JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

大阪府大阪市中央区 大阪城
Osaka castle,Chuoku,Osaka city,Osaka

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
大阪を代表する桜の名所 ソメイヨシノと枝垂れ桜
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 

大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 大手門 重文 近世以前/城郭 江戸末期 嘉永元(1848)頃 高麗門、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 塀(大手門南方塀) 重文 近世以前/城郭 江戸末期 江戸末期 矩折延長60.0m、銃眼九所、石狭間十四所、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 塀(大手門北方塀) 重文 近世以前/城郭 江戸末期 江戸末期 21.5m、銃眼三所、石狭間七所、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 塀(多聞櫓北方塀) 重文 近世以前/城郭 江戸末期 江戸末期 20.3m、銃眼三所、石狭間六所、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 多聞櫓 重文 近世以前/城郭 江戸末期 嘉永元(1848) 矩折一重(一部櫓門)、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 千貫櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 元和6(1620) 二重二階、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 乾櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 元和6(1620) 矩折二重二階、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 一番櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 寛永7(1630) 二重二階、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 六番櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 寛永5(1628) 二重二階、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 煙硝蔵 重文 近世以前/城郭 江戸中期 貞享2(1685) 石造、一重、寄棟造、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 金蔵 重文 近世以前/城郭 江戸末期 天保8(1837) 土蔵造、一重、寄棟造、本瓦葺 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 金名水井戸屋形 重文 近世以前/城郭 江戸前期 寛永3(1626) 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺、石造井戸枠を含む 19530613
大阪市中央区大阪城1-1 大阪城 桜門 重文 近世以前/城郭 明治 明治20(1887) 高麗門、本瓦葺 19530613

February 25,2017 大野木康夫  movie

所在地 大阪府大阪市中央区馬場町

大阪城は豊臣秀吉の築いた城であるが、大阪冬の陣と夏の陣に破壊された。
今回指定されたものはすべてその後コ川氏により築造されたものである。
乾櫓、 元和六年(一六二〇)の建築であるが、桃山時代の手法が見られ大阪城遺構中で最も古い。
千貫櫓、元和六年
金藏 ェ永元年(一六二四)
金明水井戸屋形 ェ永三年(一六二六)
一番櫓、六番櫓、共にェ永六年(一六二九)
焔硝櫓 ェ文元年(一六六一)。石壁に石屋根を造った珍らしいもの。
大手門、塀(三棟)、夛聞櫓 共に嘉永元年(一八四八)
櫻門 江戸末期
なお大阪城は旧陸軍所有であったため重要文化財に指定されなかったもので 現在破壊がいちじるしいが、地元大阪市ではすでに修復委員会(委員長大阪市長中井光次氏)を結成し修復運動を起すとともに文化財保護委員会の指導のもとに最も破壊の甚しい六番櫓、一番櫓から始めて漸次全体に及ぶ応急修理に着手しようとしているが今回指定を見たので委員会としては更めて修理の根本的対策を立てる。
(国指定文化財等データベースより)


京橋口付近

          

内濠、天守閣

    

この日は西の丸でイベントがあり煙硝蔵(重要文化財)は屋根しか見られませんでした。

 

西外濠沿いに大手門へ向かう

 

乾櫓(重要文化財)

元和6(1620)年の建築
矩折二重二階、本瓦葺

                                       

千貫櫓(重要文化財)
元和6(1620)年の建築
二重二階、本瓦葺

多聞櫓北方塀(重要文化財)
江戸末期の建築
延長20.3m、銃眼三所、石狭間六所、本瓦葺

多門櫓(重要文化財)
嘉永元(1848)年の建築
矩折一重(一部櫓門)、本瓦葺

大手門北方塀(重要文化財)
江戸末期の建築
延長21.5m、銃眼三所、石狭間七所、本瓦葺

大手門(重要文化財)
嘉永元(1848)年頃の建築
高麗門、本瓦葺

大手門南方塀(重要文化財)
江戸末期の建築
矩折延長60.0m、銃眼九所、石狭間十四所、本瓦葺

大手門周辺の6棟の重文建築物群

                                                                                      

六番櫓(重要文化財)
寛永5(1708)年の建築
二重二階、本瓦葺

                                                     

