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岡山県岡山市北区 金山寺

(Kinzanji Temple,Kitaku,Okayama City, Okayama)

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2012年12月24日 火災により本堂(重文)が焼失した。


June 3, 2017 野崎順次  source movie

岡山県岡山市北区

銘金山 金山寺

金山寺参拝のしおり

来歴

金山寺は、正式には銘金山金山寺と申し上げ天台宗に属するお寺です。開山は、奈良時代の天平年間(794年)で、報恩大師が孝謙天皇の勅願により備前国四十八末寺の本山として建てられたのが始まりです。古代には式内一宮の吉備津神社の別当権(祭祀権)を有し、平安時代には吉備津社家(神官)出身の栄西も当寺で修業し、入宋留学の後新たに天台密教葉上流の流派を開き、金山寺を第一の道場と定めて伝法灌頂(密教修行の最上儀式)を行いました。この後、栄西は再度の入宋を致し後に京都の建仁寺を開き臨済宗を開宗しました。戦国時代に至り、岡山で日蓮宗不受布施義が流行し、地元の領主であった松田氏が深く傾倒して、金山寺に日蓮宗不受布施義への改宗を強要し、抗議した結果全山焼き討ちの法難に合いました。その後宇喜多直家によって備前が平定されたのち、岡山城築城と共に宇喜多家が施主となり再建が成されました。現在伝わっておる、諸堂と文化財はこの時の再建によるものです。

以上、大きく分けて、奈良時代の創建期・平安時代の栄西の活躍期・戦国時代の宇喜多家の再興期の三期の歴史があります。しかし、不幸な事に四年ほど前に宇喜多家再建による本堂(国重文)が焼失しました。金山寺は、開山以来国家安康と備前一国の平安を祈る道場であります。特に、備前地域にお住まいの方には広く崇敬をお勧めする次第であります。

祭祀されている神仏

本尊 − 千手観音(焼失)

護摩堂 − 不動明王 元三大師

三重塔 − 一字金輪

灌室 − 阿弥陀如来

鎮守 − 山王権現

文化財

護摩堂 − 県指定重要文化財、戦国期に本堂と共に宇喜多直家によって再建されたものである。

三重塔 − 県指定重要文化財、江戸時代

山門 − 市指定重要文化財、江戸時代 池田光政の建立

金山寺開山縁起 − 国指定重要文化財、鎌倉時代

固有の伝統行事

会陽温座密陀羅尼会

会陽は、西大寺裸祭りと共に有名であるが、金山寺の場合は旧正月の7日前から密教修行168座の千手観音供を行い、宝木という御札を祈祷しこれを裸衆が取り合う行事である。温座(おんざ)とは、7日間不断の交代制で僧侶が拝むことから座が冷えぬという意味がある。毎年600人の集客がある大規模なお祭りで祝い主というスポンサーを2名立てて行事を運営することを特色とする。毎年2月第一土曜日の夜に開催。

天台密教葉上流の伝法灌頂

天台密教は、真言宗の密教と共に日本仏教に二大流派を形成するものであるが、葉上流は栄西禅師が出身時の金山寺を根本道場として開いた流派である。内容は一般の密教に、自身の研鑽された臨済宗の教えを加味することを特色とする。栄西は、金山寺の後、建仁寺に灌頂道場を開いた。灌頂とは密教流派の奥義を後継に伝える儀式であり、金山寺は天台宗内で灌室といって葉上流の灌頂を行う権限が認められて特別な寺院である。しかし、大規模な儀式のため昭和初期以降中断している。

以上、二点は他寺にない固有の伝統行事である。

見どころ

灌室 − 密教の灌頂を行うための専用施設である。天井に立派な天蓋があり、その下に正方形の大壇があり、密教儀式を行う専用の設えである。天井の一部には護摩の煙を逃がす穴もある。平時には、内仏といって死者の供養を行うために利用しており、奥の須弥壇には阿弥陀如来が祀られている。三面に壁画があり、極楽図や二十五菩薩来迎図がある。極楽図は、水鳥樹林や七宝楼閣など浄土の様子が詳しく描かれている。灌頂道場と内仏を兼ねた非常に合理的な施設である。

客殿 − 江戸中期の建立で、池田藩政時代に七月中に藩主が避暑のために滞在した施設である。御成の間があり、奥には茶室や風呂場がある。動く襖絵もある。

動く襖絵 − 客殿の襖に6枚描かれている。逆遠近法を用いたトリックアートで、江戸時代初期に宇治の万福寺を開いた隠元禅師の伝えた描き方である。国内でも伝来は少ない。

(金山寺資料より)

パンフレットと現地説明板

              

市重文 山門(仁王門)正保2(1645)年の建立

入母屋造り本瓦葺きの三間一戸の桜門。下層の桁行き6.12メートル、梁間1.73メートル。上層を下層より少し縮める。

(LIFEおかやまサイトより)

                                    

県重文 護摩堂 本堂と同じく天正3(1575)年の再建

単層入母屋造り本瓦葺き。桁行三間、梁間三間。向拝の正面に豪華で精巧な装飾がある。

(LIFEおかやまサイトより)

                            

2012年12月24日に焼失した本堂跡と仮本堂

             

県重文 三重塔 天明8(1788)年建立

三間三重本瓦葺。この時期の塔としては古相を伝え、全体に均整のとれて落ち着いた姿をなしている。

(LIFEおかやまサイトより)

                        

歴代ご住職の墓所、新しいのは先代の松原宏澄ご住職のお墓。

           

庫裏、灌室、客殿、書院などが一つになった大きな建物があり、許可を得て内部を撮影することができた。

建物外部

                        

