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岡山県高梁市 備中松山城
Bicchu Matauyama castle,Takahashi city,Okayama

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高梁市内山下1 備中松山城 天守 重文 近世以前/城郭 江戸中期 天和元-3(1681-1683) 二重二階櫓、本瓦葺 19410508
高梁市内山下1 備中松山城 二重櫓 重文 近世以前/城郭 江戸中期 天和元-3(1681-1683) 二重二階櫓、本瓦葺 19410508
高梁市内山下1 備中松山城 三の平櫓東土塀 重文 近世以前/城郭 江戸中期 天和元-3(1681-1683) 延長9.4m、銃眼五所、本瓦葺 19410508

Nov.1,2016 中山辰夫

JR吉備線を高梁川に沿って遡ると、城下町高梁がある。高梁は高梁川の中流に開けた山間の美しい城下町。
清らかな高梁川に沿ってなまこ壁の蔵や商家群、武家屋敷町が続く。武家地であった石火矢町や商人町であった本町は町並みの景観保全が図られている。

城見通りから見る臥牛山(がぎゅうざん)と一日お付き合いしたボンネットバス 坂道は後ろから押してやりたくなるほどの超ノロマ。
    

城下町の北端、高梁高校の場所には「御根小屋」と呼ばれた備中松山藩の藩主の館や政庁があった。(今回はパスした)
松山城は急斜面を上がった臥牛山の上にある。標高480mの最高所を中心に全山を要塞化した中世山城の遺跡で、これを大松山城と総称する。
訪れる松山城はその南寄りの一角、標高430mの小松山に展開されている。

「ふいご峠」に登り口がある 臥牛山8合目 ここから天主までは徒歩で700m、約20分。
     
御社殿壇に納められた三振の宝剣をここで造った際に大きな(ふいご)をこの場所に設置したことから名前が付いた。
歌碑は、「水清き 川の流れて山高し、日は山を出で 川をわたるも」八十六 清水比庵

中太鼓の丸跡周辺
      
御根小屋と天主間の伝達手段として使われていた太鼓の丸。下太鼓の丸と中太鼓の丸の二つの中継地点を設け、太鼓の合図で連絡を取り持った。

高梁市街
    

更に進む。露出した岩場が多い。花崗岩である。この石が城づくりにふんだんに使われた。進む先に石垣が見える。
    

三の丸周辺地図
 

大手門の高石垣と土塀
    
大手門の右手に聳える石垣群 大手口の高石垣と自然巨石の一体化−天然の岩盤の上に石垣を築き、さらに土塀で固めた。圧巻である。

自然岩盤を利用した大手口石垣
      

三の丸大手口から土塀や石垣の間を登ると三の丸
      
三の平櫓東土塀 国重要文化財
     
四角い矢狭間と丸い筒狭間を備えている。

二の丸周辺地図
 

厩曲輪石垣、足軽番所跡、上番所跡
    

二の丸
    

本丸周辺地図
 

高石垣を見やりながら三の丸へ
    

天主全景 国重要文化財
                
小松山の最高所に現存し、日本一高い所にある城と呼ばれる因である。二重二階で、西側に下屋が取りついて三重に見せている。
2003(平成15)年に修理工事が完成した。平櫓・多門櫓・櫓門・塀などが木造で再築され、甦った現在の天主、西から見ると左奥に二重櫓が見える

天主内部
      

     
一階はイロリの間と装束の間。イロりは一階の床にある。板石を組み合せて作られている。二階は舞良戸で仕切られた城主の居所と一段高い御社檀があった。
御社檀には八満大菩薩、毘沙門天、魔利支天など武人の神が祀られていた。

腕木御門(復元)
 
木造本瓦葺、棟門、開き戸、二重櫓の正面脇にあり、本丸の裏門に当たる。下りて行くと搦手門の前に出る。

二重櫓周辺地図 
 

搦手門跡、八の平櫓跡、十の平櫓跡
    

腕木御門(復元)
   
木造本瓦葺、棟門、開き戸、二重櫓の正面脇にあり、本丸の裏門に当たる。下りて行くと搦手門の前に出る。

二重櫓全景 国重要文化財
           
天主の北側、岩盤の上に造られた。岩盤の上に石垣が設けられた構成が山城らしさを表わす。
復元された本丸南隅の2棟の平櫓と石垣、奥に天守を望む

参考資料(パンフレット、備中吹き矢を歩く、日本の城郭を歩く、ほか)