案内図

 

南外濠

 

一番櫓(重要文化財)
寛永7(1710)年の建築
二重二階櫓、本瓦葺

                                             

梅林付近から見た天守閣

      

桜門(重要文化財)
明治20(1887)年の建築
高麗門、本瓦葺

                                   

蛸石

 

金蔵(重要文化財)
天保8(1837)年の建築
土蔵造、一重、寄棟造、本瓦葺

                       

天守閣

         

金明水井戸屋形(重要文化財)
寛永3(1706)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺、石造井戸枠を含む

                                             

桜門

            

六番櫓

 

天守閣遠望

 

多門櫓、大手門、千貫櫓、塀

                                                                                             


March 4, 2017 野崎順次 movie

大阪府中央区大阪城2番
大阪城梅林
(Osaka Castle Plum Grove, Chuoku, Osaka City, Osaka Pref.)

市正曲輪(いちのかみくるわ)
現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元(ひがしいちのかみかつもと)の邸がここにあったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番、中小屋、雁木坂加番の小屋(公舎)が北から順に置かれていた。
(現地説明板)

内濠の東側、約1.7haの広さに約1,270本近くの梅が植えられています。
早春には色とりどりの見事な花をつけ、訪れる人たちでにぎわいます。なお、当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となりました。今では100品種を超える梅がご覧いただけます。
(大阪城パークセンター公式ウェブサイトより)

大阪城公園の梅林へ、見ごろの梅を観賞するために、訪れた事があります。見頃の大阪城公園の梅は、とても綺麗でした。大阪城公園の梅林の良い所は、いくつもあります。個人的に挙げるとすると、無料で誰でも入る事が出来る所です。大阪城公園は、気軽に行く事が出来て、気軽に撮影出来るので、大阪の四季を撮影する時に、大変重宝しています。気軽に行く事が出来るという事は、混雑するという事です。大阪城公園の梅林も、梅が見頃を迎えると、観梅を楽しむ人で混雑します。しかし、大阪城公園の梅林は、とても広いです。写真を撮るのに、そんなに人は写り込みません。また、それ程混雑も感じないと思います。大阪の梅を見る事が出来る名所の中でも、かなりおススメの場所ですよ。
(大阪観光ユルリガイドウェブサイトより)

現地案内図、説明板、当日行動経路

    

雁木坂の上から見る。西南から梅林全体を見下ろすことになる。

            

園内に入って北へ進む。

                                 

右手の東外濠の土手経由で南へ

                            

梅林の真ん中の大きな広場

        

東南の隅へ

7                      

西の方を振り返るとバックに天守閣、そっちへ向かう。

                    

小さな広場があり、乳母車に3匹の白ワンチャン

      

梅林から出て、再び雁木坂より

               

雁木坂からそのまま北へ(梅林と内堀の間の道)

                

青屋門あたりに鷹匠がいた。それから新鴨野橋へ。

             



March 31, 2016 野崎順次 movie

大阪府大阪市中央区大阪城3-11
大阪城西の丸庭園

大阪の桜の名所である。昼休みにそそくさと見に行った。大多数のソメイヨシノは五分咲きだった。迎賓館回りの枝垂れ桜もまだ七分咲きである。

大手門から西の丸庭園へ

             

西の丸庭園

     

迎賓館の西

                                           

お年寄りのグループが六甲颪(ろっこうおろし)の歌唱指導を受けていた。

 

迎賓館の東

        

京橋口のあたりから入り口に戻る。少数ながら八分咲きのソメイヨシノがある。

                       

庭園内で猿まわしをしていた。

                       

大手門に戻る。

                      

大阪弁をしゃべる軽妙な外人大道芸人

      

March 29, 2015 野崎順次 movie


大阪市中央区大阪城3-11
大阪城西の丸庭園

大阪の桜の名所である。朝から雨で、午後3時頃に雨が上がり、出かけたが、大多数のソメイヨシノは3〜4分咲きだった。でも、ポイントとなる桜は程よく咲いて、時どきの陽射しに輝いてくれた。雨上がりだから入場者は少ないが、中国人観光客のカップルが記念撮影をしていた。

アプローチ

                 

西の丸庭園に入る。

     

