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岡山県倉敷市 五流尊瀧院と熊野神社
(Goryu-Sonryuin Temple and Kumanojinja Shrine, Kurashiki City, Okayama Pref.)

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倉敷市林684 熊野神社本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 室町後期 一間社隅木入春日造、檜皮葺 19210430
倉敷市林952 五流尊滝院宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉前期 仁治元(1240) 石造宝塔、基壇付 19560628


Sep.21, 2014 瀧山幸伸 source movie





June 8, 2013 野崎順次 source movie

岡山県倉敷市林

西暦634年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。

ところが、役行者が民衆を惑わすという罪で伊豆大島に流され、高弟たちは紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じて瀬戸内海に逃れ、四国九州に浄域を求めた後、児島の柘榴浜に上陸し、熊野道といわれている山道を通り、大宝元年(701)三月三日、福岡の里と呼ばれていたこの地に鎮座祭典をし、それが、現在の春のお祭り(五月十八・十九日)です。

天平十二年(740)、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。現在地に社殿を建立したのが始まりです。孝謙天皇紀(749-758)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、当社もその号を称することになりました。

承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、その第四皇子で、鎌倉幕府第四将軍になる候補であった冷泉宮頼仁親王は、この地に配流されました。また、弟の桜井宮覚仁親王は乱を恐れ、この地に赴任し尊瀧院の住職となりました。公卿山伏といわれる由縁です。

応仁の乱(1469)で開幕となった戦国時代の兵火のため、社殿をことごとく焼失してしまいました。明応元年(1492年)、社殿は天誉長老により再建されました。国の重要文化財に指定されている第二殿が、その時建立されたものだといわれています。以後、復興を見ますが、次第に社領は減少し、中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けましたが、児島一円の領地はわずか三ヵ村に減ってしまいます。

西暦1600年代半ば、池田光政公により、吉備津彦神社の大守家から神官が赴任され、祭祀を専らにさせるなど、あつい保護の下に明治に至りました。

慶応四年三月(1868)、神仏分離(神仏判然令)により、現在は、宗教法人熊野神社、宗教法人修験道五流尊瀧院と呼ばれています。

(日本第一熊野神社HP、熊野神社の由緒より)

今回撮影した建造物で、五流尊瀧院に属するのは、
国重文 石造宝塔(後鳥羽上皇供養塔)
県重文 三重塔
熊野十二社大権現本堂
(伝)桜井宮覚仁法親王ご墳墓と行者池
水子地蔵と地蔵尊

熊野神社に属するのは、
石鳥居
国重文 本殿1棟 および県重文 本殿5棟
八尾羅宮

アプローチ

JR木見駅から熊野神社石鳥居まで、約1.4kmである。

冷泉宮頼仁親王墓所

さらに林の町を歩く。

重要文化財と書かれているが

それから

熊野神社石鳥居

郷内地区の史跡案内図

重要文化財
石造宝塔(後鳥羽上皇御影塔)鎌倉前期 仁治元年(1240)
前年に死去した後鳥羽上皇の一周忌供養のため頼仁親王と覚仁親王により建立したとされる。伝承によれば中には上皇の分骨が安置されている。同時に廟堂・経堂が建造されたが応仁3年(1469年)の戦火で焼失した。

境内案内板

県重文 三重塔 文政3年(1820年)
本瓦葺、高さ 21.5m。熊野神社境内南に隣接して建つ。

県重文 梵鐘 康正3年(1457年)
釈元柔の発願により鋳造の銘がある。総高129.4cm、口径70.0cm。

熊野神社は「日本第一熊野十二社権現宮」と称する。祭神は伊邪那美神、伊邪奈岐神、家都御子神、速玉之男神。社殿は左から第三殿・第一殿・第二殿・第四殿・第五殿・第六殿と並ぶ熊野本宮大社と似た形式を採っている。この内、中央の第二殿一棟は室町後期明応元年(1492年)建造で国重文、残りの五棟は正保4年(1647年)建造で県重文。