Feb.2014 瀧山幸伸
                                



Sep.2011 酒井英樹

撮影:2011年7月

本の丸
  

 備中松山城のある高梁は古来より陰陽連絡の要所あった。城として臥牛山に最初に造られたのは鎌倉時代中期の仁治元年(1240)であった。臥牛山の4つの峰の内、大松山に築城され、南北朝時代には小松山(現在の本丸のある峰)まで拡張された。戦国時代末期には大松山と小松山を統合した巨大な山城となった。
 戦国末期には織田信長の勢力と毛利輝元の勢力がぶつかる最前線となり、備中兵乱が発生した。時の城主三村元親は毛利から織田に寝返ったため、毛利両川の一人で輝元の叔父である小早川隆景によって攻められ落城、元親は自害した。その後毛利の所領となったが、関ヶ原の役で毛利輝元は西軍の総大将として大坂城に滞在したため、領地を防長二カ国に減らされ、松山を手放すことになった。
 幕府の直轄となった備中松山は小堀政次が1万4千石で入った。政次を継いだ小堀政一は一般に小堀遠州として知られ二条城二の丸庭園を初め江戸初期の多くの名園を作成した作庭家であり、麓の頼久寺の庭園を作庭したといわれる。
 その後、鳥取より池田家(姫路城を築城した池田輝政の弟を祖とする長吉系池田家)が6万石で入るが3代で断絶(無嗣子)、隣接の成羽藩より水谷勝隆が5万石で入る。
 勝隆の子である水谷勝宗は松山城を大改修し、現存する天守等を構築した。しかし、水谷氏は再び4代で無嗣子のため断絶した。この際、城を受け取ったのが後に赤穂浪士として語り継がれる浅野赤穂藩の家老大石内蔵助良雄であり、彼は約1年半ほど在城した。
 老中であった安藤重博等の譜代が城主となった後、板倉家宗家が5万石で入国し明治まで続いた。
 幕末の藩主であり徳川宗家の血を引く板倉勝静(徳川吉宗の玄孫)は大政奉還時に老中筆頭であり、戊辰戦争を徳川方の中心として参戦したため、松山城は朝敵と見なされ、新政府軍に攻められた。老中として徳川宗家に従った藩主のいない松山城は無血開城となった。しかし板倉勝静は戊辰戦争の最後、函館戦争まで抗戦し続けたため朝敵とされ続けた。
 明治維新で松山城は廃城となったが、天守等の建造物は山上にあたため取り壊しの手間取り放置された。荒廃した建物は何時しか山小屋として利用され、次第に倒壊して天守、二重櫓、土塀の一部が残るにすぎなかった。昭和初頭には廃屋のように荒廃し、天守や二重櫓は崩壊寸前まで追いやられていた。
 六の平櫓の遺材を用いて二重櫓を昭和4年にその後天守が本格的な修理を施された。この時、修理は国へ「山小屋の修理」と申請されていて、半世紀以上経ても明治維新時の朝敵とされた松山藩(維新で高梁藩と改称)の象徴を修理することを憚られていた。その一方で修復後の昭和16年(1941)には天守・二重櫓が国宝保存法のもとで国宝(現在の文化財保護法の重要文化財に相当)に指定された。
 平成6年(1994)より本丸の復元整備が実施され、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。

天守
 二重二階、本瓦葺、塗籠、柱形、腰羽目板張
 江戸時代[天和元〜3年(1681-1683)]
 天守は、天和元年(1681)に水谷勝宗が造営(改修説もあり)した。2重2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守であるため、市街地である西から見ると三重に見えるため三重櫓とも称した。
 かつては八の平櫓から渡櫓を経て天守に入る形式であったが、八の平櫓が撤去され、再建されていないため渡り櫓からの入り口となる。1階には天守としては珍しく囲炉裏が存在するが使用された形跡がない。

        

天守内部

   

二重櫓
 二重二階櫓、本瓦葺、塗籠、軒出桁、腰羽目板張、出格子を多用
 江戸時代[天和元〜3年(1681-1683)]

 平櫓を重ね合わせることを多用した松山城では天守を除くと唯一の重層の櫓で、搦手を防備する役目を持つ。
       

 

三の平櫓東土塀

 左部分(9.7m、狭間5ケ所分)が江戸時代の現存部分、右側は復元。狭間は形骸化している。

   

大手門跡付近石垣
   



May 2011 瀧山幸伸 HD video

  

A camera

                                                                                                                                                                                                     

B camera

                                                                                     


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