迎賓館の西にちょっと良い桜が二本ある。

                                                

迎賓館の東に白っぽい桜がある。

        

天守閣と桜

         

その他

                    

西の丸庭園の入り口前の桜

           

帰途

                 



November 2, 2014 野崎順次 movie

大阪府大阪市中央区大阪城1−1

初代大坂城石垣公開プロジェクトのパンフレットと現地説明板

         

国重文 乾櫓 江戸前期 元和六年(1620)
矩折二重二階、本瓦葺

         

 

大手門、大手門南方塀、大手門北方塀、多聞櫓北方塀、多聞櫓、千貫櫓の国重文群は改修工事中であった。

        

西ノ丸庭園へ、高麗門

      

国重文 煙硝蔵 江戸中期 貞享二年(1685)
石造、一重、寄棟造、本瓦葺

             

西ノ丸庭園中央部で人だかりがしていたので、行ってみると、「諏訪流放鷹術」だった。

        

本丸の方へ

    

国重文 桜門 明治二十年(1887)
高麗門、本瓦葺

     

桜門桝形の巨石

     

大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部庁舎)

    

本丸の観光客

             

国重文 金蔵 江戸末期 天保八年(1837)
土蔵造、一重、寄棟造、本瓦葺

       

登録有形文化財 天守閣 昭和前期 昭和六年(1931)
鉄骨鉄筋コンクリート造8階建,建築面積1199u
陸軍用地となっていた旧本丸一帯を公園化する計画に伴い,博物館として建設された。設計は市土木局建築課,施工は大林組による。鉄筋コンクリート造,地上6階地下2階建で,市民の寄付で建設されたこともあり,大阪のシンボルとして親しまれている。

           

号砲

     

国重文 金名水井戸屋形 江戸前期 寛永三年(1626)
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺、石造井戸枠を含む

               

東の玉造口の方へ、蓮如上人袈裟がけの松、玉造口定番屋敷跡

        

国重文 六番櫓 江戸前期 寛永五年(1628)
二重二階、本瓦葺

                  

国重文 一番櫓 江戸前期 寛永七年(1630)
二重二階、本瓦葺
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺、石造井戸枠を含む

                      

南外堀

    

参考資料
国指定文化財等データベース





Oct.2014 酒井英樹

撮影:2014年10月
2013年 7月
2008年 2月

 <天守>
昭和6年(1931)に徳川幕府再建した天守台に初代豊臣秀吉と2代目徳川幕府の天守を折衷様式の3代目天守がRC構造で再建された。
大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当した。
4層目までは徳川期の白漆喰壁、5層目は豊臣期の黒漆の外観を持つ。
建造されて80年以上が経過し、平成9年(1997)に登録有形文化財に指定された。

    

 <焔硝蔵>
西の丸北端部にある火薬庫。徳川時代の大坂城では当初、土蔵製のものが本丸隠し曲輪と青屋口の出角内の二カ所にあったが、その内の一つ、青屋口の火薬庫に万治元年(1660)6月、雷が直撃し大爆発を起こした。
貯蔵中の82tの黒色火薬、鉛玉43万個、火縄36000筋が焼失し、城内はもちろん城外でも多数の死傷者を出すとともに市街家屋が倒壊した。
これに懲りた幕府が工夫を凝らして作り上げたのが貞享2年(1685)竣工のこの焔硝蔵である。
石床、壁、天井すべてが2m以上の分厚い花崗岩で覆われ頑丈なことこのうえない上、東西の出入り口とも三重の金属製の扉で密封されるなど防火、盗難に対する備えを万全にした。
さらに空気穴を巧みに配するなど防湿対策も施されている。火薬庫としては比類のない出来で、明治以降も陸軍が引き続き使用していたという。

 石造、一重、寄棟造、本瓦葺、妻軒塗籠
江戸時代前期[貞享2年(1685)]

    

<桜門>
本丸南側にある枡形門の二の門にあたる。かつては大手門同様に多門櫓とで枡形を形成していた。
幕末に焼失したが、明治政府が二の門高麗門のみ再建した。
外面すべてが鉄板張

 高麗門、本瓦葺、軒塗籠
明治時代[明治20年(1887)]

     