庫裏あたり

      

灌室 − 密教の灌頂を行うための専用施設である。天井に立派な天蓋があり、その下に正方形の大壇があり、密教儀式を行う専用の設えである。天井の一部には護摩の煙を逃がす穴もある。

                     

中庭など

        

客殿

                 

御成之間

                  

茶室

             

庭園

    

焼失した本堂について

日本経済新聞 Web刊 2012/12/25付より

重要文化財の本堂全焼 岡山・金山寺

24日午後7時35分ごろ、国の重要文化財に指定されている岡山市北区の金山寺の本堂が燃えていると近所の住民から119番があった。岡山県警岡山西署や岡山市消防局によると、木造瓦ぶき平屋の本堂約165平方メートルと、木造平屋の倉庫約13平方メートルが全焼し、午後10時すぎに鎮火した。岡山西署によると、けが人や行方不明者はおらず、境内のほかの建物や民家への延焼は確認されていない。住職(76)は本堂近くの母屋で一人暮らしをしており、出火当時は岡山県の実家にいた。「本堂では常にろうそくをともし続けていた」と話しているといい、同署は出火原因を調べている。

この焼失した本堂と内陣に安置されていた阿弥陀如来像については、2011年12月30日のJGレポート「金山寺」の建物内外の写真が含まれている。焼失するほぼ1年前である。今回は、そのRAWデータを修正編集したものを付け加えておく。

国重文 本堂 1575年(天正3)

岡山城主宇喜多直家の助力を得て、金山寺中興の祖と仰がれる圓智によって再建されたと伝えられる桃山期の建物。桁行5間(13.18m)、梁間6間(15.13m)、一重入母屋造、本瓦葺、正面1間向拝付きの南面する建物で、四周に濡縁を回す。内部は、前面2間通と両側1間通が外陣、中央奥の3間4面が内陣、前面2間通の外陣部は吹放しの時期があり、海老虹梁、長押等の彩色に風蝕がみられる。間仕切りの欄間や大虹梁等に施された彫刻、彩色は絢爛たる桃山様式の特色が発揮されている。

(「岡山シティミュージアム デジタルアーカイブ 金山寺」ウェブサイトより)

本堂正面(南面)

            

本堂東面

            

本堂西面

     

本堂北面

  

内陣

              

県重文 木造阿弥陀如来坐像

檜の寄木造、総高85cmを計り、典型的な定朝様の藤原仏で、彫眼を施した面相、流麗な衣紋などなかなかの佳作である。もとは漆箔塗りで金色に輝いていたはずであるが、金箔は剥落し素地を現している。「金山観音寺縁起」に記載された阿弥陀如来の由来譚から、俗に頬焼弥陀と呼ばれている。

(「岡山シティミュージアム デジタルアーカイブ 金山寺」ウェブサイトより)

   

外陣

       


Jan.2012 野崎順次

岡山県岡山市北区金山寺481

銘金山 金山寺

撮影日: 2011年12月30日

寺に伝わる『金山観音寺縁起』(室町時代の成立)によれば、当寺は奈良時代の天平勝宝元年(749年)に報恩大師が孝謙天皇の勅命により開創し、後に報恩開創の備前四十八箇寺の根本道場となったという。創建当時は法相宗に属し、裏山の三鈷峰に建てられていた。本尊として報恩大師自作の千手観音が安置されたと伝わっている。寺は延久元年(1069年)焼失し、平安時代末期の康治元年(1142年)に現在地に移された。嘉応年間(1169年 - 1170年)に宋より帰国した栄西により護摩堂などが建てられ宗派も天台宗に改められた。この時に院号を遍照院とした。鎌倉時代には将軍家の祈祷所となっている。戦国時代の文亀元年(1501年)金川城主の松田氏は金山寺に対し自身の信奉する日蓮宗への改宗を迫った。寺院側はこれに応じなかったため、松田氏は寺院を焼き払い堂宇は灰燼に帰した。

その後、伯耆国大山寺より法印円智(豪円)が来山し、松田氏を滅ぼした宇喜多直家の援助を得て、天正3年(1575年)に本堂・護摩堂を再建した。この時に建造された本堂は国の重要文化財に指定されている。宇喜多氏の庇護下、備前国の寺社総管として優遇された。江戸時代になると、岡山藩主池田光政により寺社総管から備前国天台宗総管に改められた。なお、光政は仁王門を寄進している。

現地説明板と遠望

     

県文 仁王門 江戸初期 正保二年(1645年)

池田光政の寄進により建造。本瓦葺、入母屋造。改修中。

                  

石段を上る。

    

県文 護摩堂 桃山 天正3年(1575年)

宇喜多直家の寄進により建立。改修中。

           

それから

   

重文 本堂 桃山 天正3年(1575年)頃

宇喜多直家の寄進により建造。

本堂正面(南面)

             

本堂東面

               

本堂西面

      

本堂北面

  

本堂内部、内陣

       

県文 木造阿弥陀如来坐像 平安末期推定

檜の寄木造りで、総高85cm。

   

本堂外陣

            

庫裡、本堂周辺

     

本堂の北の神社二社

                

坂道を登る、お墓があった。

      

さらに登るとお堂がある。

           

県文 三重塔 江戸 天明3年(1788年)

邑久郡宿毛(現・岡山市宿毛)の大工・田淵繁枚により建立。本瓦葺、高さ 25.0m。塔は擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間に蟇股、脇間蓑束二層部、高欄の腰組に木鼻がついている。

                          

石塔と展望

   

参考資料

ウィキペディア「金山寺」

日本の塔HP

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