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岡山県備前市和意谷 岡山藩主池田家墓所

Okayamahan Ikedake cemetery,Bizen city, Okayama

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Feb.22,2017 瀧山幸伸 source movie

国史跡

和意谷敦土山池田家墓所(わいだにあづちやまいけだけぼしょ)は、岡山県備前市吉永町にある岡山藩主池田宗家一族の墓所。「岡山藩主池田家墓所」の一つとして国の史跡に指定されている。

この地に墓所を建設する発端となったのは、岡山藩池田宗家初代藩主池田光政の祖父・輝政と父・利隆の墓所がある京都妙心寺護国院が炎上したことによる。この火災により光政は、祖父・父の改葬を決意した。寛文5年(1665年)、家臣の津田永忠に命じ備前国内での墓所選定の作業を行った。1年余りの探索の後、和気郡脇谷村を最終候補地に選定した。寛文6年(1666年)10月、光政の実地検分によりこの地が墓所に決定された。同年12月、妙心寺に改葬を告げ、遺骨を備前に持ち帰った。

翌寛文7年(1667年)正月7日より墓地の造営を行い、閏2月13日に儒式の儀礼に則り輝政・利隆の改葬が執り行われた。のち、この地は和意谷敦土山と名付けられた。江戸城空堀普請の手伝いのために工事は中断したが、寛文9年(1669年)に墓域の工事が完了した。この年3月16日に光政が参拝し、墓祭が執り行われた。以後、毎年3月に墓祭が行われ、藩主および池田家一族の参拝が続けられた。貞享元年(1684年)、和意谷新田村が設けられ、53石3斗1升5合の年貢米により永代管理が行われた。

和意谷の墓所は、敦土山山上に点在する岡山藩主池田家の墓所で、池田輝政の「一のお山」を中心に、7つの「お山」で構成されている。全て儒教式の墓地となっている。麓の駐車場より鳥居をくぐり、約2,000個の列石の敷かれた参道を約1km余り登ったところにある。

一のお山

池田輝政の墓所で、墓石は亀趺と呼ばれる亀形の台石の上に乗っている。墓石の亀趺は天禄辟邪(てんろくひじゃ)という古代中国に伝わる架空の動物で、三品(さんぽん)の地位の人物の墓に用いられていた。

墓碑:参議正三位源輝政卿之墓、脇碑:贈従二位

二のお山

池田利隆とその正室鶴姫の墓所。

向かって左の墓碑(利隆):従四位下侍従兼武蔵守源利隆朝臣之墓

向かって右の墓碑(鶴姫):侍従兼武蔵守源朝臣室家榊原氏之墓

三のお山

池田光政とその正室勝姫の墓所。

向かって左の墓碑(光政):従四位下之左近衛権少将源光政朝臣之墓、脇碑:贈正三位

向かって右の墓碑(勝姫):左近衛権少将源朝臣室家藤原氏之墓

四のお山

池田慶政(8代藩主)とその正室宇多子の墓所。光政の子・2代藩主綱政より7代斉敏までは曹源寺に埋葬されていたが、慶政・茂政の2代はここに埋葬されている。

向かって左の墓碑(慶政):従二位池田慶政公之墓

向かって右の墓碑(宇多子):従四位源慶政朝臣夫人池田氏之墓

五のお山

池田茂政(9代藩主)とその正室萬寿子の墓所。

向かって左の墓碑(茂政):麝香間祗候従一位勲二等池田茂政公之墓

向かって右の墓碑(萬寿子):少将兼武蔵守源朝臣室家池田氏之墓

六のお山

池田輝興(赤穂藩2代藩主)、池田輝尹、池田政実、池田鋭子、池田恒元(山崎藩初代藩主)の墓が並び、少し離れて池田政元(山崎藩2代藩主)の墓がある。

輝興墓碑:従四位下右近大夫源輝興朝臣之墓

輝尹墓碑:池田新八郎輝尹之墓

政実墓碑:池田鼎五?政實之墓

鋭子墓碑:池田氏庶女鋭子之墓

恒元墓碑:従五位下備後守源恒元之墓

政元墓碑:従五位下豊前権守源朝臣政元之墓

七のお山

六のお山から600mほど北東に離れた場所にある。池田利政(利隆の弟・播磨時代の船上城代)、池田政虎(利隆の弟)、池田政貞(光政の弟)、六姫(光政の娘)の墓がある。

利政墓碑:池田利政之墓

政虎墓碑:池田政乕之墓

政貞墓碑:池田政貞之墓

六姫墓碑:池田氏六之墓

(wikipedia)

            

一のお山

     

二のお山

  

四のお山

   

五のお山

   

三のお山

     

六のお山

             

七のお山

                

和意谷の風景

  

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