 <金明水井戸屋形>
建造されることがなかったが天守南郭内で小天守の位置ある。

 正面1間、側面1間、一重、切妻造、本瓦葺、石造井戸枠
江戸時代前期[寛永3年(1626)]

  

 ≪彫刻(徳川三つ葉葵紋)≫

 

 <乾櫓>
二重二階櫓、本瓦葺、塗籠
江戸時代前期[元和6年(1620)]


 




Feb.2011 酒井英樹

撮影:2007年4月

大坂城は大阪市内を南北に走る上町台地の北端に位置し、戦国時代末期には織田信長との10年以上にわたる抗争(石山合戦)を繰り返した石山本願寺があった。
室町幕府の内部抗争に巻き込まれるなどして石山本願寺は次第に武装化し、石山本願寺は堅固な城郭と化していた。
朝廷による仲立ちで天正8年(1580)に石山本願寺が退去し、その跡地に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が大坂城として天正11年(1883)に築城した。
秀吉時代の大坂城は城責めを得意とした秀吉が死ぬまでの間の15年間総力を注いだ城郭の為、内・中・外堀と総構えの四重の堀を要する壮大な城となった。
さらに北に淀川、東に大和川(現在の大和川下流部は江戸時代に付け替えられた人工河川)が流れる湿地帯で(古代は河内潟と呼ばれる塩水湖であった)、西には大坂湾が迫り天然の要害となり難攻不落の城を誇っていた。
弱点は強いて言えば起伏が少なく、大軍を展開できる南側のみであった。
秀吉の没後、大坂城の西の丸に入って政務を執った徳川家康によって西の丸天守が築かれた。
第一次大坂の役(大坂冬の陣)では徳川方の20万人に及ぶ大軍は南に展開した。
一方、弱点を克服する為大坂城の南に出城ともなる堅固な出丸の真田丸を築き上げ大坂城は完成した。
また、最近の発掘調査で当時の大坂城の空堀はトーチカのように迷路化されていたことが解った。
この様に堅固な大坂城に徳川方は淀川の水を堰き止める対策も取ったが、多くの河川が複雑に入り組んでいたため大きな効果は得られずじまいで、20万の大軍を要しても城内に攻め入り隙もなく隙がなかった。
結局朝廷の仲立ちで、第一次大坂の役は大坂城の外堀と二の丸、三の丸を破壊するする条件で講和が成立した。
しかし徳川方は外堀の他に中堀も埋め戻したため、大坂方が再度中堀を構築しようとした為、講和は破棄されてしまい、第二次大坂の役が勃発した。
内堀と本の丸だけの大坂城では20万の大軍を迎えることが出来ず落城した。
戦後処理の為、家康の外孫である松平忠明が治めた後、元和5年(1620)に天領(幕府直轄領)となり、徳川二代将軍秀忠によって大坂城は再建された。
再建は天下普請となり西国及び北陸の外様大名64家(肥前熊本藩加藤家・備前岡山藩池田家等)の助役で3期にわたり実施され寛永6年(1629)に完成した。
再建工事において従前の豊臣時代の大坂城の上に数メートルの盛土を施し、新たに石垣を築き上げ漆黒を基調とした織豊建造物から白い漆喰の建造物に替えるなど徹底して豊臣色を払拭した。
このため豊臣時代の大坂城は現在も地中に埋もれたまま、一部は発見されているものの不明な点も多い。
現在に残る大坂城の巨石はこの時のもので、豊臣時代にはこのような巨石はなかったとされる。
大坂城の城主はあくまでも徳川宗家(徳川将軍家)であり、城代として譜代大名が預かる形をとった。
江戸期は罹災と復興を繰り返し、天守が寛文5年(1665)に落雷で焼失し再建されなかった以外は幕末まで大きな変化もなく推移した。
長州征伐の際には徳川家茂が、王政復古後には徳川慶喜が一時居城した。
この時の大坂城は本の丸に天守は存在しなかったが、本の丸を囲う様にして糒櫓、月見櫓、馬印櫓、東南隅櫓、南ノ手櫓、西ノ一番櫓、南西隅櫓、本丸数寄屋前櫓、御成門之内櫓、埋門向櫓、北ノ手櫓の11基に及ぶ三重櫓を多聞櫓(渡櫓)で繋ぎ、二の丸京橋口にある伏見櫓を併せると12基に及ぶ三重櫓をもつ壮大な城であった。
これらの三重櫓の規模が他城の実質天守に相当する御三階櫓に匹敵(土佐高知藩山内家20万石の居城である高知城天守とほぼ同規模)しており、これらが幕末まで維持されてきた。
幕末当時の徳川宗家の居城であった江戸城では三重櫓は天守の代用としていた富士見櫓、台所前三重櫓(文久3年(1863)に焼失)、蓮池巽三重櫓、巽奥三重櫓(松倉櫓)、東三重櫓の5基であったこともあって(ちなみに幕末以前には遠侍東三重櫓があったことが確認されている)、徳川家茂が感激し撮らせたと言われる写真(当時としてはかなり鮮明)の古写真原版が宮内庁書陵部に49枚現存している。
大坂城で病没した家茂を継いだ徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に戻り、その後の混乱から発生した火災で大半の建造物が失われた。
明治以降は陸軍が駐在し、紀州御殿(和歌山城二の丸御殿の一部)を本丸に移築、桜門の復元、昭和6年(1931)には市民の寄付で現在の天守がRCで再建。
明治維新の動乱を乗り越えた京橋口伏見三重櫓等とともに城の様相を保った。
陸軍が依然と駐屯し、付近は軍事関連工場が発達したため、第二次世界大戦末期には空襲の目標とされ、伏見櫓、坤櫓、二番櫓、三番櫓、京橋門が戦災で焼失してしまった。
終戦直後は進駐軍に接収されて、被災を免れていた紀州御殿も米軍の失火で失ってしまった。
大坂城一帯が特別史跡、残った古建造物が重要文化財に指定され、昭和の再建天守が国の登録指定文化財に指定された。

