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岡山県倉敷市連島町 西之浦

(Nishinoura, Kurashiki City, Okayama Pref.)

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撮影日:February 21, 2006 野崎順次

かつて島嶼(しょ)であった連島山塊西部を占める地区で、高梁川の東岸に当たる。対岸には玉島の上成・乙島がある。かつて連島町(連島村)の役場が置かれるなど、連島地域の中枢的な地区である。

江戸時代のころから西之浦村の村名がみられるようになり、当初は連島島嶼にあった赤良村(あからそん、阿賀羅村とも。現在の矢柄)の枝村であった。正保3年に独立村となり島の北西にあった、宮之浦村を枝村とした。 元は江戸幕府領で、松山代官小堀新助が治めた。万治元年に、成羽藩山崎氏の所領に入り、幕末まで至る。

干拓により本土と陸続きになると、西高梁川(現高梁川の流路)の河口部となり、次第に村の西と南側に干潟が生まれるようになった。その干潟は、元禄年間から文政年間に至る間に干拓され新田開発が行われた。さらに南沖合に鶴新田干拓(後述)が嘉永3年に完成すると、地形は一変し、西之浦の集落を山寄りに見ることとなった。『備中村鑑』には、成羽領浅口郡西之浦村582石8斗2升と載る。

島嶼時代から、河口部時代にかけ瀬戸内有数の港として栄え、松山など内陸の集散地として繁栄したが、玉島湊ができると西之浦湊(連島湊)は次第にその地位を奪われ、また沖合の干拓により港としての機能も大幅に縮小、水運関係者や漁業者は農業へと転身した。しかし、かつての海運による豪商は、新田で生産される綿花やイグサおよびそれらの加工品の売買により活躍。明治期に連島村の中心地となったこともあり、現在も明治の豪商の名残を残す古い町並みが残っている。しかし、町並み保存地域に指定されておらず、地元の保存活動もないため、観光地化もされておらず、今後の町並み保存に課題を残している。

(ウィキペディア「西之浦」より)

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