国重文 第二殿

向かって右側の第四殿・第五殿・第六殿と天満社

向かって左側の第三殿・第一殿

八尾羅宮(はっぴらぐう)は昔から商売繁盛、嫁いびり防止、いじめ除けの神として信仰されている。

三重塔の横の石段を上ると熊野十二社大権現本堂などがあり、五流尊龍院に属する。

(伝)桜井宮覚仁法親王ご墳墓と行者池

水子地蔵と地蔵尊

参考資料
熊野神社HP
ウィキペディア「五流尊龍院」



June 2009 撮影/文: 野崎順次

岡山県倉敷市林
修験道総本山 御庵室
五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)

三重塔(県重文、江戸時代、文政三年 1820年建立、本瓦葺、高さ21.5m)
熊野神社(六棟の本殿のうち、中央は国重文、他は県重文)
石造宝塔(国重文、後鳥羽上皇供養塔)
桜井宮覚仁法親王ご墳墓と行者池
水子地蔵と地蔵尊
五流尊瀧院
大久保利通公の血染めの馬車(県重要美術品)

今から、千三百年余り昔、文武天皇の時代、大和の国葛城山におられた役行者は、紀州、熊野大峰の山々で修業を重ね、優れた呪法を会得し、山岳信仰を基に「修験道」という宗教を開かれました。
しかし、行者の神秘的な呪法は、当時、人々を惑わすものと疑われて捕えられ、699年、役行者は伊豆の大島に流罪の身となられました。その時、行者の五人の高弟、義学、義玄、義真、寿元、芳元は、その難がご神体に及ぶのを避けるために、多くの弟子たちとともに、紀州熊野権現のご神体、霊宝を船に奉じて熊野灘を出航し、浄域を求めて各地をさまよったということです。
その後、役行者が赦免となられた大宝元年(701年)、霊夢により児島に上陸。幽玄な山々を紀州の深山になぞらえて、ここ、林の地にご神体を安置し、新熊野三山を開きました。そして、五人の高弟は尊瀧院、太法院など、五つの寺院を設けましたが、これが五流の基礎となったのです。
こうして五流山伏は役行者神変大菩薩の修験道を継承伝授し、児島の地にあっても紀州熊野大峰の入峯を統括してきました。五流山伏は、代々熊野権現の長床を道場として修行したので、「五流長床宿老」と呼ばれ、人々の深い信仰に支えられ、全国にその勢力を誇ってきました。皇室の尊祟も厚く、歴代の天皇、上皇、法皇の熊野行幸の先達をつとめたことから、「行幸山伏」とも呼ばれています。
時代は移り、承久三年(1221年)承久の乱に敗れた後鳥羽上皇の皇子、冷泉宮頼仁親王はこの地に流され、尊瀧院の境内に庵を設けられました。その弟君、桜井宮覚仁法親王も児島に下向し、頼仁親王の実子、道乗大僧正を後継とされました。それ以来、尊瀧院は頼仁親王の血脈を続けて今日に至っています。
こうしたことから、五流山伏は「公卿山伏」とも呼ばれ、宗教界はもとより朝廷にも大きな発言力を持って発展してきました。
現在、五流尊瀧院は、全国に三百を越える寺院や教会を持ち、千数百名に及ぶ熟達した教師、僧侶を擁する正統修験の総本山として、伝統を守りながら、たゆみない前進を続けています。(五流尊瀧院パンフレットより)



三重塔(県重文、江戸時代、文政三年 1820年建立、本瓦葺、高さ21.5m)

熊野神社(六棟の本殿のうち、中央は国重文、他は県重文)

石造宝塔(国重文、後鳥羽上皇供養塔)
仁治元年(1240年)、前年に死去した後鳥羽上皇の一周忌供養のため頼仁親王と覚仁親王により熊野神社南方に供養塔を建立したとされる。伝承によれば中には上皇の分骨が安置されている。

 

桜井宮覚仁法親王ご墳墓と行者池

 

水子地蔵と地蔵尊

 

五流尊瀧院

 

大久保利通公の血染めの馬車(県重要美術品)
明治維新の中心人物、大久保利通公が明治11年、東京紀尾井坂で暗殺されたときに乗っていた馬車です。英国製の高級品で、大久保家から永代供養のため寄進されました。血糊や刀傷が残っています。


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