第1期:元和6年(1620)〜
 千貫櫓、乾櫓
第2期:寛永元年(1624)〜
 金明水井戸屋形、天守、本丸三重櫓群
第3期:寛永5年(1628)〜
六番櫓

多聞櫓
松永久秀の大和多聞城の櫓に由来する様式を持つため多聞櫓の名が付く。
大手門と共に頑強な防御施設となる枡形を形成する。
かつて大坂城に4箇所あった枡形の一つで唯一現存する建造物。
第3期の寛永5年(1628)に造営されたが、現存する建造物は嘉永元年(1848)の再建。
 

千貫櫓
大手門を北西部から防御する重要な二層の隅櫓。
名称の由来は石山合戦のおり石山本願寺を攻めた信長軍にとって難攻不落の櫓がこの付近にあって「落とした者に千貫文与えても惜しくない」と信長が言ったことに由来するという。
第1期の元和6年(1620)の造営で大坂城の遺構建造物では乾櫓と共に最古とされる。
     

乾櫓
西の丸の西北(戌亥)隅を守る隅櫓。第1期の元和6年(1620)造営。
平面がL字型で総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)の珍しい櫓。 屋根上の鯱も3基持つ。

   

一番櫓
南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟(一番櫓から七番櫓)のうち最も東に位置しているのでこの名がついた。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。
もとは乾櫓と同様の総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)大改造され現在の姿となった。
    

六番櫓
二の丸南面の南外堀の内側城壁には要所を固める隅櫓が7棟の二重櫓の一つ。
現存は六番櫓と一番櫓のみ。
六番櫓は第3期の寛永5年(1628)の造営で、徳川大阪城再築の末期にあたり、様式・手法などに初期の乾櫓や千貫櫓とは違った特徴がみえる。
    

金蔵
「かなぐら」あるいは「きんぞう」と呼ばれ、徳川幕府の金貨・銀貨の保管庫であった。
第2期の寛永2年(1625)に二階建でつくられたが、天保8年(1837)に平屋建に改造されている。
腰壁は生子壁で防火・防湿・盗難防止など厳重な装置が見られる。
    

大手門
大阪城の正門にあたり、追手門とも書く。高麗門様式。
第3期の寛永5年(1628)の創建であるが、嘉永元年(1848)に修復が施されている。
   


Dec.2007 撮影:高橋久美子

    

All rights reserved 無断転用禁止 通信員募集中