないって、はんこ押していい?」

「いいよぉ」

私たち側の遺留分はあっさりと終了した。

「それにしてもなぁ……」
「そうよねぇ……」
弟と私はそのあとの会話が続かず無言になった。
生き方も死に方も難しい。そして、死した後に離れ離れになってしまった伯父の夫婦の形は、なにはともあれ哀しい。

 


■おばちゃんカメラマンが行く     事務局

 

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